手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日々のこと 3

日々のこと 3

 

 信夫恕軒と言う、全くマジックをしない人が一蝶斎の舞台を見て、文章を残し、そこからある日の柳川一蝶斎の芸が浮かび上がってくる、というのは大発見です。無論、一蝶斎は当時の有名人ですから、多くの人の記録にその演技や、名前が残っているはずなのですが、実際には多くの観客の日記と言うものは失われてしまっています。今では詳細な演技と言うものはなかなか記録に出て来ません。

 信夫恕軒にしても、一観客としては、自身の興味のところは詳しく書いていますが、興味のないところは何も書いていない部分もあります。例えば、一蝶斎が語った口上などはほとんど書かれていません。一蝶斎がどんな話し方をして、どんな癖があったかなど、断片でもわかると面白いのですが、いまだ闇の中です。

 また、そもそもこの当時は、太夫に対して、才蔵(さいぞう)と言う相手役がいるはずなのですが、この文章からは、才蔵の存在が全く書かれていません。

 才蔵とは名前ではなく、役名です。狂言の大名に対して太郎冠者のようなもので、コンビによって芝居が進行します。才蔵は今日のアシスタントではありません。むしろ漫才のコンビのような互角の力を持っています。

 場合によっては、太夫が老齢化して、太夫の役を若い者に譲り、当人は才蔵に回ると言うこともあったのです。若いうちは、手妻の技は覚えても、千差万別の観客を相手に当意即妙の受け答えをすることは難しく、ましてや、身分制度の厳しい時代でしたから、うっかりしたことを言って、地位の高いお客様を怒らせたりなどすると、何かと難しいことがあったわけです。

 すなわち才蔵は簡単に務まる役ではなく、老齢な手妻師が、才蔵役に回った方が舞台そのものが大きくまとまるわけです。一蝶斎には長年勤めていた、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)という相方がいて、彼は元噺家で、喋りは達者だったようです。常に舞台上にいて、太鼓を打ったり、横からギャグを飛ばしたり、演技の道具出しをしたり、口上を手伝ったりして、常に太夫と一緒に行動をしていました。

 信夫恕軒の記録には、一蝶斎の演技のみに注目し、鉄漿坊主のことは全く書かれていません。人の興味は飽くまでその人の興味が中心ですので、演技上重要なことであっても、当人に興味がなければ、記憶から飛んでしまいます。

 但し、時に、何気ないその日のアドリブのようなことが観客の記憶に残ったりすることもあります。恕軒が蝶の演技を説明している中に、蝶が頭に停まった、と書かれているところがあるのは、恐らく通常の型にはないものだったと思います。たまたま蝶が飛んでいるときに、風で煽られるなどして、一蝶斎の頭に停まったのでしょう。

 もしそうなら禿げ頭の一蝶斎の頭に蝶が停まって、かなり客席が湧いたと思います。あるいは、ひょっとして、鉄漿坊主の頭に停まったのかも知れません。そしてそれが型だったのかも知れません。もしこれが型であるなら、一蝶斎は真面目に蝶を飛ばしていただけでなく、演技の中に笑いも取り入れていたことになります。

 

 一蝶斎は、30歳くらいには蝶の演技を完成していたようです。そして、天保13年、55歳となると晩年に差し掛かる時期です。もう演技そのものは熟していて、大きな変化はなかったと思います。

 一蝶斎の演技は、扇子の上に蝶を停めたり、扇を畳んで横笛に見立てて蝶が横笛を伝ったりします。また、床に落ちた蝶が、扇の風で舞い上がるなどの型を見せた後に、下手花道を歩いて行って、客席の上を悠々と飛んで行きました。昔の花道は、奥に行くと桟敷を回り込むように、コの字型につながっていて、下手の花道につながっていて、下手から舞台に戻って来る型が普通に行われていたようです。

 ある観客の手記には、一蝶斎が花道をぐるりと巡って戻って来ると、その間に舞台一面菜の花畑になっていたと言う記録があります。一蝶斎ほどの人気手妻師で、しかも、蝶の演技が取りネタだったとするなら、単に蝶を飛ばして、紙吹雪だけで終わらせたのでは少し寂しいと感じたのかも知れません。

 菜の花畑の中で、二羽蝶になり、そして千羽の蝶を飛ばしたなら、かなり陽気な派手な結末になったと思います。現代の蝶は、蝶をよりシンプルに見せ、まるで水墨画のように、枯淡の境地を再現することで、幽玄の世界を見せることが主眼になりますので、あまり余計な演出はつけないのですが、華麗な蝶の世界があってもいいのかも知れません。

 何にしてもこのころは、毎年、浅草で一、二か月興行して、それが連日満員だったと言います。一蝶斎の手妻は、江戸見物の看板芸で、江戸に来たなら一蝶斎を見ることは、観光コースの一つだったようです。

 

 ところが、天保13年以降、一蝶斎は西国興行に出ます。それも3年弱に渡って江戸を離れます。なぜ江戸を三年も離れたのかと言うなら、水野忠邦天保の改革が始まり、あらゆる贅沢が禁止され、芝居や興行が軒並み中止になったためです。特に、当時の江戸の有名な芸人だった、一蝶斎は、早くから政府に睨まれ、役人からいろいろな嫌がらせをされたそうです。

 同様に、歌舞伎の市川團十郎も芝居ができないように様々な邪魔をされ、しまいには江戸十里四方(半径40㎞)の所払い(江戸に入って来てはいけない)。という罪になり江戸を追放されます。やむなく団十郎は関西に行き、西国の農村での小屋掛け興行などをして生きて行ったようです。

 一蝶斎の西国行きは、名古屋で半年、大坂で一年近く興行し、最終的には安芸(あき)の宮島にある芝居小屋で半年興行したと言う記録があります。この事は以前に一蝶斎の一生をブログに書いていますので、重ねては書きません。

 但し、例えば、名古屋の後、大坂に行くまでの間、どこかで興行していないかどうか、大坂から安芸に行くまでの間、どこかに出ていないかどうか、何らかの資料はないかと、いろいろ探っていますが、今のところどこにも資料がありません。

 ここのところは、自著、新潮選書「手妻のはなし」で詳しく書いてありますので、ネットなどで古本を探してみてください。ただ、一蝶斎の西国行きは、虫食いのスケジュール表のままですので、少しでも分かればいいがと思っています。

続く