手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

巡り巡って同じこと

 ロックダウンや、自粛要請を解除すれば、今まで潜んでいたコロナウイルスがまたぞろ這い出してきて感染者を増やすのは当然のことなのです。結局自粛要請と言うものは感染を引き延ばすだけのことで何ら根本的な解決にはなりません。

 私はスゥエーデン方式のように、一切の自粛要請をせずに、むしろ初手に感染者を増やし、感染者が完治したのち、免疫力をつけることで、ウイルスの感染を防ぐことの方が理にかなっていると思います。スゥエーデン方式は、初手に爆発的に感染者を増やすために、多くの国は敬遠しますが、これは結果は同じことです。初めに感染者を増やして、徐々にウイルスの感染を狭めて行くか、とにかく、ロックダウンして、一時的に感染者をストップしてウイルスを抑えるか。

 一見、ロックダウンの方に効力があるように思いますが、問題は、感染を完全に抑えきれないことなのです。実際日本も、学校を閉鎖したり、会社を休業にしたりしましたが、その間、院内感染が増えたり、闇で営業している風俗店やパチンコ店で、感染者を増やしたり、ウイルスはどんどん漏れて繁殖します。ウイルス撲滅は不可能で、わずかでも生き続けるのです。それが非常事態解除となれば、一挙に感染を開始します。つまり、特効薬も、ワクチンも作られていない現状では、ロックダウンも、スゥエーデン方式も同じ結果になるのです。

 そうであるなら、経済を重視してあえて封鎖をしないスゥエーデンのやり方のほうが、その後の経済活動にはメリットが大きいと思います。と、こう書くと、「何にも対策をしないで、野放し状態のブラジルは、感染者を大幅に増やして、終始つかなくなっているが、それでもいいのか」。と言う人がありますが、何もしなくていいと言うわけではありません。

 スゥエーデン方式が成功するには、医療制度がしっかり整っている国で、衛生管理が行き届いていて、国民の理解が得られている国においてのみ、効力を発揮します。それが整っていない国が真似たなら、国の崩壊を招きます。

 但し、日本が、もし初めからスゥエーデン方式を取り入れていたなら、さほどに大きな感染者にもならずに、経済の混乱もなかったのではないかと思います。

 そもそも、日本は、早くからコロナウイルスの感染者がいて、初期に、少なからず免疫力を持った人がいたことが感染を抑えたのではないかと言われています。これは正解であろうと思います。そうでなければ日本の方式でどうして感染者を抑えることが出来たのか、説明ができません。初手の日本はミスを連発していたのですから。

 今になって、日本はすごいと世界から賞賛を受けていますが、それは日本方式が成功した成果ではないと思います。仮に今年の冬に、ウイルス2が出てきたなら、日本は爆発的に感染者を増やすでしょう。さて、その時に、ロックダウンをしますか、スゥエーデン方式を取り入れますか。もうロックダウンは効きませんよ。これから先、自粛を求めたなら、日本企業が倒産します。そうなれば日本人は生きて行けなくなります。

 日本だけでなく、ロックダウンは世界中の国が仕事を失う結果になり、とんでもない不況に見舞われてしまいます。現に、アメリカやイギリスでは不景気が進行しています。韓国もこの先どうなるかわからない状況です。

 私たちは、つい半年前までは世界中どこでも観光することが出来ました。ショウの仕事も、どこへでも行けたのです。しかし今はどこの国にも出られません。

 ロサンゼルスのマジックキャッスルも、従業員やコックを解雇して、無期限休業をしています。仮に今、キャッスルが再開したとしても、街中で黒人の暴動があって、おいそれとアメリカにはゆけないのが現実です。アメリカともあろう国が一体どうしてしまったのでしょう。コロナと不況と人種差別。この三重苦は今後、アメリカに深い災いの種を残すことになるでしょう。解決には多くの時間を要すると思います。私が生きているうちに、再度キャッスルに出演できるでしょうか。難しいかもしれません。

 

 帯状疱疹と打撲

 どうもこのところ私は災難続きです。幸いに、帯状疱疹はだいぶ収まりました。額に小さな後は残っていますが、ずきずきする痛みはなくなりました。薬の成果です。

 症状が収まって良かったと思う間もなく、2日の日には、浅草で転倒です。これは多分に運動不足です。毎日動かないために体がなまっていたのです。昨日は整形外科に行き、レントゲンを撮りましたが、骨折にはなっていませんでした。1日に日本舞踊が再開されたばかりで、よかったと思っていたのですが、今日はその舞踊の2回目の日でしたが、足が言うことを聞きません。仕方なく休みです。もっともっと舞踊をして、雰囲気を身につけたいのですが、そうもいきません。しばらくは静養です。

 

神田明神玉ひで

 12日、26日には神田明神の伝統館で手妻の講演をいたします。12時から、鯛めし弁当が付きます。豪華の弁当を食べて、5600円です。人数に限絽がありますので、お早めにお申し込みください。

 13日は、人形町玉ひでで、親子丼と鶏料理のコースで手妻を見る会をいたします。座敷で致しますが、全席椅子を用意いたします。30人限定です。12時から致します。私のほかに、日向大祐、ザッキー、前田将太が出演します。よろしくご支援ください。

こちらは12時から、5500円です。

 

 20日21日は猿ヶ京の合宿をいたします。群馬県の猿ヶ京にある稽古場で泊まり込みのマジック合宿をいたします。温泉もありますし、宿泊もできます。軽いハイキングをいたします。気分を変えてリラックスしてご参加ください。あと2名、車に余裕があります。参加費1万円、(事前に習いたいものをお知らせください)。食事代4食3000円。交通費、実費の割り勘。3000円程度。お早めにお申し込みください。

