手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ヒカキンさんが心配

 YOUTUBEで話題のヒカキンさんはまだ画像で見ただけで、お会いしたことはありません。話題の人であり、大変な努力家であることはわかります。ヒカキンさんのような人が出るとたくさんのYOUTUBEERが現れて、世間に話題を提供するようになります。

 ただ、外見だけで見ていて、その人をあれこれ言うことは正しいとは思えないのですが、私が見るに、どうもヒカキンさんの健康が心配です。画面では結構陽気にふるまわれていて、大胆な行動を次々に見せてくれますが、私の見るところヒカキンさんは決して陽気な人ではなく、周囲を楽しくさせるために、あるいは自分自身を奮い立たせるためにいろいろなパフォーマンスをしているのではないかと思います。

 

 つまり、本当の自分自身の姿とは違った形で、仮面をかぶったまま、かなり精神的には自分の望まないことを無理してやっているように思います。世間ではヒカキンさんの収入にばかり興味が集中して、ヒカキンさんのすることには細かく注意を払っていないように見えます。私から見ると、まるで命を削って仕事をしているように見えます。初めは自分自身が面白そうという、単なる興味で始めたことでしょうが、今となっては趣味ではなく、十分企業活動をしているのと同じです。

 企業であるなら、自分が望むと望まなに関わらずやらなければならないことが毎日続きます。当初は好きで始めたことも、今となっては好きを通り越して完全に仕事化してしまっているのでしょう。こんな生活を送っていると、やがて自分自身が見えなくなってしまうのではないかと思います。

 こんな時、ぱっと気分を変えられる性格なら、うまく続けて行ける可能性もありますが、ヒカキンさんを見ていると、このタイプの人は日々の些末なことを引きずって生きて行きそうですし、精神的にも相当にデリケートな人に見えます。

 こうしたタイプは芸能人に結構多いのですが、芸能人は、元々欲があって芸能活動に入る人が多いために、欲の部分と遊びの部分、そしてプライベートの部分を早いうちから使い分けができている人が多いように思います。ヒカキンさんのように、遊んでいる内に話題になって、それが仕事化してしまった人は、何が何だかわからない内に自分の周囲に雑用が集まってきて、やがて人と交わっているうちに自分を見失ってしまう人が多いのではないかと思います。

 こんな状況で、ヒカキンさんは、案外自分は今やっている活動が自分に向いていないと気付いているのかもしれません。「えらい世界に入り込んじゃった」。等と後悔しているかもしれません。

 

 有名になれば何でも手に入って幸せだ。と思うのは素人の考えで、その渦中にあって活動している人にすれば毎日毎日が修羅場です。とても記憶しきれないようなスケジュールを毎日こなさなければならず、合った事もないような人と毎日話をしなければならず、知らない人に会って話をすると言うのは、精神的な負担が大きく、とんでもないエネルギーを使います。

  テレビに出演する姿を見ていると、あまりテレビは乗り気でないように見えます。かなり無理しているのではないかと思います。小池百合子さんとの対談も、決して望んでしているようには見えませんでした。当人にとってテレビは一番苦手な仕事なのではないかと思います。そもそも人と会話をすることもあまり得意な人ではないのかもしれません。対談の後は、きっとストレスが溜まっていたはずです。

 

 忙しければ、金を使う暇がありませんから、金はどんどん溜まります。溜まるのはいいのですが、それを目当てに人が集まります。そうした人たちから資産運用の話があったり、投資を持ち掛けられたり、思いもよらない依頼を受けて毎日決断を迫られます。そんな用事はきっとやりたくないはずです。

 まったく毎日毎日が何をして生きているのかもよくわからないまま、ただ忙しく生きなければなりません。

 

 私がかつて、北野武さんなどとお付き合いのあった時には、彼らはひたすら忙しく働いていました。いつ会っても顔色が悪く、起きているのか、寝ているのかもはっきりしないような顔をしていました。全く休みが取れないのです。

 そんな姿を見ていて、私はうらやましいとは思えませんでした。売れているのは結構なことですが、人一人生きて行くのに、そんなに金は必要ないのです。いくら金になると言っても、次から次と仕事が詰め込まれてゆくことは責め苦です。

 どうもヒカキンさんを見ているとそうした人生に入り込んでしまって、体を消耗しているのではないかと思います。自分の望まない生活を繰り返していると、ある日、頭も体も動かなくなってしまいます。最近のヒカキンさんを画面で見ていると、太く短い生き方をそのまま突っ走っているように見えます。寿命が心配です。

 長生きするためには、ここらで本当に自分のしたいこと、ストレスの解消法、など自分で自分をコントロールしてゆくことが大事です。お会いしたこともない人にこんなことを書くのはおかしなことですが、好きで始めた仕事で押しつぶされてゆく人を何人か見ていますので、気になったので書きました。

