手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ご近所の話 6 ねづっち

 漫談のねづっちは、私の家から南に徒歩8分くらいのマンションに暮らしています。元々高円寺はお笑い芸人や、ミュージシャンが多く住んでいて、ナイツの土屋さんも高円寺北に住んでいました。ねづっちもナイツももう20数年の付き合いになります。

 5年ほど前までは、私は家の近くの環7通りにあるビルに事務所を借りていて、そこが結構広かったものですから、毎年正月はそこで新年会を開催していました。料理やお年玉をたくさん用意して、お笑い芸人や、マジシャンや、生徒さん、邦楽演奏家など、いろいろな人が集まって、昼から夜まで一日中宴会をしました。このころは大きな仕事をしていたものですから、随分人も大勢集まりました。一日のトータルですと70人くらい集まったのではないかと思います。次から次と来るお客様のために、寿司や焼き鳥や、ケーキを切らさず用意しておくのが大変でした。

 私もこの日だけは遠慮せずに酒を飲みました。そこのビルは機能的で、まことに快適だったのですが、5年前に事務所をたたみ、自宅の一階に移しました。その理由は私の母親を介護するために老人マンションを買ったためです。マンションを買っても、月々の維持費は15万円かかりました、ちょうど事務所の家賃と同じです。やむなく事務所を自宅一階に移したわけです。

 このため事務所はとても狭くなって、派手な新年会はできなくなりました。今でも新年会は自宅の事務所で細々続いていますが、弟子や、生徒さんのみ、10人程度集まるおとなしい会になってしまいました。正月くらい、思いっきり派手に散財したいのに残念です。

 

 その新年会の常連がねづっちです。ねづっちとは、正月と、8月のお盆には一緒に飲むことにしています。20数年前、小学校3年生くらいだった娘のすみれが、百人一首を覚えて、人とかるた取りをしたがるのですが、子供の記憶力にはかないません。私なんかは簡単に札を取られてしまいます。

 その時、ねづっちは、漫才をしていて、ケルンファロットと言うコンビを組んでいました。相方は諸藤といい、諸藤は学生っぽい痩せた男でした。この二人が自宅に遊びに来たので、これ幸いと、すみれのかるた取りの相手をしてもらいました。然し、子供の記憶力と言うのはすさまじく、全く歯が立ちません。それでも一時間くらい遊んでくれたのです。以来、私がどこかで食事をする時には、頻繁に二人に声を掛けました。いい食事にありつけるとなると、二人は目の色を変えてやってきました。

 

 彼らは、私が吉祥寺でマジックのライブ「It's Magic」を始めた時には、毎回司会をしてくれました。その頃二人は収入になるような舞台がなかったらしく、わずかなギャラではありましたが、喜んで手伝ってくれたのです。

 実際ねづっちは、長いことアルバイトで生活していたようで、舞台の収入と言うような物はほとんどなかったようです。それはナイツも、他の漫才も同じで、みんな、舞台に出られるだけで喜んでいたのです。

 コンビが生きて行くのは大変なことで、病気だの結婚だのと言う人生の変化のたびにコンビは危うくなってゆきます。やがてケルンは解散になります。その後、木曽山中(きそさんちゅう)と言うガタイのいい相方を探してきて、コンビを組みますが、このころに始めた、なぞがけでようやく世間から注目を集めます。ねづっちと顔を合わせた時に第一声が、「最近は舞台だけで食えるようになりました」。とニコニコしていたのが忘れられません。

 ねづっちは頭の回転の速い男で、どんなお題も瞬時に解いて行きます。しかしなぞがけが当たりだすと、この漫才はねづっちの頭の回転だけで維持していることがお客様にばれてしまいます。いつしかコンビでやっている理由がないのではないか、と思われるようになり、やがて解散し、ねづっちは漫談に転向します。

 漫談と言うのは大変な職業です。話芸の中で一番難しいのが漫談です。何しろ自分で筋を振って、自分で落としてゆかなければいけません。舞台に出たらしゃべり続けないといけません。すべては自己責任です。よほど引出しを持っていても、お客様を笑わせ、納得させることは容易ではありません。手を抜くことのできない芸で、常に限界に近い演技をして見せなければならないのです。よくそれを続けていると感心します。

 

 そのねづっちとは、お盆時期の飲み会は続いています。私の女房が、お盆の時期に里帰りをしますので、私は一週間ほぼ一人で暮らします。そうなると、夜の食事が困ります。そこで、毎日スケジュールを決めて、仲のいい仲間と連日食事に行きます。娘がいれば娘と食事をし、小野坂東さん、演出の木下隆さん、田代茂さん、いろいろお客様を変えて様々な場所で食事をします。その中の一人がねづっちです。

 ねづっちは、寿司が好物です。特に炙り縁側が大好物です。ヒラメの淵のみをバーナーで炙ったものを飯に乗せてあるのですが、ヒラメの体の中で唯一縁側は脂がのっています。それを温めると、脂が解けたバターのようにとろりとはみ出て来ます。これが冷めた縁側よりも数倍旨く、私も、好物だったのですが、最近はあまりこうした脂の強いものは、食べられないようになりました。それがねづっちは大好きなのです。