東京イリュージョン 03-5378-3883

続く

 

伝統芸能が危ない 4

 昨日は浅草に出かけ、買い物をしました。ところが、そこで転んでしまったのです。右足を滑らして、足が左右に大きく広がり、また裂き状態で転びました。然し、その場は立ち上がって、大したこともなく、その後も買い物をしました。夕方に自宅に戻り、寝る段になって、左足が動きません。やむなくそのまま寝ました。そして、朝起きると、階段が下りられません。今は痛いままブログを書いています。

 この後、鼓の稽古をして、そのあと病院へ行こうと考えています。12日の神田明神、13日の玉ひでの舞台が差しさわりなければよいがと思います。

 

7、その他の伝統芸能(手妻、曲芸、曲独楽、軽業、車人形、写し絵等)

 1、能狂言、2、歌舞伎、3、文楽、4、落語、と、この四つのジャンルは、専門の劇場を持って活動しています。それに比べて、5、舞踊、6、邦楽、7、その他の芸能は専門の劇場がありません。(車人形は八王子に専門劇場があります)

 専門劇場があれば、一年中公演が可能で、そこで若手も、裏方も育てることができます。劇場には長く支援してくれているお客様がいて、毎日公演ができます。然し、劇場を持たない芸能は、お客様も、若手も、裏方も育てることができず。どんどん、じり貧の状態に陥ってしまいます。仕事先も、常に、新たな場所で演じなければならず、市民会館などの伝統芸能の催しなどに呼ばれて公演しても、常にその場その場の観客では、支援者のできようもありません。

 何とか、芸能が根付いてくれればよいがと考えつつも、果たせぬまま社会から徐々に取り残されてゆきます。

 この中で、一部の曲芸、曲独楽、手妻は噺家の寄席に出て、色物として活動しています。そこに出ている限りは出演場所に不安はありません。但し色物ですから、身幅を小さくして生きて行かなければなりません。

 

巨大な江戸時代の曲芸、曲独楽

 私は、江戸時代の軽業や、曲芸、曲独楽の浮世絵を見ると、その時代の壮麗な芸能がいかに多くの人々に支持されていたかを垣間見ることが出来ます。座員も40にから50人を擁し、曲独楽だけで単独に800人も千人もの劇場をあけて見せたのです。

 足芸で仰向けに寝て、唐船(からふね、真っ赤で派手な中国船)を足で持ち上げ、船に子供を二人乗せ、その船のへさきから水が吹き上がる仕掛けや、背中に3m以上もある竹竿を差し、その上に子供を縛り付け、上の子供と下の親父とで、独楽を羽子板を使って、上から下に飛ばし合ったり、三尺(1m)もの大独楽を、縄で巴にくくり、両側から二人掛りで縄を引っ張ると、大独楽がぐるぐると回転し、拍手喝さいの中、独楽が二つに割れて、中から金太郎の格好をした子供が現れて踊りを踊る。

 こうした大仕掛けの曲芸、曲独楽が日常行われていたのです。そんな曲芸や、曲独楽をもう一度今に再現したらどんなに楽しいでしょう。そんな人たちとなら、一度組んで、手妻の興行と一緒になって、市民会館などで興行したなら、多くの現代の観客は大喜びをするだろうと思います。

 しかし、残念ながら、意欲のある曲芸師や曲独楽師に出会うことはありません。現代の曲独楽師、曲芸師はいつしか小さな身幅で生きているうちに、大きく羽ばたくことを諦めてしまっています。先祖の遺産がありながら生かせないのは残念です。

 

サーカスにわずかに残る軽業、綱渡り、

 軽業は、玉乗りや、綱渡りなど独特の芸能があったのですが、多くは明治期にサーカスの方に移って以来、マジックや手妻とのつながりが絶えてしまいました。今ではサーカスそのものが下火ですので、なかなか復活も難しいのではないかと思います。

 足芸、綱渡りなどは、幕末期から明治にかけて、欧米で日本の芸能が大当たりしたのですが、今、その頃の芸能を残している軽業師をほとんど見ることがありません。暁あんこさんという若い女性が、日本の足芸を残していますが、それ等は稀有な芸能です。

 

車人形、写し絵

 車人形は、文楽の原型のような人形芝居で、そろばんのように、車輪のついた台に尻を乗せ、体を屈しながら、一人で人形を扱います。当然3人遣いの文楽よりは動きが単純ですが、そこはそれなりに美しい動きをします。題材は文楽同様に、浄瑠璃物(義太夫狂言)が主になっています。かつては八王子近辺の集落を回って興行していたようですが、今ではその維持も簡単ではないようです。

 写し絵は、日本式のスライドで、蝋燭灯りで、スライド機械に種板(映像の板)を入れて、映像を壁に写します。これを浄瑠璃に合わせて芝居仕立てにして進行させて行きます。江戸から明治にかけて随分流行ったようですが、今は見ることも稀です。

 

 車人形も、写し絵も、文楽同様、浄瑠璃物を演じているため、現代人に受け入れられるには少々難しいものがあります。然し、仮に専門劇場があれば、連日内容を変えて番組を組むことが出来ます。

 

なぜ専門のマジック劇場ができないか

 良くマジック関係者の中で、「なぜ、マジックで専門劇場ができないのか」。と不思議がる人がありますが。答えは簡単で、演目が少なすぎるのです。マジックも曲芸も、3日くらいは内容を変えて演じることが出来ても4日目からまた元の内容に戻ってしまいます。そこへ行くと、語り物は昔からの財産がありますから。10日間演じても内容が重なりません。それは落語も同様です。喋りの芸、語りの芸は豊富に残された財産のお陰で別の内容を演じられます。それゆえ、毎日公演してお客様を呼ぶことが出来ます。

