才蔵 4
さて才蔵の話もそろそろまとめなければいけません。昭和の手妻師、一徳斎美蝶や、帰天斎正一は、大夫才蔵の形式を残して手妻を演じた最後の手妻師だったのですが、その後、大夫才蔵の形式は失われて行きました。
全く失われてしまったわけではなく、水芸には今も太夫と才蔵の形式が残されています。ところが、水芸を残している松旭斎では才蔵役を、「からかい」と呼んで、才蔵とは言いません。それはなぜなのか。実は、松旭斎の系譜の中で才蔵は継承されなかったのです。
現代の我々から見ると、松旭斎も、帰天斎も、古典の手妻の一派のように見えますが、両派は明治に生まれた西洋奇術の流派です。初代松旭斎天一も、初代帰天斎正一も、共に舞台では洋服を着て、当時日本に入ってきた、西洋奇術を演じて、互いが、「元祖、西洋奇術」。を名乗って興行を打っていたのです。
それがなぜ、その後手妻をするようになったかと言うなら、旧派を吸収して行ったためです。明治期に至って西洋奇術が流行り、それに反比例するように従来の手妻が廃れて行きます。
そうした中で、江戸時代から続く、柳川、養老、滝川、鈴川と言った多くの手妻師は、着物を脱いで、洋服に着かえ、西洋奇術の道を選択します。その過程で、従来の手妻の演目も、大夫才蔵の形式も、型や振りも失われて行きます。
無論、手妻の形式を残し、守って行こうとした手妻師もいたのですが、明治10年代から手妻は徐々に時代の波に呑み込まれ、明治20年代の半ばまでにはほとんどの手妻師が、西洋奇術師に変身して行きます。
その西洋奇術師の道も、初めの内は物珍しさで稼ぎもよかったのですが、お客様の目も慣れて来ると、西洋奇術だからと言って人が来ることはなくなります。当然のごとく、その内容が優れたものでなければ生き残れません。西洋奇術師も、手妻師も、さまざまに合従連衡(がっしょうれんこう)して、やがて大きな流派(松旭斎、帰天斎)の一派に加わって、生きて行くようになります。
松旭斎のような大きな一座では、奇術の演目が足らず、天一も、弟子も、常にネタ不足に苦しんでいました。そこへ、よその流派で修業した奇術師が入って来たため、彼らの持ちネタを弟子や、天一自身が継承して行きます。
実際、西洋奇術を看板にしていながら、天一は、生涯水芸を得意の演目にしていましたし、蒸籠や、おわんと玉、なども松旭斎の弟子に受け継がれて行きます。その際に、西洋奇術の流派であるがゆえに、従来の型から離れて、時として西洋奇術に見せかけた演出をしたり、道具の外見を作り変えたりして、手妻を演じて行きました。
実際天一は、水芸を生涯、大礼服(軍人の着る礼装)で演じていましたし、才蔵役は蝶ネクタイをつけて、助手、からかい、と呼ばれていました。然し、やっていることは江戸時代以来の才蔵の役割です。結局、松旭斎の一門は、才蔵と言う専門職がいなかったために、水芸の時だけ、弟子を使ったり、実際の役者を雇って、からかいとして使っていたのです。
才蔵は、水芸の初めに口上を述べ、大夫が水を出しているさ中も、余計なことを言いながら掛け合いをして笑いを取り、時に失敗をして自分の頭から水を吹き出し、お終いには木頭(きがしら)を打って、幕を閉じます。こうした仕事は江戸時代、あるいはそれ以前から続く、才蔵そのものです。
明治期にはやった西洋奇術も時代と共に、形式も、内容も大きく変化をして行きます。松旭斎の一門では、明治の末年に日本の古典ものが見直される機運が生まれた時になって、着物を着て演じる手妻が復活します。天一の弟子の天勝の時代に、水芸は和服に戻ります。併せて、才蔵も従来の才蔵衣装に戻ります。然し、助手と言う呼び名も、からかいと言う呼び名もそのまま残されました。松旭斎ではそれがそのまま今日まで残ることになったのです。
この時、才蔵の役割も巧く継承されればよかったのですが、西洋奇術の一派の中では、才蔵役は育たないまま今日に至っています。
然し、水芸は古典を意識すればするほど、才蔵の役割が重要になって行きます。口上の言い回し、型、役割など、才蔵を役としてしっかり演じないと、ただのおちゃらかしのコントになってしまいます。その都度とりあえず誰かに任せていては芸能としての評価は得られません。大夫になりたがる人は多いのですが、水芸で最も大切なのは、才蔵の仕事をしっかり形として継承することです。才蔵こそが手妻の要(かなめ)なのです。ここが演じ切れていないと水芸は古典にはなりません。
ところで、帰天斎派ですが、初代、二代目までは西洋奇術師として看板を出していたのですが、三代目から流れが変わってきます。初代の帰天斎正一は、喋りが達者で、「あなた、これ見るヨロシ」などと言う、おかしな日本語を使って、西洋奇術を演じていました。今でも時々、インチキ中国手品師が、「よく見るヨロシ」などとおかしな口調を使いますが、あれは明治の帰天斎正一のセリフそのままです。明治に初めて帰天斎を見た人は帰天斎の一言一言に爆笑したことでしょう。
人気があって、生涯収入に恵まれた帰天斎でしたが、晩年に至って、弟子が自分を真似て生きて行く姿を見て「この生き方は長くは続かない」。と考えたようです。
弟子にしっかりとした芸を学ばせたい。と考えている時に、正一の友人の三代目柳川一蝶斎が、手妻の継承者を探していることを聞き、弟子の帰天斎小正一(後の三代目帰天斎正一)に手妻の一通りを習いに行かせます。
三代目の柳川一蝶斎は明治末年に残された手妻の演じ手で、三代目の演じる蝶は、初代柳川一蝶斎からの直伝でした。その芸の評価は晩年に至って、明治天皇に手妻を披露するなどして、手妻の再評価につながって行きます。然し、最晩年に至って寄席も休みがちになり、いよいよ手妻の将来を慮(おもんばか)り、小正一に芸を譲ります。
手妻は西洋奇術の、しかもお笑いトークマジシャンの一派が手妻を受け継いだことで残ります。ただ、三代目帰天斎は一蝶斎から蝶などの手妻を習いはしても、若いころは殆ど演じなかったようです。それが、戦後になって進駐軍(日本を占領したアメリカ兵)が日本にやってきて、彼らのキャンプでショウをするようになります。
帰天斎は、そのショウの演目として、日本的な芸を求められ、試しに蝶を演じてみると大人気で、ギャラのランクは日本の芸能の中でトップに置かれ、一躍米軍キャンプで大忙しになりました。以来帰天斎は手妻に特化し、形式も、三代目一蝶斎に習った通りの形式に戻し、古い手妻が残されたのです。
今、私の家には、三代目帰天斎の衣装や、手紙などが残されています。その書簡を見ると、手妻を残して行くことの苦労が切々と書かれています。本来手妻と対峙するはずの西洋奇術の一派が結果として手妻を残す立場になったのは皮肉です。でも、どういう形であれ、作品や演じ方が、昭和の40年代まで残されたことは、その後の手妻の維持発展にどれほど役立ったか知れません。お陰で我々は今日手妻が演じられるのですから。
才蔵終わり