 まず寿司屋について、ビールを頼むとすぐに、「師匠、炙り頂いていいですか」。と言います。「どうぞ食べて」。と言うと、ねづっちは喜んで縁側をほおばります。

しばらく寿司をつまみながら話をしていると、また、「師匠、縁側食べてもいいですか」。と聞いてきます。「いいよ、食べたら」。というと、また喜びの表情で縁側を食べます。帰る間際になって、「師匠、これでしばらく縁側も食べられないので、もう一ついいですか」。と聞いてきます。「「いいですよ、いくらでもどうぞ」。というと、心の底から旨そうに脂ぎった縁側をほおばります。

 毎回毎回、ねづっちの食べる姿を見て、「この男は実に素直な男だなぁ」、「20年少しも変わっていない。売れても売れなくても、ねづっちはねづっちだなぁ」、と思います。何も私にご馳走にならなくても、今のねづっちなら、いくらでも食べたいものが食べられるだろうに、ねづっちの姿勢は、初めて寿司屋に連れて行った時と少しも変わらないのです。そんなところが、20年以上も付き合っている理由なのかなぁと思います。毎年の夏の飲み会が来週あります。会って何を話わけでもないのですが、ねづっちと会うことは楽しみです。

続く

ご近所の話 5 明治通り 2

 昨日は倉持賢一さんが来て、youtubeに私の映像を載せようと言う話になり、取りあえず2本動画を撮りました。私がブログを書いているのを見て、「最近の若い人は長い文章を読みたがりません。今ブログでしていることを映像で語ったほうが効果があります」。というのです。私は文章を読む楽しみを伝えたいと思って書いているのですが、読まないのでは致し方ありません。そうなら言われるままに映像を撮って見ました。さてどんなことになるか、編集の仕上がりが楽しみです。

 

明治通り 2 

 ご近所の話を書こうと環7を書いているうちに話は明治通りに発展し、だんだん、ご近所から遠ざかって行きました。そうなるとこのタイトルは一体何なのかと思いますが、とにかくこのまま明治通りを書きます。

 明治通りは、荒川の機械部品店の並ぶ通りを抜け、三ノ輪に到達します。大関横丁などがあって、そこが都電の終点になります。明治通りは都電とは何度も遭遇しますが、この路線だけが東京で唯一残った荒川線です。なぜ荒川線だけが残ったのかと言えば、荒川線は、殆ど一般度道路を通らずに、都電専用の道を持っていたから、トラックや乗用車などの通行を妨げにならなかったのです。

 三ノ輪には都電の操車場があって、都電の本拠地になっています。ここで見る都電は堂々としています。駅舎も適度にレトロで、町も昔の昭和を残しています。渋谷の宇宙都市のようなターミナルとは対照で、これはこれで雰囲気があって私は好きです。

 明治通り都電荒川線は、付かず離れず、明治通りの北側半周を都電の始発点と終点を結んでいます。元々都電は東京中を網羅していて、私の子供の頃は広い通りには必ず電車が走っていたのです。都電のいい所は、遠くのほうから電車が走って来るのが見えることです。見える電車を安全地帯で待っていれば間違いなく乗れました。乗り遅れても遠くのほうに次の電車が来るのが見えました。しかも料金が10円です。乗り換えをしても10円で乗れました。従って、例えば、新宿から浅草までも、乗り継いで10円で行けたのです。子供にとっては、東京の景色を眺めながら、長い距離を電車で行けましたので、便利で楽しい乗り物でした。

 然しながら自動車が増えて来ると、都電は邪魔者扱いをされました。先ず道路の真ん中にある安全地帯(駅)が邪魔扱いされ、都電のスピードのトロさが嫌われ、道の上に網の目のように走る都電の電線が嫌われ、やがて、都電無用の大合唱となり、町から都電は消えて行きました。然し今にして思えば便利な乗り物です。通りの交差点からすぐに乗れます。最近の地下鉄のように、はるか地下の底まで歩いて行かずに済みます。都電をなくしてしまうのは勿体ない話です。

 

 私が清子の舞台を手伝う時に、上野の寄席に出演して、そのあと浅草の余興をしに行くときなどは、上野で使った道具を持って都電に乗り込み、電車の中で、タンバリン(小さな筒に新聞紙を張って、中からハンカチや紙テープが出て来ます)、で使った紙テープを巻かされます。師匠が舞台で派手に空中で円を描いて取り出した紙テープを、次の浅草の会場までの間に、弟子は全部巻き取らなければいけません。紙袋の中に手を突っ込んで、丸めて入っているテープを巻き取るのですが、がさつに詰め込んでいますから、なかなかもつれてうまく巻けません。浅草までの時間はわずかですから、とにかく手早くやらなければいけません。ひやひやでした。私はその時中学1年生でした。