 

 マジックが専門劇場を持つと言うことになったら、その内容に何らかのストーリー性がなければ継続してゆくことは不可能でしょう。多くの劇場は、人間の喜怒哀楽を舞台で表現して観客を集めているのです。ただ箱を開けて何かが出て来ると言う芸能では、長く観客を集めることは不可能なのです。こういうと「しかしロサンゼルスのマジックキャッスルはクロースアップや、スライハンドで観客を集めているではないですか」。と言う人があります。仰る通り、

 でも、先ず、マジックキャッスルは専門劇場ではなく、会員制クラブの社交場です。レストランや酒場がメインで、ショウはサービスです。観客が入り口でチケットを支払って入るような形式で、食事もアルコールも出ないなら、観客はもっともっとマジックの内容にシビアになるでしょう。キャッスルはまだまだマジシャンに甘いのです。

 専門劇場を持つために、マジシャンは何をしなければいけないのか。それについてはまた明日お話ししましょう。 続く 

伝統文化が危ない 3

5、舞踊 6、邦楽 (続き)

 かつて、国立劇場の裏の出演者用の駐車場は、ズラリベンツが並んでいました。半分は歌舞伎俳優が乗る車であり、残り半分は邦楽演奏家が乗る車でした。バブルの頃の邦楽演奏家の収入は、伴奏者としてのミュージシャンとしては、最高のギャラを取っていたでしょう。軒並み1000万円以上の年収を得ていたと思われます。伝統芸能がそこまで認められていたことは素晴らしいことだとは思いますが、旧作を守って活動すると言う人たちが、そこまでの収入を得ると言うのはかなり特殊な世界ではないかと思います。

 クラシック音楽でも、一般の交響楽団に所属していては、それほどの収入は得られません。バイオリンでも、ピアノでも、ソリストとなって、人間業を超えた技巧で知名度を上げるか、作曲で人の心をつかむ以外に大きな収入は得られません。その点で言うなら邦楽は恵まれていたことになります。それもこれも、種を明かせば、日本舞踊と言う特殊な世界で演奏していた故です。

 日本舞踊はかつて数万人の門弟を要していました。その中のプロと称する人は100人とか、200人と言ったところでしょう。100人の師範格以上の舞踊家が、万単位の生徒を持ち、年に一回大きな発表会を開いて、生徒の人たちを気分良く舞台に上げるわけです。私も経験がありますが、国立劇場の楽屋を与えられ、顔師に化粧をしてもらい、床山(とこやま、かつらや)さんに鬘を作ってもらい、本衣装を衣装屋さんに着付けてもらい、舞台の上にはプロの清元の演奏家を6人配し、舞台上では歌舞伎役者が紋付を着て、細かな小道具を私に手渡ししてくれます。つまり私以外はすべてプロなのです。

 こんな舞台を一度でも味わうと病みつきになります。但し、下稽古から打ち合わせまで数度の稽古を合わせて300万円ほどかかります。私は一度経験しておこうと、自前で払いました。多くの場合、娘を持つ親が、娘の綺麗な姿を残しておこうと、費用を出すのです。つまり、舞踊とは、プロが総出で素人を持ち上げる組織なのです。国立劇場などで、朝から晩まで一日20番も、30番も素人さんの舞踊が行われ、数千万円の収入を上げていたわけです。

 但し、バブル以降はこれが大幅に縮小されました。それにつれて、舞踊家も、演奏家も廃業する人がたくさん出ました。この傾向に歯止めがかかりません。

 舞踊家演奏家はどうしてこうなったのかと愚痴ります。しかし私は知っています。それは、伝統芸能の活動が現代と何もつながっていないからです。音楽を見ても、現代人が名前を聞けば。「あぁ、あの曲か」。と分かるような音楽が一つもないのです。今の人が求めている音楽を邦楽会は世に出していないのです。振り付けも現代人が飛びつくような作品が見当たらないのです。旧作は結構なのですが、旧作だけでこの先、1000万の収入を得ることなど絶対に有り得ないのです。

 いかに古典とはいえ、今につながっている作品を作らなければ、この先、伝統芸能は生きては行けません。今、面白い作品が出来なければ、100年後に、令和に作られた名作は何だったかと問われたときに、何もなかったと言うことになってしまいます。

 舞踊や、邦楽は、平成になってから創造を放棄してしまったのではないかと思います。それで芸術が生き残れるはずがないのです。みんなして素人に寄り掛かって生活した結果、舞踊も、邦楽も、グローバルなアートから遠ざかってしまっているのです。

 

7、その他、曲芸、軽業、手妻、曲独楽、車人形、写し絵、

 私が平成21(2009)年に、新潮社から、「手妻のはなし」と言う本を出したときに、多くの大学の教授からご連絡をいただきまして、あちこちの大学で手妻の講演をさせていただきました。講演はいまも続いております。日本の伝統芸能を研究している先生方は、文学部に所属していらして、その中でも、歌舞伎、文楽、落語の研究を芸能のメインととらえていらっしゃるようです。我々手妻、或いは軽業、曲芸などは、サブカルチュアーと呼ばれてひとまとめにされています。つまり研究対象としてはその他に属する世界のようです。

 その区別の理由はよくわかりませんが、一つは、歌舞伎や文楽に比べて、資料が乏しいようです。確かに、手妻を調べた時に、資料の不足には随分泣かされました。馬を飲んだと言う、塩屋長二郎ですら、その生い立ちも、死亡年もよくわからないのです。蝶の芸を完成させた柳川一蝶斎も分からないことだらけでした。然し調べてゆくうちに新発見が次々にありました。お陰で、一蝶斎は一つにまとめることができました。

