江戸時代の手妻
今、和妻と言うと、一人で出て来て、音楽を流し、ひたすら傘や扇子やシルクを出すマジックを指すようですが、実際江戸時代から伝わって来た手妻(明治になって、手妻は、洋妻=西洋マジック、和妻=和の手妻と呼ばれるようになりました。但しこれは楽屋符丁であって、一般にそう呼ばれていたわけではありません)は、ああしたやり方ではありません。
まず傘はほとんど出しませんでした。出しても一本出すくらい。まとめで何本も出す場合もありましたが、それは、夕涼みとか、蒸籠(せいろう)を演じる時のお終いにまとめた帯の中から6本くらい出す程度でした。
そうなら、手妻は何を演じていたのかと言えば、先ずそのスタイルが今とは違います。太夫と呼ばれるマジシャンに対して、才蔵と呼ばれるアシスタントが付いていて、大夫と才蔵による掛け合いの喋りのマジックが中心でした。蒸籠を演じる時でも、引き出しを演じる時でも、必ず口上が入り、太夫の口上を述べる間に、才蔵は必ずからかいを加え、余計なことを言って、お客様を笑わせていました。
単純にこの関係は必ずしも師匠と弟子と言うわけではなく、中には五分の力で見せている手妻師もいたのです。蝶の手妻で一世を風靡した柳川一蝶斎は、才蔵役に、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う三枚を使っていました。鉄漿と言うくらいですから、歯が真っ黒だったのでしょう。然し、実際に鉄漿をしていたわけではなく、恐らく虫歯で黒くなっていたか、煙草の脂(やに)で黒くなっていたのでしょう。
この鉄漿坊主が脇でくだらないことを言ってお客様を笑わせ、一蝶斎はそれをたしなめたり、誘いに乗って話が脱線したり、掛け合いをして話術の巧みさを見せたり、めでたいセリフを語ったりしていたのです。
鉄漿坊主はかなり長い間、一蝶斎の才蔵を務めたようです。恐らく、相当にいい給金を取っていたと思われます。達者な喋りで、時に太夫の急場を救ったりもしたのでしょう。
実際断片的ではありますが、一蝶斎と鉄漿坊主のセリフは残されています。鉄漿坊主は、蝶の演技の最中にも、ギャグを加えて笑わせていたようです。そのことは幕末に日本に来たイギリスの外交官が、一蝶斎の蝶の演技を詳細に記しています。そこには、「脇でひたすらギャグを言って笑わせるアシスタントがいて、うるさく太鼓を叩き続けていた」。と記されています。イギリス人には評判が悪かったようですが、同時に幕府の役人は鉄漿坊主の喋りを聞いて、笑い転げていたと書かれていますから、才能ある人だったのでしょう。
今の時代に蝶の演技にギャグを加えることはありませんから、江戸時代の蝶と、現代の蝶とではかなり演じ方に違いがあります。
大夫才蔵の掛け合いの形式は、明治になってもずっと続き、三代目柳川一蝶斎も同様なやり方だったですし、明治末年に、三代目一蝶斎から習った、三代目帰天斎正一も、後に息子の正楽を使って、大夫と才蔵の関係を最後まで維持していました。
同様に大正末年に、三代目養老瀧五郎から習った一徳斎美蝶も、弟の蝶二を使って、大夫才蔵の形式で手妻を続けていました。晩年蝶二がいなくなってからは、奥さんの三味線に合わせて、一人で曲芸と手妻を演じ続けました。
一徳斎美蝶と言う師匠は、私が13歳くらいまでは舞台に出ていましたが、私が拝見したのは一度限り、最晩年で体も衰えていたのか、全く好印象として残ってはいません。積み木を積み上げる曲芸と、傘を一本出す芸を見ただけでした。これをして名人と言うべきかどうか、評価を下すには私があまりに 幼かったので何とも言えません。
帰天斎に関しては、幸いにビデオもテレビの映像も残っています。とても小さな人で、頭が禿頭で、金襴の裃を着て、背筋を伸ばしてきっちりと蝶を演じています。才蔵役の正楽さんが、間間に口上を述べながら、時おりギャグを加えております。この蝶が恐らく、初代一蝶斎の形式を一番よく残している蝶だと思います。
いずれも手妻は大夫才蔵の掛け合い芸だったのです。この大前提が今は失われてしまって、スライハンド(手わざ)で傘や扇子を出すことが手妻、和妻だと思ってされている方が多いのは残念です。それもアマチュアさんが勘違いしているなら許されますが、プロがそのことを了解していないで、喋りの芸を学んでいないのは問題です。
私の一門では積極的に喋りの芸を加えています。江戸時代の雰囲気を残した語り口や、口上が加味されると、芸そのものに厚みが生まれ、面白さが倍加されます。二十年ほど前までは、古い喋り口調が出て来ると露骨に詰まらなそうな顔をするお客様がいたのですが、このところは普通によく聞いてくれますし、むしろ古風な喋りを喜んでくれます。長らく手妻の喋りを残そうと活動を続けて来たことが理解されてうれしく感じます。
古い喋りネタで一番苦労するのは、昔のセリフで今は全く使われることのなくなった単語です。これは言っても伝わりません。そのため別のセリフに言い換えることにしています。金輪の曲や12本リングの造形には、今は使われなくなった単語がたくさんあります。
今、オリンピックの五輪の輪、と言っている造形は、梅鉢(家紋)と言っていたものです。ハンドバックは網篭です。両翼を広げて下に二輪の輪があるものを自転車などと言いますが、これは元は平家蝶(家紋)です。菱紋の後に横一列につながるものは今はアウディのマークなどと言っていますが、吉原つなぎの模様が本来です。
今の時代にそれを言っても一切通じなくなってしまいました。ここはあっさり別の名称に変えたほうがよく伝わります。形造りはそれそのものが「見立て遊び」ですから、オリンピックでもアウディでも何でもいいのです。
分からないからと言ってすべて変えてしまうのは良くないことですが、変えなければ生き残れないとなれば、変えることも大切です。無論、新しければいいと言うわけではなく、と言って、古い物をそのまま残していてもお客様は減って行くばかりなのです。要は芸能を残すと言うのはセンスの問題なのです。
続く