 紙袋の作業に夢中になっているときに、バッグの中からビール瓶の交換が飛び出てしまいました。ビール瓶の交換というのは、片方のビール瓶に新聞紙を巻き、片方は空の新聞紙の筒を置いておきます。それが、右のビール瓶が消えて、左の空の新聞紙の筒からビール瓶が出て来ます。これはビール瓶に似せた鉄で作った瓶があって、それを事前にビール瓶にかぶせておくのですが、このビール瓶にかぶさった種とビール瓶が、バッグから飛び出してしまいました。ビール瓶は電車の床をころころと転がり、途中でビール瓶がいきなり二つに増えて、左右に転がりました。それを見ていた乗客が、「あっ」。という歓声を上げました。私はあわててビール瓶を拾いましたが、驚いて見ている観客の前で、師匠からずいぶん怒られました。

 

 三ノ輪を過ぎると、昨日話した泪橋があり、さらにその先が隅田川です。白髭橋を渡って、向島です。隅田川沿いに料亭が並んでいて、向島花柳界があります。検番なども残されていて、古い建物の中で今も芸者衆が三味線や舞踊の稽古をしています。私も何度か向島の検番の舞台で手妻をしています。古い東京の風情を残したいい場所です。

 この一帯は町工場の多い所で、私は、ここの大宮屋さんという木工所で随分幾つもの道具を作ってもらいました。水芸の欄干などはここで作ったのです。道具を作り始めると、私は毎日向島と王子を往ったり来たりしました。鉄工の部分と木工の部分を少し作ってははめ込んで調子を見るのです。職人に任せていると、それぞれ自分にとって都合のいいように作ってしまいますので、ほとんど毎日チェックに出かけます。

 毎日昼は、王子と向島を往ったり来たりして、道具の打ち合わせをします。夕方になると向島から浅草松竹演芸場に行きます。するとそこに親父がいたり、ツービートのたけちゃんがいたりします。そこで、たけちゃんと酒を飲んだり、食事をしたりして、帰りは車で親父を家まで連れて行きます。当時は少々酒を飲んで運転しても、警察は何も言わなかったのです。昭和52年頃の話です、私は23歳でした。

 

 明治通りはまだまだ続きます。向島から東南に下って、今は、スカイツリーのある曳舟、そこから直線で南下して、亀戸、更に南下して東京湾に出ます。明治通りはここで終点ですが、東京湾の湾岸道路を通れば、古川橋ともつながり、明治通りは環状道路として完成します。但し東側の道と、湾岸道路は環状にするために無理無理はめ込んだような気がします。やはり明治通りのレトロ感覚は、王子の飛鳥山から南端の古川橋までの西側半分でしょう。

 今、明治通りをぐるり一周しようと言う人はいないでしょう。渋滞の多い道ですから、時間がかかりすぎます。私も断片的に利用するだけで、半周も回ったことはありません。但し魅力的な場所が多々あります。廻ってみれば東京とはこんなに変化にとんだ町だったのかと思いを新たにするでしょう。

 渋谷の駅前の宇宙基地、明治神宮と表参道。伊勢丹と新宿通りの交差点、都電の始発から出てきた電車と目白通りまで並列して走る早稲田近辺。昭和の初年を思わせる風景です。目白通りとの交差、池袋のロータリー、飛鳥山と急坂を降りて行く風景。右が飛鳥山の桜の名所で、左が音なしの瀧で料亭が並びます。隅田川にかかる白髭橋、曳舟スカイツリー亀戸天神東京湾と湾岸道路、レインボーブリッジ、実に変化に富んだ道です。レンタカーを借りるなどして、丸一日かけてじっくり回ってみたなら、東京と言う町の認識を新たにするでしょう。見るべきところが満載です。

 今はあまり車でドライブするのが趣味と言う人の話を聞かなくなりましたが、私は免許を取るとすぐにぼろのブルーバードを買い、毎日ドライブしていました。何もかも楽しい思い出ばかりです。

続く

 

ご近所の話 4 明治通り

 昨日は二人指導をいたしました。アマチュアさんですが休まず熱心に通ってきます。熱心であればたちまち上達します。ある時期、のめり込むほどにやり込まなければ、マジックの本当の面白さは分かりません。いいことです。

 今日は朝から前田の指導です。前回と今回は鳩出しの技法を教えています。私の鳩出しの直接の師匠は渚晴彦師ですが、前にも書いたように、チャニングポロック師からじかに聞きだした秘密など、他の人が知り得ない技がありますので、どこかで継承しておかなければなりません。弟子にだけ伝えることにしています。

 

明治通り

 環状道路は、関東大震災の防災対策として生まれたと話しました。明治通り(環状5号)までは比較的早くにプランを立てたようですが、それでも西側地域の人口増加に追い付かず、不忍通り(環状3号)外苑西通り(環状4号)は散々な結果に終わっています。然し、何とか用地買収が出来て、片側2車線の立派な通りが環状になったのが明治通りです。それも戦前に西半分が出来たようです。東京の環状道路はそれぞれできた時代をよく反映しています。明治通りと、環7環8通りを比べると、はっきり時代の違いを感じます。