 名だたる目人ですらこんな状況ですから、ましてや、一つ一つの手妻の作品の歴史、変遷などとなると、マジックをしない大学教授にはもうお手上げです。それを私のわかる限り文献を調べて、なおかつ昔の師匠から聞いた言葉、道具の演じ方などをつぶさに書いたため、多くの教授から感謝の言葉までいただきました。

 つまり、これまでは、マジックの歴史や研究などは大学教授に任せっぱなしで、手妻師の側から何一つ発信してこなかったことに問題があります。これでは、如何に手妻の文化が素晴らしいと説いて回っても、その価値は伝わりません。まず自らの言葉で、自らの知識を語って行かなければことは始まりません。

 そのことは、曲芸や、曲独楽、軽業に於いたっては一層切実なことで、曲芸、軽業の芸能は、手妻以上に資料が貧しいのです。特に大道の芸能となると、劇場もなく、チラシもありませんから、いつ、誰が、、どこで、何を演じていたか、そのすべてが謎のかなたなのです。これでは大学教授も調べようがなく、自然にサブカルチュア-の扱いになって、研究対象から離れてしまいます。

 

 話は変わりますが、ここで私は少しでも資料を後世に残す努力をしなければならないと痛感しました。これまで小遣いをためて買い集めた様々な資料などを、この先どう残すか、「手妻のはなし」を書いて以降、私の粗末な資料を誰に譲るか、毎日悩みました。そこで出した結論が、家元制度でした。私自身、家元制度などとと言うものは因循姑息な臭いがして、嫌いでした。

 しかし、私の資料、道具類をこの先どうするかとなると、残すためには家が一軒分必要です。それを弟子に押し付けるのは酷です。自分がアパートに暮らしているような弟子が、家一軒分の道具を譲り受けても、乞食が馬を貰うような結果になります。自分が食べて行けない状態で、馬など養えないのです。

 そうなら、家ごと持参金をつけて弟子に譲る以外ないのです。そして、その維持費のために、生徒の指導をし、生徒から協力費を貰って維持費に当てるシステムを作り上げる以外、組織を維持して行く道はないのです。本来は国がそうしたことの配慮をしてくれるべきものなのですが、いつまで待っても国の支援は来ません。仕方なく私が勝手に家元制度を作り始めたのです。このことはまた家元制度のページでお話ししましょう。

 

 その他の芸能が、いつまでもサブカルチュアーの扱いを受けるのはそれなりに理由があります。次回はその点を詳しくお話ししましょう。

続く

伝統芸能が危ない 2

江戸落語上方落語 

 東京には落語協会落語芸術協会の二つの落語家の組織があり、都内の4つの寄席と契約をして、交互に落語家を寄席に出しています。この二つの協会のどちらかに所属すれば、マジシャンでも寄席に出演できます。寄席のいい所は一年中出演のチャンスがあることです。私も経験がありますが、寄席に毎月出演していると、話し方は覿面に上達します。無論、マジックの技も上達します。良いことづくめです。

 そうならもっともっと多くのマジシャンが噺家と専属契約を結べばよさそうなものですが、そこにはバリアがあります。色物はあくまで噺家より前に出てはいけないのです。噺家はロープの切れ端を舞台に落とすだけでも嫌いますし、花吹雪を散らすことも嫌います。表立っては否定しませんが、人づてに否定されます。なまじ喋りで笑いを取るとたちまち、「しゃべりネタを減らせ」。と苦情がきます。独特の社会です。ここで生きて行くとなると、芸の内容がどんどん退行してゆきます。外に向かって大きく羽ばたきたいと思う若いマジシャンにとっては生きにくい世界です。

 噺家を見ていると、クロースアップマジシャンによく似ています。自分の考えた小さな工夫、小さな世界を観客に理解してもらいたいのです。その世界を崩すような芸人が周囲に現れるとたちまち反発します。小さな小さな個の世界を大切に生きているのです。その芸で稼げるとか、売れるとかは問題ではなくて、自分の世界を守って生きて行きたいのです。そこを理解できる人が寄席で活動できる人なのです。

 これを考えが狭いと言うのは失礼です。寄席は噺家のものなのです。昼から夜まで40本もの噺家が出ます。噺家はそこで揉まれて修行しています。外部の者が噺家の邪魔をしてはいけないのです。自由にやりたければ、マジシャンの劇場を持てばよいのです。

 私が20代で寄席から離れたのは、チームを作ってイリュージョンに乗り出したからです。もっと大きな枠の中で仕事がしたかったのです。

 

 東京の寄席と、大阪の寄席では随分事情が違います。座敷芸から発展した東京の寄席はどうしても小さくまとまりやすいのですが、大阪は小屋掛けから発展した噺がもとになっていますので、噺の間に鳴り物(三味線、笛、太鼓)が入ったり、噺家の前に見台と言う文机のようなものを置き、そこに、子拍子と言う小さなつけを置き、噺の合間合間に講釈のように、子拍子を打ってメリハリをつけます。何事も派手で、大きく見せて、外を歩くお客様を呼びこむ工夫をしたのでしょう。

 然し、上方落語は昭和になってからは漫才に押されっぱなしで、一時期は絶滅寸前だったのですが、昭和40年代に息を吹き返し、今日の隆盛を維持しています。近年では繁盛亭と言う専門の寄席も復活し、噺家の数も増え、安泰と言えます。

 然し、一度消えかけた文化の継承は難しく、東京にある真打制度などと言うものは大阪にはなく、縛りがない分結束も弱いようです。通に言わせると、落語の内容も乱れていると言います。と言うよりも、大阪で古典落語をそのまま演じることが既に難しいのかも知れません。何しろ、吉本興行を脇に見据えた上での落語の維持ですから、生易しいものではないのでしょう。古典でございますと治まっていても、人は支援してくれないのが大阪の難しさでしょうか。

