手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

歳の暮れと才蔵市

歳の市

 

 毎年29日は大掃除をします。去年までは弟子が手伝ってくれましたが、今年はもう誰もいません。私が一人でやります。一階のアトリエと、二階の事務所は私の担当です。二階はさほど汚れてはいませんが、人の出入りの多い、一階は掃除も随分時間がかかります。恐らく一階だけでも一日では終わりません。

 先ず、日ごろ使っている手妻やマジックの道具をチェックします。汚れている部分や、壊れている品物は補修します。金銀を使ったものは磨きをします。スーツケースの隅にたまったほこりも丁寧に取ります。スーツケースだけでも10個以上ありますから、これだけでも5時間以上かかります。

 更に、日ごろ使用している工具類、電動のこぎりや、ドリルを油をひいて磨きます。工具別に分けた小さな箱を一度全部出して、そこに木くずやほこりが溜まったものを捨てて汚れを拭き取ります。これで数時間かかります。

 ほかに、出しっぱなしになっている小道具を所定の箱に収め、壊れた紙箱など修理します。

 また、趣味のCDや、書籍などの整理をしますが、これらはどうしても今日にしなければならないと言うものではありません。細かな整理や修理はすべて明日やることにして、今日は大まかな掃除をします。窓ふき、ガラス拭き、蛍光灯の桟を磨く、トイレの掃除、神棚の埃取り、全て済ませて、正月飾りを飾り立てます。外に門松を立てて、今日のところは終了です。

 

 それでも、今年は自宅の掃除と飾り付けだけでよいため楽です。母親が生きていた頃は、母親の家の掃除や正月飾りもしました。また、奇術協会の役員だったころは協会事務所の正月飾りもしていました。鏡餅と飾りだけでも、アトリエ、二階応接間、二階玄関、三階自宅、母親の家、協会事務所と、6つ買っていました。毎年毎年、年末正月に大きな費用が掛かり、そのためのお金を貯めておかなければならず、苦労しました。それでも家が奇麗になって、正月を迎えられることは幸せです。

 

才蔵市

 江戸時代の暮れには、浅草や深川などで「歳の市(としのいち)」と言う、暮れの祝い物や、食料を売る店が並びました。今で言うなら上野のアメ屋横町の賑わいがそれに近いでしょう。

 それとは別に、日本橋四日市町(日本橋の南側)に、才蔵市(さいぞういち)と言う市が立ちました。これは三河萬歳(みかわまんざい)の相方を探す太夫(たゆう=リーダー)が、人の品定めをして、正月から萬歳をして回るための相方探しの市です。三河万歳と言うのは門付け芸人で、正月になると町中を歩いて、家の前で萬歳を披露して、祝儀をもらう芸人のことです。三河(愛知県)から江戸までやって来て、鼓を持ち、数え歌や、めでたいセリフを並べ立てて正月を祝ったのです。

 この三河萬歳が、その後万歳になり、さらに漫才となって、今の漫才として残りますが、喋りながら面白おかしなことを言うのは今も昔も同じですが、江戸時代のそれは、かなり宗教がかっていて、五穀豊穣の祈りとか、天下泰平、無病息災などの呪い(まじない)を言いながら、時に面白い替え歌などを唄うと言うもので、芸の本来は笑いよりも呪いが主流だったのです。

 この三河萬歳は、立派な装束を着ていて、相撲の行事のようなきらびやかな衣装を着ている人が太夫。脇で立っつけ袴(裾を縛った軽装の袴)を付けている人が才蔵です。

才蔵と言うのは、真面目くさって呪いを唱える太夫を脇で茶かす役です。江戸の初めのころは、太夫と才蔵が二人で三河から来て、江戸中を回って歩いたようですが、時代が下って来ると、二人して江戸に出るのは随分と費用がかかりますので、大夫だけが江戸に行き、年の瀬に、才蔵市で才蔵を探し、一日、二日、稽古をつけて、正月から江戸を回ったようです。

 もうすでに江戸の半ばで、萬歳は大夫が一人で仕切れるようになっていて、大夫だけがしっかり呪いや数え歌が出来れば、相方は臨時雇いを使って間に合ったようのです。今でも漫才の中には、相槌を打つだけの相方などと言う人がいますから。江戸時代でもそれで成り立ようになっていたのでしょう。

 その相方は、多くは房総(千葉)方面からやってくる季節労働者で、農閑期に江戸で何か職を探そうとしてやって来る人が大勢いたのです。千葉県は江戸時代はとても不便な地域で、今の市川、行徳あたりは沼地で交通の便が悪く、総武線が開通する前は、多くは船に乗って江戸にやって来ました。木更津からは、木更津往還(きさらづおうかん)と言う船が毎日日本橋までやって来ました。

 日本橋四日市町近辺は、木更津往還の船の駅だったわけです。当然、房総の労働者たくさん集まっていたのです。太夫は、この中から喋りの達者な人を探して、コンビを組むわけです。江戸を回っていた三河萬歳は大勢いましたから、みんながここに集まり、相方を探すようになると、いつしか才蔵市が立つようになります。房総の労働者の方でも、上手く選んでもらえれば、その日から宿と食事代がもらえ、萬歳をするたびに歩合給ももらえます。正月から半月、町中を回って金を貯めてその後、房総まで帰って行けば、いい生活が出来たのです。

 但し、才蔵になるにはやはり才能が求められ、当意即妙の受け答えが出来なければいけません。才蔵の能力によってその年の祝儀のもらいが大きく違いますので、太夫とすれば有能な才蔵選びに必死です。

 やがて、このスタイルが定着すると、太夫も、巧い才蔵は手放すことが出来なくなり、来年の約束をして別れることになります。そうなると、才蔵は固定化され、市で才蔵を探す作業は廃れて行きます。三河太夫と房総の才蔵は定着しましたが、コンビは例年同じになって行きます。

 何とか、三河萬歳太夫に買ってもらおうと、年の瀬に江戸の寒空に立ち尽くす房総のお百姓出身者は、徐々にはじかれて行ったわけです。いつの時代でも、一攫千金の芸人になるチャンスを手に入れるのは難しいようです。

続く