 私は明治通りを車でドライブするのが好きです。明治通りは昭和初年のモダンな世界が随所に見られますし、そこを車で走らせていると、昭和の初めの人たちが都市にどんな夢を感じていたのかがよくわかります。

 新宿の伊勢丹デパートの正面玄関前が明治通りです。そこから渋谷に向かって南下すると、右に高島屋、左に新宿御苑の大きな森が見えます。競技場やプールなどのオリンピックの施設が見え、原宿に至ります。このあたりから街の様子ががらりと変わって、アパレル産業の会社や店が並ぶ通りが続きます。ここらは建物も、店も斬新で目いっぱいおしゃれです。車を走らせていても爽快です。右に明治神宮の森が見え隠れして、左が表参道です。ちょっと表参道に寄って車を止めて、しばしテラスでコーヒーなど飲みたくなります。特に新緑の表参道はすがすがしくて素晴らしい街です。

 表参道と言うのは明治神宮の参道と言う意味で、神社の参詣道です。ところが、町がおしゃれなものですから、年末にこの通りをクリスマスのイルミネーションで飾ることが流行っています。これは明治神宮に対して失礼です。イエスキリストと明治天皇は関係ありません。それでも街の雰囲気は東京で一番クリスマスのイルミネーションが似合うため、明治神宮も苦情は言わないようです。

 大切なことを言い忘れていましたが、明治通りと言うのは、明治神宮の横を通る道であるために明治通りです。それを知らずに「通りに明治製菓の工場でもあるのか」。と勝手なことを言う人がいますが、根本を知らなのです。そういう人はまず明治神宮に参拝したほうが良いでしょう。

 さらに南へ下ると、渋谷のロータリーに至ります。そこから地下鉄銀座線が空中3階に伸びて、東急デパートの横っ腹を突き抜けてデパートの中に入って行きます。今でこそなんでもない風景ですが、昭和の初めに、地下鉄が地上3階を走り、デパートと直結すると言うのは宇宙基地を見るようだったと思います。その東急デパートは私の子供の頃は東横デパートと言いました。東横デパートの2階から山手線と東横線が走っていました。一階のロータリーには玉電と呼ばれた流線型の、芋虫のような丸い路面電車二子玉川園まで走っていました。全く宇宙基地でした。

 この広いターミナルをさらに南下すると、左が台地で、広尾の屋敷町です。右が渋谷川です。春の小川は渋谷川の支流の小川のことです。恵比寿で、東に道が曲がって、天現寺などの寺が並び、左手の坂の上一帯は大使館がたくさんある屋敷町です、その下をずっと東に進んで古川橋に至り、やがて東京湾に出ます。明治通りはここまです。

 伊勢丹から北に上ると、高田馬場と早稲田の間で都電と交差します。この先、右に行くと都電終点早稲田です。そのまま北に上って行くと、住宅街が続き、目白通りと立体交差します。この交差の仕方が昭和初年の作りできれいです。環7通りのように、人工的に盛り上げたりしません。自然に目白通りの橋がかかっていて、明治通りはその下を潜ります。明治通りから目白通りに行くには、左にゆっくりカーブを上りながら橋の上に出ますが、昭和初年で既に車の立体交差が出来ています。然しこの立体交差を車で通れた人たちは、昭和初年では目白のお屋敷町に住んでいた少数の人たちだけだったでしょう。

 さらに北に向かうとそこは池袋のロータリーです、今は西武デパートとパルコが立っていますが、私が20歳くらいまではパルコは丸物(まるぶつ)百貨店と言っていました。丸物百貨店には、私に鳩出しを教えてくれた渚先生がマジックのディラーで働いていたそうですが、残念なんがら私はその頃の先生とは出合っていませんでした。

さらに北に行くと住宅街が続き、北へ抜けると飛鳥山です。ここでまた早稲田近辺を走っていた都電と出会います。都電と一緒に飛鳥山の急坂を下ると王子駅前です。ここが明治通りの北の端になります。王寺駅前に長いことぼつんとビルがありましたが、昔は白木屋デパートの支店だったそうです。白木屋は居酒屋ではありません。日本橋にあった江戸時代から続く歴史の古いデパートです。

 そこから一気に明治通りは東に南下します。ここから先は戦後(1945年)以降に開発された道でしょう。通りは機械部品を扱った店が並びます。近くには町工場がたくさんあります。私が道具を作るために通った、アクリル屋さんも、キャスター屋さんも、ゴム屋さんも、バネ屋さんも、みんな明治通り沿いにあります。梶原の都電の交差点に、渡部鉄工所があり、私はよくイリュージョンをそこの親父さんに作ってもらっていました。随分お世話になった親父さんでした。