 

5、舞踊、 6、邦楽

 実は、伝統芸能で、大きく支持者を減らしているのはこのジャンルです。かつて、どこの町内にもあった、日本舞踊や長唄三味線のお稽古場がどんどん消えています。清元や、常磐津となるとめったなことでは町中で看板を見ることはありません。ましてや琴の稽古場となると今は昔の物語です。かつてはお屋敷町では琴の音が聞こえ、商店などでは三味線の稽古の音が聞こえたのですが、習い事は全般不調なようです。

 私の知る日本舞踊の稽古場でも、生徒が高齢化して、若い人がなかなか集まりません。今いる生徒さんは、子供のころ舞踊を習っていた人が、子育てが済んで、時間ができたため、再度習い始めたと言う人が多いようです。子供の頃の下地があれば、舞踊に入りやすいでしょうが、全く経験のない人には入りにくいのでしょう。

 舞踊も、長唄も清元も、常磐津も、義太夫も含めて、これらは歌舞伎と密接につながっています。長唄、清元、常磐津は歌舞伎舞踊のBGMです。実際歌舞伎座に出勤して演奏している師匠もたくさんいます。また、舞踊は、その流派の家元が歌舞伎役者である場合が多く見られます。江戸時代に隆盛を誇った歌舞伎も、明治期になって観客を減らします。そのため観客動員の一助にと、素人さんに舞踊の指導を考えます。

 江戸期には専門の舞踊家も振付師もいなかったものが、舞踊の稽古が流行ると専門家が現れます。併せて素人の発表会が盛んになります。そうした愛好家を歌舞伎役者はファンにつけて観客動員を図ります。踊りの発表会は演奏家の生活を助けます。歌舞伎座に出勤しなくても、発表会だけで安定した収入を得る演奏家が増えます。

 プロの演奏家を並べて、歌舞伎の本衣装を着て、国立劇場などで舞踊の発表会をする、と言う愛好家が増えます。彼ら彼女らは一回の踊りに500万円も、800万円も散在します。それでも楽しいと言うお金持ちが、かつては大勢いたのです。然し、それも今や昔話になろうとしています。そうした遊びを喜ぶ人たちが減っています。

 お陰で演奏家も、舞踊家も、歌舞伎役者も支持者を減らしています。かつては広いすそ野を持って活動していた伝統芸能ですが、近年はみるみる生活の場を失っています。この生徒さんは、着物を着ることが趣味で、着物を着て、舞踊の発表会や長唄の会などに行き、また歌舞伎を見に行くことを楽しみとしていた人たちでしたが、そうした愛好家が減少しています。当然呉服屋さんや、和装小物屋さんなども売れなくなってきています。こうなってくると日本文化の絶滅はカウントダウンに入ってしまっています。

 

 冷静に考えてみれば、琴、三味線と言った、古典楽器を習う人が全国で十万人以上いた時代と言うのは、世界的なレベルから見たなら驚異的なことです。クラシック音楽のようにグローバルな音楽なら外国でも、一般の教養として学ぶ人は多くあっても、その国にしか通用しない楽器で演奏したり唄ったり、それに合わせて踊ったりと言う芸能がしっかり根を張って残っていた日本は優れた伝統文化の世界だったわけです。

 疑う前に、中国や、朝鮮半島で、古楽器を演奏する人が何人いるか、それを習っている愛好家が何人いるかと考えたなら、日本の百分の一もいないのではないでしょうか。

 日本は恵まれた環境で伝統芸を維持してきたと言えます。但し、余りに日本文化を理解する厚い層に、おんぶにだっこで、理解者ばかりを相手にしてきたことが、ここへきて大きく理解者を減らしてしまった原因なのではないかと思います。そのことに関してはまた明日詳しくお話しします。

続く

 

 

伝統芸能が危ない

 世の中はうまく行かないものです。昨日7時間も眠ったため、今朝は5時間しか眠れませんでした。またも朝4時に起きてブログを書くことになりました。私はこんな気ままな生活が好きなのですが、体調を思うと、もう少し平均して眠れたほうがいいのではないかと思います。

 

 古典芸能について書いてみましょう。1、能狂言、2、歌舞伎、3、文楽、4、落語、

5、舞踊、6邦楽(長唄、清元、常磐津、新内)7、曲独楽、軽業、車人形、写し絵、手妻、順に簡単にお話しします。

 

1、能、狂言

 能も狂言も健在です。平成になってすぐくらいいから、薪能と言う形式が出て来て、夜にライトアップされて、神社の野外などで能と狂言が演じられるようになりました。以来、能が一般に再評価されるようになり、能役者はにわかに多忙になりました。

 能は本来、日中に演じるものであって、夜の興行と言うものはありません。然し、薪を焚いて、ほの暗い中で能を見ることは能の幽玄さを引き立てます。あちこちで薪能が催されると、それまであまり自らの芸能を一般に売る活動をしてこなかった能役者が、マネージャーをつけるようになり、スケジュール管理が必要なほど多忙になりました。薪能を考えたプロデューサーは能の寿命を救ったことになります。

 狂言も長い事不遇で、日本国中の中学校などを回って狂言の会を催していました。和泉元彌さんのお父さんの和泉元秀さんが私の中学校に来て、狂言をしたのを私は見ています。昭和40年代までは、古典と言えどもなかなか生活してゆくのは難しい時代だったのでしょう。然し地味な学校公演活動が功を奏し、やがて市民会館で、狂言と言うバリューを勝ち取り、今では日本中の市民会館で狂言の会が開催されています。