都知事選挙に仲間との食事

都知事選挙 

 昨日は朝に都知事選挙に出かけ、投票を済ませました。今回の都知事選挙は初めから期待の持てない選挙でした。顔ぶれを見ても、どなたも期待できません。そもそも政策が見えません。東京都をどうにかしてくれる人ではなく、自分がどうにかなりたい人ばかりが出ています。この中から都知事を選べと言われても、学級委員選挙ではないのですから、ちょっと顔の知られた人なんかを選べませんし、得体の知れない政党の党首などは危なくて選べません。

 じゃあだれを選べばいいかと言われて眺めても、残念ながら誰も該当者がいません。もっと、まじめで、真摯な人に出て来てほしいのです。二宮金次郎さんのような、堅実で、地味な活動を続けて来て、人の信頼を着実に集めてきたような、そんな人に都知事になってもらいたいのです。

、悩んだ末、結局、白票で投票するほかはありませんでした。私は白票を出すのは反対です。少しでも立候補者に気持ちを汲んで、より私の考えに近い人を投票したいと思っていました。しかし今回はだめです。ひどすぎます。

 世界に冠たる東京都の首長を選ぶのに、この選挙では先が知れています。あぁ、この先の4年間は悲嘆にくれる毎日でしょう。

 

手妻指導をみっちり

 午後から指導をいたしました。この数年セミプロ活動をしているK君です。会社勤めをしながら、舞台活動をしていますが、このところのコロナウイルスの影響で、その舞台も途切れがちです。しかしここで心機一転、基礎から習いなおせば、活路も開けるのではないかと考え尋ねてきたのです。

 K君のことは良く知っていましたが、私が別の人と勘違いをしていて、顔と名前が一致していなくてしばらく戸惑いました。実際にプロ活動をしてみて、なかなかうまく行かない点が出てきたのでしょう。コロナウイルスは、自分自身の気持ちを新たに、考えを改めるには大変に重要な転機だと思います。常日頃は彼らのような人たちは、私のようなカビの生えた芸人からマジックを習おうなどとは考えもしなかったでしょう。

 然し、よくよく見れば、コロナ騒ぎの中でも、私には舞台の依頼がありますし、支援者もいます。それもこれも私には芸能としての手妻の基礎があるから、簡単には沈まないのです。そのことが外から見ていて、だんだんわかって来て、私から習いたいと言う人が増えてきたのでしょう。このところそんな人が何人も尋ねて来るようになりました。

 そこで、昨日は、少しサービスをしました。通常、1時間のレッスンを3時間分しました。そして、基礎とは何か、マジックとは何がマジックなのか、みっちり話をしながら、手妻の手順を指導しました。これは基礎レッスンと言うよりも、プロ指導です。

 プロを育てるためにする教え方はかなり通常の指導とは違います。このレッスンを受けて、K君は、直接学ぶことの大切さがようやくわかったようです。

 

 さて、午後の指導を終えて、お茶を飲みながら話をしていると、夜から田代茂さんが尋ねて来る時間と重なってしまいました。田代さんは毎年この時期に私の家を訪ねて来て、届け物をしてくれます。そしてそのあと食事に行きます。晩は、中野の日本料理屋を予約しておきましたが、田代さんの好意でK君も一緒に行くことになりました。K君にとってはラッキーです。カンボジアからの留学生のワンさん、と田代さん、K君と私の4人で、タクシーで中野に向かいました。

 中野の味わい屋を予約しましたが、ここは10年以上前から贔屓にしていて、魚の旨い店です。この晩は、勘八、しめさば、カツオのたたき、クジラの刺身の4品を頼みました。勘八も、カツオも文句のない味でしたが、圧巻はクジラの刺身でしょう。身が柔らかく、牛肉のようです。すりおろしニンニクが添えられているのも気が利いています。

 図らずも先週、岐阜でクジラを食べて以来、度々クジラに遭遇しますが、今のところどれもあたりです。

 そのあとアユの塩焼きを頂きました。これも身が厚く、いい鮎でした。途中からKK君が合流しました。彼は十数年前、大学を出てプロを目指そうとしたのですが、私が大反対をしました。それでもプロになろうとしましたので、マジックのパーティーの楽屋で、私が数発顔を殴りました。

 東京大学の大学院まで出て、マジシャンになるなんて意味がないからやめろと言ったのです。それでもマジックの才能があるならそれもよいかもしれません。しかし私の見るところ彼のマジックの才能はゼロに等しいのです。プロになっても苦しむだけです。プロの世界の底辺でうろうろするよりも、東大の看板を生かして仕事を見つけていったほうがどれほど自分にとって有利かを考えろと言ったのです。