 王子の鉄工所と、向島の木工所は私の大道具製作の場所で、よく明治通りを利用して、向島と王子を行き来していたのです。

 明治通りは西側だけ見ていると、おしゃれな通りと思われますが、王子と向島の中間には。「あしたのジョー」という漫画の主人公の住んでいた、山谷のドヤ街があります。今もこのあたりでは、仕事にあぶれた人たちが路上で酒を飲んで寝ていたりします。泪橋などと言う交差点もあり、漫画を知る人はその名前を見ただけで涙があふれて来ます。食うや食わずのジョーがボクシングに人生の不満をぶつけていた街です。

 その泪橋も、アパレルのおしゃれな原宿の町も、同じ明治通りなのです。何にしても私には思い出深い通りです。そこから先の明治通りと、私の昔のお話しはまた明日。

続く

ご近所の話 3 環7

 昨日は、糖尿病の数値がよくなって、先生からも褒められました。先ず、酒をほとんど飲まないのがよく、穀類を半分に抑えているのがよく、脂ぎった肉を食べずに、魚や、野菜を多くとっているのが良いと思います。女房の協力があればこそで、自分一人で生活していたなら、ビールに焼肉を連日食べていたでしょう。

 何にしても一日1800カロリーで生きて行かなければいけません。簡単ではありません。かつ丼やカレーを食べたなら、一食で1000カロリーあります。ハンバーガーのビックマックなどは1200カロリーあります。あれ一つ食べてしまうと、後の二食は、もやしとキャベツと胡瓜を生で食べるような食事をしなければなりません。生野菜ばかり食べていると、背中から羽が生えて来ます。知らずのうちに、スイッチョスイッチョなどと言って鳴くようになります。何とも侘しい生活です。

 カロリーを落として生活すると、手足が細ります。然し、ウエストはあまり痩せません。ある程度の年齢になると、ウエストは痩せないのだそうです。腹が出てて、手足の筋肉が細って行きます。どうもあまり格好良くない体系になります。しかし致し方ありません。無事に生きているだけでも感謝です。

 

環7

 私の家の前の環7のお話をしましょう。環7とは、環状7号線の略称です。この道は昭和39年に作られました。然し、それは全体の3分の1ほどで、すぐに環状線にはなりませんでした。それでもできた当初は、片側3車線の立派な道路で、しかも、交差する道は全て立体交差になっています。私は小学校4年生の時(昭和39年)に、社会科見学で、この環7をバスで通りました。それは驚きの世界でした。

 小学校に上がった頃見た絵本の世界がそこにはあったのです。絵本では、道路が立体交差していて、下に新幹線(だったかどうか記憶がありません。小田急ロマンスカーだったかもしれません)。上にモノレールが走っていました。それは全く鉄腕アトムの世界そのもので、未来の国を描いたものだと思っていました。然しそれが数年のうちに、全てが現実になったのです。新幹線も、モノレールも、そして環7でした。

 私が小学生の頃はまだ東京も車が少なく、環7は広さを持て余すかのように閑散としていたのを記憶しています。その時に国会議事堂、国立競技場、東京タワーを見ました。秋にはオリンピックが始まろうとしていた時期でした。東京中がまるで工事現場で、ごちゃごちゃ。でも、何もかも新しくなろうとしていました。

 環7は都心に集中する車を、バイパスを作って迂回するために作られたものと考えられます。実際その後、環7を通る車のほとんどが大型トラックで、国内輸送のための幹線道路になりました。今は高速道路が整備されて、都内をトラックが走ることは少なくなりましたが、私が杉並に越してきたころはトラックがたくさん走っていました。

 杉並区には、環7と環8(かんぱち)の二つの環状道路があります。環8は杉並区の西の端を通っています。環8は、23区の端を縁取りするように拵えたものです。そうなら、環7は何のために高円寺を通るのかと考えると、戦前の東京市の区域と、外の郡部の地域の境目に拵えたのではないかと思います。

 

 東京23区の地図を広げてごらんになればおわかりと思いますが、明治大正の時期から東京市だった地域の区は小さいのです。文京区も、台東区も、新宿区も、サイズは杉並区や、世田谷区の半分もありません。なぜそうもサイズが違うのかというと、本来の東京市が小さかったのです。杉並も世田谷も昭和17年までは郡部だったのです。当時は杉並という地名はなく、豊島郡高円寺町でした。私が子供のころ住んでいた池上は、大田区池上ですが、昔は荏原郡池上町です。

 国木田独歩の武蔵野を読むと、武蔵野とはどこかと思っていたら、明治の中頃の渋谷村と出て来ます。当時渋谷は村で、一帯が林だったと書かれています。すなわち渋谷一帯は林に覆われ、そこが武蔵野だったわけです。春の小川と言う唱歌の、小川とはどこかと言うと、渋谷を流れている細い川のことで、それを見た高野辰之がこの詩を作ったそうです。共に明治の話です。

 本来小さかった東京市がなぜ大きくなって行ったのかと言うと、関東大震災の影響です。何十万人もの死者を出した震災から、中心街の密集した地域に住んでいることがいかに危険かを知り、大正末期から昭和初年にかけて郡部に引っ越す人が増えたのです。それに伴って私鉄が作られるようになり、郡部に小田急線、京王線東急線などが出来て行って、人口が急激に膨らんで行きました。