 また野村萬斎さんなどは、コマーシャルに出て、積極的に顔を売って、創作狂言を一般劇場で見せるなどして活躍しています。とてもいい活動で能狂言の世界を引き上げています。能狂言は、現在のところ安泰でしょう。

 

歌舞伎

 団十郎さんの襲名が飛んでしまったことは、いろいろな点で歌舞伎を不安にしています。先ず松竹が大苦戦です。歌舞伎座で3か月興行し。京都、大阪、名古屋、博多と襲名披露して、その後は日本中の市民会館をあけて、まず2年がかりの襲名公演を企画したものが、コロナウイルスによって、企画はすべて消え、ゼロから立ち上げなければいけません。この先の松竹の存続すらも危ぶまれます。

 無論、歌舞伎にも多くのスター、名人がいますから、あの手この手で盛り上げて行くでしょうが、前途は多難です。

 私が学生だった、45年前は、歌舞伎座は閑古鳥が鳴いていました。歌舞伎はお客様が入らなかったのです。実際歌舞伎座で歌舞伎がされていたのは8か月だけ、間の月は、三波春夫さんのショウや大川橋蔵さんの銭形平次などを実演していました。肝心の歌舞伎は、幹部の俳優が、勘三郎(17代目)さんも。幸四郎(8代目)さんも、歌右衛門(6代目)さんも、みな年を取ってしまって、熱のある芝居を見ることがありませんでした。一人、猿之助(3代目)さんのみが奮闘公演をして、若い観客を集めていました。私も猿之助さんのファンでした。

 当時、私は浅草松竹演芸場に出演していました。私が芝居が好きだと言うことは演芸場の支配人も知っていますから、歌舞伎座から招待札が回って来ると支配人が私のために取っておいてくれました。お陰で度々歌舞伎を見ることができましたが、無料の札が浅草にまで回ってくるわけですから、歌舞伎座の入りは良くありません。名人、人間国宝が出演していても、客席が5割6割の入りがしょっちゅうでした。専門誌には、「歌舞伎は消えて行く」と書かれていました。今の歌舞伎の隆盛は当時を思えば嘘のようです。でも、それだけに、今の繁栄がいつ昭和40年代の状況に戻らないとも限りません。安閑とはしていられないと思います。コロナ以降はどうなるでしょうか。

 

文楽

 文楽は、東京では観客を満杯にしますが、地元の大阪では振るわず、なかなか文楽劇場が満席になりません。かつて橋下徹府知事が文楽を見て、「何を言っているのかわからない。つまらない」。と言ったことは、文楽界にとっても、古典芸能の愛好家にとってもショックでした。

 そもそも東京で、なぜ文楽がよく入るかと言うと、歌舞伎でも、文楽でも、義太夫狂言物の芝居があります。筋は全く同じです。しかし、役者が演じる歌舞伎は、役者が目立って、義太夫が脇に回るためため、ところどころセリフが聞き取りにくくなります。それが文楽の公演で聞くと、人形は喋りませんので、100%太夫さんの語りを頼りに聞くため、筋立てがよくわかります。多くの東京の観客は、まず文楽義太夫を聞いて理解し、そして歌舞伎を見ているのです。それ故に文楽も、歌舞伎も相乗効果で人が入るのです。大阪の文楽の不入りは、もう少し地元の文化に大阪人が理解を示す必要があると思います。300年も前の芝居が、今もきっちり演じられていると言うのは、先進国の中でもずぬけて優れた文化を持っているのですから、大阪ももっと理解者を作る努力をしても良いと思います。「何を言っているのかわからない」。と言うのでなく、相手の言葉を理解してあげる寛容さが必要なのです。それが知性なのです。

 

落語

 落語も、歌舞伎と同様、観客が一時離れ、都内の寄席も存亡の危機の時代がありました。然し、不思議と消えません。これが伝統芸能の底堅さなのかもしれません。もうこの先落語は終わる、と言う時になると新しいスターが出て来ます。私は20代の頃よく寄席に出させていただきました。

 初めの内は、いろいろ工夫をして、珍しい道具などを持ってゆくのですが、なんせ、床の間のような小さな舞台ですから、大きな道具は終わった後の置き場所に困ります。噺家さんも、道具を邪魔がったり、「そんな無理してやらなくていいからね」。と、内輪に生きることを勧められます。段々寄席に慣れて来ると、道具の数も少なくなり、手間のかかる事はしなくなり、徐々に地味な芸になってしまいます。「あぁ、こうして人は諦めて行くんだなぁ」。と思います。

 寄席に限らず、伝統芸能の世界を見ていて思うことは、大きな流れとして、みな諦めて生きています。売れることも、稼ぐことも、自己主張することも、みな周囲に気を使い、目立たないようにひっそり活動するようになります。「それじゃぁいつまでたっても売れないだろう」。と思います。その通りです。寄席に長くいると、行儀の良い、おとなしい、無気力な芸人が育ってゆきます。その生き方を覚えない限り、安い割り(ギャラ)で長く生きて行くことはできないわけです。

 そんな中でテレビに出て、司会などをして、人気も収入も手に入れている噺家もいます。居並ぶ噺家と比べても収入が数百倍違うでしょう。そんな人が同じ寄席に出ているのですから、人間関係は難しいです。陰に回れば、嫉妬は勿論。芸も、人間性も否定されます。人気の噺家は、自分が売れているが故に否定されていることは百も承知ですから、舞台を終えるとすぐに楽屋からいなくなってしまいます。