 無論、人前で面と向かって殴られたことなどなかったKK君には大ショックな出来事だったでしょう。然し私は、今でもあのときの自分の行為は間違っていなかったと思っています。昔なら親が子を殴って目を覚まさせます。しかし今の親は子を殴りません。子を殴らないことを愛情だと錯覚しています。それは間違いです。

 明らかに間違ったことを子供がしていたら、何としてもやめさせなければいけません。誰かが目を覚まさせなければ、彼は奈落の底に落ちていたと思います。芸能の己惚(うぬぼ)れは業(ごう)が深いのです。どんなに頭のいい人でも、一度欲に取り憑かれると、自分のことは見えないものです。

 さてその彼が、私と田代さんの飲み会に来ると言うのは、どういうことでしょうか。彼とは何年も話をしていません。彼はプロ活動はもうしていません。何か別の仕事をしているようです。それが私と話したいとは、ようやく目が覚めて、現実が見えるようになったのでしょうか。飲みながら、いろいろ聞いてみると、どうやらKK君は大人になったようです。結構なことです。

 この晩は、セミプロのK君と、昔プロになり損ねたKKくんと、田代さんが私に引き合わせ、私からいろいろ話を引き出そうとしたのでしょう。彼らにとっては良い機会だったと思います。人生にはいろいろなことがありますが、この晩は印象深い一晩でした。

終わり

 

 

 

球磨川被害

 球磨川被害

 今から40年も前のことになりますが、私は山口県のマリンランドと言う遊園地に40日間出演していたことがあります。その時に、山口県内や福岡県のアマチュアマジシャンが連日大勢、私のショウを見に来てくれました。この施設は、昼と夕方の二回、ショウをするだけで、その後は用事がありません。多くのアマチュアさんは、

 「この地域にマジックを指導してくれる人がいません。ぜひマジックを教えてください」。と言います。そうなら、ショウを終えて、行ける範囲のマジッククラブを手当たり次第指導して回りました。最西端は福岡、最東端は下松(くだまつ)、その間の山口、下関、宇部などあちこち回りました。幸い好評で、また来月、またその先も指導してほしいと指導を求められました。

 然し、マリンランドの仕事が終われば、そうそうは九州、山口には伺えません。どうしたものかと考えて、そこで、これを機会に指導のルートを作って、年に二回、春と秋とに指導旅行を計画しました。鹿児島、川内、都城、熊本、長崎、福岡、北九州、宇部、下松、松山、丸亀、高松、大阪、京都、名古屋と14か所を約20日間かけて車で回って、そのうち二か所の講習料を経費に充てれば、十分収入になることがわかりました。

 当時は、アマチュアの人口が多く、小さな町でも10人以上集まります。福岡、熊本となると30人以上集まります。京都、大阪なら50人集まります。当時のプロマジシャンはキャバレーの仕事が忙しくて、アマチュアの指導に全く興味を示しません。無論私もキャバレーの仕事は多かったのですが、私はどうしても指導をしなければならない理由がありました。

 それは毎年春と秋にリサイタル公演をしていたのです。そのため新作のイリュージョンや、アシスタントの衣装を作らなければならず、劇場の借り賃や宣伝費も含めて、経費が、毎年200万円くらいかかったのです。キャバレーの収入では年収1000万円は取れなかったものですから、何とか、リサイタル経費をほかで捻出しなければなりません。

 その苦肉の策が指導でした。ワンボックスカーに道具を乗せ、一人で運転して、大阪まで行きます。そこからカーフェリーに乗り、鹿児島県の志布志湾に上がります。そこから鹿児島を指導し、鹿児島に泊まり、翌日川内(せんだい)に行き川内に泊まり、翌朝、都城(みやこのじょう)に行って都城に泊まり。翌朝、熊本に行きます。

 ところが40年前はまだ高速道路が出来ていません。都城から熊本が最も遠い移動距離になります。えびのと言う土地まではずっと平地が続きますが、そこから先は目で見てわかるほど土地の高さが違います。この断崖絶壁に人吉ループ橋とか言うぐるぐる渦を巻いた道があり、それを上ると、上った先が人吉盆地です。まさかこんな山の上にこうまで広々とした平地があるとは思えません。先ずはほっとします。ここで昼飯を済ませて、ここから球磨川越えをします。

 

 さて今回の集中豪雨の被災地の球磨川は、私にとってもなじみの深い土地でした。何しろ毎年二回はこの道を通って鹿児島、熊本間を行き来していたのですから。

 人吉を出るとすぐに山道に入ります。道は球磨川に沿って西に向かいますが、常に道の片側には球磨川が見えます。球磨川はまっすぐには進まず、常に大きく蛇行していますから、直線距離で行く三倍くらいは走らなければならないのでしょう。川が蛇行する度に、道は川の右側、左側を走りますが、いずれにしても、道は細く、車二台が行き替えないのです。それでいてこの道は国道です。