 話を戻して、この古い東京市の区域と、郡部を仕分けるために環7は作られたのではないかと思います。オリンピックの頃なら、環7を挟んで西と東でははっきり人口も違っていたはずです。まだ田んぼや畑や空き地も結構あったはずです。

 

 因みに、環7、環8があるなら、環1、環2があってもよさそうです。実はあるのです。関東大震災の際、最大の災害は火災だったのです。火の手を抑えるために、東京に環状道路を何重も作り、広い道路で大火を抑えようと考えたのです。

 環1は内堀通です。江戸城に沿ってぐるり一周しています。よくジョギングをしている人がいる通りです。環2は、外堀通りです。江戸城の外郭で、西は四谷の駅前を南北に抜ける広い道で、東は、有楽町の交差点を南北に通っています。北は水道橋の当たりを総武線に沿って走っています。南は溜池通り。

 環3は、これが失敗作です。環にしたかったのですが、用地買収をしているうちに、どんどん被災者が引っ越してきて、家を建ててしまったものですから、道はズタズタになってしまいました。北は、不忍通りと呼ばれている道が環3です。上野の山の裏から根津へ抜けて、根津神社の当たりが北の端です。根津から南下して青山近辺の外苑東通りにつなごうとしたのです。然し、外苑東と不忍通りは全くつながっていません。ところどころその残骸の道が残っています。小石川植物園の前に意味もなく広く短い道がありますが、あれが環3の残骸です。私の子供の頃からずっと無用の長物です。用地買収がままならず、役人が投げてしまったのでしょう。この先もつながらないでしょう。

 環4は外苑西通り、これもあってもなくてもどうでもいいような環状道路です。全く環になろうと言う気持ちが見られません。環5は明治通り、これはいい道です。環状にもなっています。環6は山の手通り、ここは長い事、恵比寿あたりで道路工事していましたが、ようやく環状になりました。そして環7、環8です。

 私は子供のころから舞台の仕事をしていて、あっちこっちに出かけていましたので、東京の道は全てわかります。その中で私の好きな道を明日お話ししましょう。

続く

ご近所の話 2 百杯のラーメン

 今日はこれから月に一度の糖尿病の検査に行きます。採血が目的ですが、他にも心電図などを撮ったり、いろいろします。結構午前中いっぱい時間を使います。これをもう10年以上続けています。病院の後、舞踊の稽古に行きます。従って、朝からほぼ半日外を回ることになります。

 糖尿病は一生付き合ってゆく病気ですから、完治することはありません。毎月、数値と照らし合わせて、食べ過ぎや、糖分の取り過ぎを色々細かく注意されます。そもそも糖尿病になる人は、脂ものが好き、酒が好き、甘いものが好き、穀類、麺類が好きなのです。いくら注意されてもおいそれとは気持ちが改まるものではありません。

 20代の頃、アメリカに何か月も行っていた時に、ランチの定食屋さんで、6ドルか7ドルで、ステーキとフライドポテト、サラダにアイスクリームが食べられたとき、「アメリカって何ていい国なんだ」。と思って、毎日ステーキを食べていました。あの頃は本当に幸せでした。

 そうした生活を喜びとしていた者が、食べ物を目の前にして、全く好きなものを食べられないと言うのは酷な話なのです。毎日注意していても、ついつい食べてしまいます。注意していると言ってもせいぜい、甘いものでも、穀類でも、10%、20%量を減らして食べるのが精一杯です。それでも毎日気を使って食事をしていると数値が下がります。有難いと思います。しかし同時にストレスが溜まります。

 例えば、ラーメンを丼一杯食べるのはだめなのです。ラーメンは糖尿病の敵です。先ず、麺がたっぷり入っています。麺は体に入るとすべて糖に変わります。米でも麺でも、砂糖をそのまま飲み込んでいることと同じなのです。スープは塩がきつく、脂が多く、全体に高カロリーです。せいぜい半分食べるならまだ良しですが、現実には、お店で、頼んだラーメンを半分残すことなどできません。結局食べてしまいます。食べた後に数値を気にして後悔します。これが不快の原因になります。

 酒も同じです。時には一切気にせず思いっきり飲みたいのです。然し、今となってはそれができません。月に一度柳ケ瀬に行って、辻井さんと、峯村さんと、酒を二合くらい飲むのが最高の贅沢です。たまに夢で、酒を傾けながら、鰻や、ラーメンや、ステーキを目いっぱい食べて満足している姿が出て来ることがあります。腹いっぱい食べると言っても人の欲望なんて知れています。そんなささやかな願望さえ、夢でなければ達成出来ないのです。あぁ、悲しい。

 