 売れなければ生きることは難しく、売れたら売れたで仲間から悪く言われます。同業者の集まる仕事場と言うのは難しいものです。

 但し、そうは言っても、基本的に寄席は身内には暖かいのです。何か事があると噺家は結束します。襲名などもそうですし、真打昇進などもみんなで祝います。出演者を決める会議でも、「あいつはこのところ出ていないから出してやろうか」。などと情が優先されます。それが行きすぎると、十年一日のごとくネタの変わらない漫才さんなどが、頻繁に使われたりします。明らかにお客様に飽きられていて、この人たちが舞台に出ると、お客様がロビーに出て、煙草を吸っているような人でも使ってくれます。

 身内かばいが過ぎるのです。良くも悪くも、伝統芸能の弊害はこんなところにあります。しばしば寄席の世界は観客を無視して、身内の理屈を通します。なぜネタの古い、面白くもない漫才を寄席は出してやるのか、長いこと私はわかりませんでした。然し、ある時気付きました。

 噺家は上手い色物(落語以外の芸能、奇術、曲芸、漫談、声帯模写など)が嫌いなのです。色物が笑いを取って、受けたりすると、その後では噺家が霞んでしまうのです。噺家にすれば、古かろうが、受けなかろうが、自分を引き立ててくれる下手な色物が好きなのです。噺家の理屈はそれで通りますが、このやり方では寄席演芸が衰退します。

 私が20代で、初めて新宿末広亭に出演したときに、初めに、北村幾夫若旦那は、喫茶店に私を呼んで言いました。「決して噺家の言うことを聞いてはいけないよ。噺家は君が受けたら受けたで文句を言うし、新しいことをすれば文句を言う、でもそれを押し通しなよ。君がやりたいようにやるんだ。そうしないと寄席に新しいお客さんが来無くなる。君の新鮮さに期待して、僕は君を使うんだからね」。

42年前の幾夫さんの言葉は今も忘れられません。良くも悪くも伝統芸能に脈々と続く、嫉妬と悪平等の世界は今も変わらないのでしょう。

続く

 

うまく行かない日

 さて昨日は朝4時に起きてブログを半分書きあげて、その後、浅草、新宿方面に買い物に行きました。来月になれば、舞台も指導も忙しくなりますので、先ずは毛氈(もうせん)を新調して、気分を変えようと考えました。

 大体3年に一度毛氈を取り替えますが、今回は4年目になります。少し汚れが目立ってきました。限界です。敷物は、毛氈の生地(フェルトです)を買って来て、淵に金襴を縫い付けます。3畳分ある毛氈ですので、淵を縫うのも1日ではできません。大仕事です。でも、綺麗な毛氈の上で手妻をするのは楽しみです。他に、ロープ、茶椀、木ねじ、真鍮棒等、あれこれ買い物をします。費用も掛かりますが、ここは投資です。

 ところが、まだ新宿のオカダヤが布地の販売を始めていません。仕方なく、ここは前田に東急ハンズに行ってもらい、私は、浅草方面に出かけました。然しながら、ロープ屋さんも休み、瀬戸物屋さんも休み、何とか手に入ったのは、だるまと扇子だけ。浅草橋、浅草、合羽橋と5時間近くうろうろして、成果もなく戻ってきました。

 事務所に戻ると、どうも体調が思わしくありません。どうやら日射病に罹ったようです。水分を補給して、ガリガリ君を食べたら少し調子が良くなりましたが、一遍にくたびれてしましました。やむなく何もできずにその日の事務は終了です。

 なかなか思うようにはうまく行きません。

 

 そして翌日、すなわち今日、5月30日ですが、昨日不調だった分、夜はよく眠れました。そのため、早朝に起きてブログに向かおうとしたのですが、朝8時を過ぎてしまいました。事務作業に追われ、ブログが書けませんでした。

 デスクに向かうと、いくつか仕事の話が来ていました。全くこの先、舞台のチャンスがないわけではないようです。かなり大きな仕事も来ています。来月は名古屋で水芸の仕事があります。秋にはクルージングの仕事も決まっています。来年には蝶から水芸から、生演奏を交えて市民会館で公演する企画もあります。こんな話が毎月一二本あれば私のチームは生きて行けます。

 あと半年、少ない舞台回数を辛抱すれば、年明けには元の活動に戻るでしょう。然しそれもこれもコロナウイルスの第二波、第三波が来なければの話です。また、関東大地震も心配です。月末に地震が来ないとも限りません。心配の種は尽きませんが、何が起こっても強く生きて行かなければなりません。

 さて、ブログを書こうかと思いましたが、雑用が多くて思うようにはかどりません。私の文章を期待してお読みになっている読者の皆様には失礼ですが、今日はこの辺で終わります。

また明日。

 

 

手妻か和妻か

 今朝も4時に起きてしまいました。睡眠時間は6時間です。いつものようにコーヒーを入れ、さぁ、今日は何を書こうかと考えて、頭に構想をまとめてからブログを書きます。ブログを書き始めたころは、いきなり題名の通りの内容を書いていましたが、今はこうして雑談に少し時間を取っています。朝いきなりまとまった文章を書こうとするには荷が重く、均しの時間が必要です。ちょうど落語の枕のようなものです。これのお陰でさっきまで眠っていた頭が起き出し、スムーズに文章が出て来ます。

 帯状疱疹はだいぶ良くなりました。時折ズキッ、ズキッと電気が走ります。これがなくなれば日常の生活に戻れるのですが、簡単ではありません。皮膚はだいぶ目立たなくなりました。

 

 来月は、群馬の猿ヶ京に行って、泊まり込みでマジックレッスンをします。そこには、元、芸者の見番(けんばん)があります。なかなか大きな建物です。見番と言うのは、ホテルのお座敷に出かける前に芸者衆が集まって、化粧をしたり、踊りや三味線の稽古をする場所です。いい時代には何十人もの芸者がいて賑わっていたのでしょう。しかし今は一人もいません。猿ヶ京温泉そのものがかつての賑わいがなく、訪れる人もわずかです。芸者を上げて大宴会をする人などもいなくなったのでしょう。