百杯のラーメン

 私の家の向かいの高円寺マンションの一階に「山とき」と言うラーメン屋さんがあります。ここは私が越して来た時からラーメン屋さんが入っていたのですが、商売が難しいらしく、何度も店が変わっています。然し、山ときさんになってから3年、お店が定着して、お客様がひっきりなしです。ラーメンの専門誌にも何度も載っていますし、ラーメン屋さんのランクで関東地方で2位にまでなっています。

 つけ麺も、ラーメンもどちらも人気があります。私も何度か頂きましたが、ここは鶏がらスープでだしを取って、醤油味でスープを整える、いわゆる東京ラーメンの伝統的な味です。これです、私が求めていた味は、何のことはない醤油のラーメンです。それが文句なく旨いのです。

 私がよく言う、「名人と言うのは、普通のことを普通にして、それでお客様が納得をしたらそれが名人だ」。という意味に合致します。何のことはないもので、お客様が引きも切らずに来るようなら、それは名人技なのです。

 私は、豚骨スープや、背脂をばらまいたような、脂ぎったラーメンは好きではありません(嫌いではありませんが、体が許しません)。やはりスープは澄んでいるものが好きですし、脂はこれでもかとまき散らすものではありません。そこそこでいいのです。更にここの店のこだわりは、百杯分の麺を店にある製麺機で毎朝作っていることです。

 この麺の小麦の配合がどうなっているのかはわかりませんが、ちぢれ麺で、つるっとしていて、腰があって、実に食べ応えがあります。一人前はそう多い量ではないのですが、ここの麺は食べた後、十分満足します。

 毎朝お兄さんが一人で、麺を作り、スープを作り、チャーシューを作っています。朝早くから夜遅くまで働いています。仕事に疲れると、裏の道に出て、しゃがんで煙草を吸っています。お店の裏口と、私の家の玄関がまさに向かい合わせですから、一日何度も顔を合わせます。

 「毎日何倍くらいラーメンを作るの」。と聞くと、「いい日は百杯出ます」。ラーメン百杯は大変です。一人の仕事としては限界でしょう。然し、百杯売れると、時間に関係なく店を閉めてしまいます。駅前の商店街からはかなり離れているために、この店に来るお客様は、山ときの評判を知ってくる人ばかりがぽつぽつやってきます。それでも土日の昼は行列ができています。

 このところはコロナウイルスで、お客様の数も少し減ったようです。毎日一喜一憂しています。暑いと言ってはお客様が少ない、雨が降ったと言っては少ない、その日その日で苦労しています。奥さんと生まれて1歳半の子供さんがいます。

 私はここのラーメンが好きなのですが、そう頻繁に食べることはできません。然し、たまに食べに行くときは楽しみです。昔、私が子供の頃、親父に連れて行ってもらった東京のラーメンの味がそのまま味わえます。但し麺の噛み応えは山ときのほうが数段上です。これほど歯応えがあって、つやつやした麺は昔はなかったです。

 かつては、有楽町の直久(なおきゅう)と、荻窪春木屋をうまいと思いましたが、直久は今はなくなり、青山の方に同じ名前の店が出ていますが、味は少し違うように思います。春木屋は今も健在ですが、日本そばを思わせるようなだしの取り方で、東京中で最も古風なラーメンでしょう。旨いことは旨いのですが、半年前に食べに行った時は、昔食べた時の感動は少し薄れたように思います。

 今は何と言っても山ときです。本当は週に一度くらいは食べたいのですが、ラーメンは私の体に毒です。仕方なく二か月に一度くらい食べています。目の前にいい店がありながら、お預けを食らっているようで毎日ストレスが溜まっています。あぁ、悲しい。

続く

ご近所の話

 私の家の前は細い道で、道を挟んで高円寺マンションと言う大きなマンションが建っています。私の家側一帯は静かな住宅街なのですが、向かいのマンションだけが異様に大きく、見た目が不釣り合いです。もうできて50年になるそうですが、各部屋はオーナーが買って、賃貸で人に貸しています。便利なところにあるために、部屋はどこも満室なようです。

 このマンションの表側が環7通りになります。東京の大幹線道路ですから、朝から晩まで車やトラックが走っていて騒々しい所です。しかし、私の家は、大きなマンションが塀のごとくに蓋をしてくれていて、一本路地に入ると、全く騒音がしません。このあたりの住宅街は、朝は小鳥のさえずりで目が覚めます。

 今から32年前に、自宅と事務所と駐車場を全て一緒にした建物を建てようと、都内のあちこちの土地を探していました。最終的にここを見つけたのですが、選んだ条件は、高円寺駅から歩いて7分という便利さと、住宅街で静かなこと。すぐに決定しました。

 別に金があってしたことではありません。当時は銀行が積極的に資金を貸してくれたのです。銀行の話に乗って、6000万円借金しました。30年ローンです。

 いろいろな意味で、私がここに家を建てたことが、私の人生を決定したと言えます。まず舞台活動はとても便利になりました。どこへ行くにも便利です。しかも環7通り沿いですから、よく人が訪ねて来ます。打ち合わせなども便利です。

 私は家を持ったことを目いっぱいはったりをかまして宣伝しようと思い。自分の名刺に、「藤山ビル」と書きました。本当は「第2藤山ビル」と書きたかったのです。第1藤山ビルはありません。でも、第2と書くと、複数のビルを所有しているように見えますから、宣伝効果は抜群なのではないかと思いました。然し女房に反対されました。

 更にチームを会社にして、「東京イリュージョン株式会社」としました。これは宣伝効果は抜群で、当時、株式会社を持っているマジシャンはいませんでした。よほどいい仕事をしているマジシャンなんだと思わせるに十分でした。

 私がこの名刺を松本幸四郎さんにお渡ししたときに、幸四郎さんは、「それで、テナントは何軒くらい入っているのですか」。と真面目に聞かれ、言葉に窮してしまいました。全階ひとまの鉛筆のようなビルですとは言えません。

 それでも、私にとっては自慢です。4階で寝ていて、3階で食事をして、2階が事務所でここでチームと打ち合わせをして、1階の駐車場から車で仕事場に出動です。まるで宇宙船の基地みたいです。私は長いことこんな生活がしてみたかったのです。

 それが叶ったのですから、当初は大満足でした。但し、毎月42万円のローンが鬼のようにやってきます。バブルで景気のいいときは、何ら問題がなかったのですが、平成5年になって本格的な不況が来てからは、どうやって毎月返済してよいか、日々悩まされました。それでも何とか返済をして、昨年末で30年のローンが終わりました。めでたしめでたし、と言いたいところですが、それがために、私の髪の毛は真っ白になってしまいました。人は苦労をすると年を取るのだなと知りました。

 

 この土地を買って、まだ何も建ってもいない頃から、私は頻繁に高円寺へ通いました。向かいのマンションには当時喫茶店がありました。このマンションの一階は全てテナントが入っていましたが、場所が、繁華ではありませんし、環7沿いで騒々しいため、なかなか地元の人しか集まっては来ません。然し、地元の情報を聞くにはいい所ですので、必ず喫茶店で一休みして、ご近所の話を聞いていました。

 すると、昼にやってくる上品な奥様がいます。驚いたことに、指にはソラマメほどもあるダイヤの指輪をはめています。喫茶店のママさんに奥さんの情報を聞くと、「あの人はねぇ、元から高円寺に住んでいるお家で、お爺さんは陸軍中将か何かだったらしくて、硬いお家なんですよ。お爺さんは早くに亡くなって、その娘さん、と言ってもお婆さんだけど、お婆さんとその息子さんと一緒に暮らしているのよ。奥さんは息子さんのお嫁さんなのよ。息子さんは不動産屋さんを経営されていて、このところ景気が良くて、二年くらい前に、自宅を新築して、マンションと自宅を建てたんですよ。マンションの地下には広い駐車もあって、奥さんはベンツに乗ってお出かけするのよ」。

 まるで絵にかいたような金持ちです。私は家を建てた後、毎日近所を散歩していました。私の家の裏手の住宅街に、結構大きな、綺麗なマンションがあります。それがソラマメダイヤの奥さんの家です。奥さんは少し肉付きがよく、目がぱっちりとしていて、宝飾品をさりげなくあしらって、いい仕立ての服を着て、ベンツに乗って、お出かけします。それを見て私は、

 「あぁ、世の中にはこんな立派な家を建てる人もいるんだなぁ、金持ちと言うのはこういう人のことを言うんだなぁ。私のしていることなんて小さいなぁ」。

と、思っていたのです。ところがところが、バブルが弾けて、一遍に仕事が来なくなってしまいました。私が困ったのは勿論ですが、不動産屋さんのご夫婦も生活が立ち行かなくなったようです。ある日突然、自宅とマンションは売りに出され、ご夫婦はどこかに消えてしまったのです。そして、自宅にはたった一人お婆さんが残されました。

 家もマンションも人手に渡ったため、お婆さんは家から出て行かなければならないのですが、行く当てもないため、ずっと住んでいます。半年か一年くらいそこにいたようですが、その後アパートを提供されて移ったようです。

 この時私は諸行無常を知りました。奢れる者は久しからず、すべて、風の前の塵に同じ。どんなに立派なダイヤをはめていようとも、ベンツに乗っていようとも、消え去るときはあっという間に消え去って行きます。気の毒なのはお婆さんです。全く息子の言葉に乗せられて、家を建て替えたのはいいけども、家も財産もすべて失ってしまい。親代々の家も追い出されました。その後どう生きて行ったかは知りません。然し、息子夫婦は親の前に顔出しもできず。逃げまくっているのでしょう。こんな人生が幸せなわけがありません。

 しかし、私も人のことは言えません。ここで借金を背負って、破産したら、家も財産も(財産は初めからありません)。すべて失って、負債だけを背負うことになります。ここでご教訓。金持ちを羨ましがってはいけません。奢れる者は久しからずです。身の丈に合って生活をしなさい。でもそうは言っても、少し背伸びをして生きるのはスリリングで面白い人生ではあります。

続く