 この建物は誰も使用していません。私はそこの検番を年間の賃料を支払って借りています。一階には日ごろ使わない大道具などを保管してあります。年に数回、そこに泊まり込んで稽古をしています。二階には立派な舞台があります。緞帳もついていますし、舞台も広くとってあります。客席は畳ですが、そこで寝起きします。布団もたくさんあります。下にも部屋があります。弟子やら、生徒さんと泊まり込みで、朝から晩まで稽古です。

 次回は、6月20日、21日、の一泊旅行です。参加費1万円、食費3000円です。私と仲間の車に乗って行くのであれば、交通費は割り勘の実費です。高速料金、ガソリン代などで3000円くらいでしょう。覚えたいマジック、或いは手妻の希望があればお知らせください。ご意思に添えない場合もあります。

近くに利根川の源流などあり、朝散策するには素晴らしい土地です。人が殆どいませんので、まるで自宅の庭です。近くには町営温泉があって、サウナから、露天風呂から、レストランまで揃っています。とても贅沢な一日を過ごせます。

 参加ご希望の方はいらっしゃいますか。限定10人までです。現在5人まで決まっています。ご興味ありましたら、ご一報ください。 03-5378-2882

近くのホテルなど宿泊希望がありましたら、連絡しておきます。

 

手妻か和妻か

 マジック界で日本奇術のことを和妻(わづま)と言いますが、日本奇術の正式名称は「手妻(てづま)」です。江戸時代の名称で、手わざのマジックを手妻、仕掛け物のマジックを手品と呼んでいました。辞書や、歴史の文献には手妻、手品のいずれかしか載っておりません。従いまして、私の職業は手妻師です。

 では和妻とはどこから出てきた言葉かと言うと、明治になって、西洋奇術が入って来ます。寄席などで、従来の手妻と西洋奇術を区別する意味で、西洋奇術は洋妻(ようづま)と呼び、従来の手妻を和妻と呼ぶようになりました。全くの楽屋符牒です。これはちょうど、洋風の部屋を洋間、日本本来の部屋を和室と呼ぶことと同じです。洋服、和服、洋食、和食、いずれも明治以降に考えられた言葉です。

 然し、和妻がどこまで一般に普及した言葉なのかと考えますと、明治の時代ですら、手妻師は手妻師であって、自らを和妻師と呼ぶことはありませんでした。やがて、洋妻が、一般的に奇術と呼ばれるようになると、楽屋でも奇術師と呼ばれるようになり、洋妻の言葉は廃れました。和妻はその後わずかに符牒として残りましたが、正式に書物などでそう表記されることはありませんでした。

 

無形文化財認定

 ところが、戦後、和妻は独り歩きします。手妻を継承していた先人が無くなって行くと、その後に手妻を覚えた人たちは、なぜか手妻を名乗らず、和妻と称するようになります。手妻は本来、手の妻、すなわち、手慰み、手わざ、と言った意味から発生した言葉です。それを、和妻と表記しては、意味も内容も何も伝わらなくなってしまいます。

また歴史の流れとも寸断されてしまいます。これは誤った表記です。

 私の一門では手妻師で統一しています。しかし例えば大学などでは、和妻と言って、傘出しなどを演じています。あれも、もし本気で日本の伝統芸を研究するのであれば、手妻と表記したほうが良いと思います。

 困ったことに、平成9年、文化庁から、歴史に残すべき芸能として、和妻が伝統保存の対象として認められました。つまり無形文化財です。その名称が「和妻」です。

 実は、私が奇術協会の役員だったころに文化庁や、当時無形文化財を選定してくださった、大学教授の先生に、名称の変更を掛け合ったのですが、この件は通りませんでした。無形文化財に指定されたことは快挙ですが、名称のミスは致命的です。思うに、この時代までもが。手妻と言うものに多くの奇術師が無理解だった証しと言えます。名称の決定を一人の判断にゆだねてしまったのです。

 

手妻協会設立はあるか

 この先は私が人生をかけて、名称を改めるほかはありません。本当なら手妻協会なるものを起こして、手妻を一般に告知して、正しく人を育てて行けばいいのですが、実際日本中の手妻師を集めても、30人とは集まらないでしょう。その中でプロと称するに足る、ちゃんと修行をして手妻を学んだ人で、実力のある人がどれだけ存在するかと考えたなら、10人に満たないのではないかと思います。手妻師が増えた、増えた、と言っても現実にはそんなものです。

 そこで協会設立を唱えても、沸き起る人々の期待の上に組織が生まれるわけではありませんから、根本が危ういものだと思います。正しい手妻師を育てる活動も、手妻協会も、まず、手妻をいつでも見られる場所を作ることが先決でしょう。その劇場には、日本の昔からある、軽業や、曲芸、曲独楽、写し絵、人形芝居(一人扱いの文楽人形のようなもの)、そうした芸能と一緒になって演じられる場を作らなければなりません。

 然し、そうした劇場ができたとして、お客様を確実に呼べるでしょうか。私は、今、残された伝統芸能が、お客様を呼ぶには、個々の芸能が、もっともっとお客様のニーズを調べて、お客様が求めている芸能を提供しない限り、入場料を取って、連日人に見せるのは難しいのではないかと思います。そのことは、全ての古典芸能に言えることです。余りに、お弟子さんや、少数の理解者に寄りかかって生きてきた結果が、今は、どの古典芸能も、お客様から離れてしまっています。

 明日は、私が見た古典芸能の世界と現状についてお話ししましょう。

続く