 向かいからトラックなどが来ると、どちらかの車が引きさがって、安全地帯まで戻らなければなりません。安全地帯は何百メートルごとかに少し空き地が用意されています。遠くに見えるトラックは、慣れたものですから、安全地帯の位置を把握していて、私が止まったほうがいい場合は、遠くから私にクラクションを鳴らします。また自分が止まったほうがいい場合はトラックが待機して、私を待ってくれます。

 待つのは別に構わないのですが、その安全地帯に車を止めて周囲を見ると、片側は険しい山の崖です。反対側は断崖絶壁で、はるか下に球磨川が流れています。まったく心細い限りで、わずかな道の隙間にポツンと一人でいるのです。やがてトラックが来ると、私の車と、ギリギリ30センチくらいの間隔でトラックがゆっくり通り過ぎて行きます。トラックに少し押されれば私の車はあえなく球磨川に転落します。

 今の私がこうした旅をするかと言えば恐らくしないでしょう。然し、20代の時にはこんなことは何でもなかったのです。

 

 道はどんどん下って行きます。川沿いにところどころに小さな集落がありました。今たびの球磨川の氾濫でそうした地域の家は随分被害を受けたことでしょう。天気のいい日に見ても、あそこで暮らすことは簡単なことではありません。この被害のあとには、無人の集落も増えるでしょう。

 道は下って行くと八代の町に出ます。東シナ海に面して開けている八代は、球磨川から来ると大都会に見えます。山が遮っていない分、開放感があってほっとします。

 然しこの旅はここまでで半分です。八代は熊本県の南端です。ここから北上して、熊本に向かいます。早朝に都城を立って、昼前に人吉、二時くらいに八代、5時半に熊本市です。熊本の街中に入るとウキウキしました。そして指導会場に、そこから2時間みっちり指導をし、そのあと、有志と一緒に食事をしながら焼酎を頂きます。

 そんな生活をしても少しも疲れませんでした。その翌朝は、宇土まで戻り、三角(みすみ)港からフェリーで雲仙に行き、長崎に入りました。どこも遠い旅でしたが、私にすれば「不便だからほかの人はいかないんだ、この仕事は私にしかできない」。と自負していました。冷静に考えたならずいぶんつらい仕事だったと思いますが、その時は少しもつらくはなく、むしろ楽しいっ日々でした。

 その甲斐あって、収入には恵まれ、一回の指導の度にリサイタルが出来て、その度に道具が増えました。その後、東京イリュージョンを起こすときには人も道具も潤沢に出来ていたのです。それもこれも球磨川越えの絶壁でトラックを待ち続けたあの経験が今につながっているのでしょう。球磨川の氾濫を見て40年前を思い出しました。

 今も記憶する、球磨川の美しい景色に生まれ育った皆様が、何人かお亡くなりになったことは真に悲しく、心からご冥福を祈ります。合掌。

 

秘密の秘密の奥の院

 私は十代の後半から、二十代にかけて実に多くのマジシャンからマジックを習いました。単純なアドバイスなら、フレッドカプスやチャニングポロック、ダイバーノン、スライディーニなどなど、数多く名人と接して多くのアドバイスを受けました。

 時代はネットの文化になってしまいましたが、物としての種仕掛けなら映像でも伝わりますが、芸能の伝承と言うものは、直接習わない限り伝わりません。

 

 例えば、師匠の清子からサムチップを習った時に、テーブルに私が何気にサムチップ(小さなハンカチーフを出したり消したりする)種を置いたときに、清子は、それを見て、さりげなく、ハンカチに挟んで隠したのです。これを見た時私は「あぁ、昔のマジシャンはこうやって種を大切にしていたんだなぁ」。と知りました。

 実際、テーブルの上にサムチップがむき出しで置いてあってはいけません。然し、プロで生活していると、見慣れた道具はついついむき出しで置いてしまいがちです。それをきっちり人目につかないようにハンカチで隠すと言うのは、いかにも昭和初年にマジックを習った、マジシャンの行動です。

 こんな所作を見て育つと、マジックがどういう歴史を持って今日にたどり着いたのかがよくわかります。それを肌で知る、そして自らも生かす。こうしたことは、映像では学べないことです。

 若いころ、名古屋の松浦天海さんのお宅には度々習いに行き、初代天海のハンドリングなど随分習いました。松浦さんは、一通り教えてくれた後、細かな点を重点的にに教えてくれるのですが、その時に、私がかなり突っ込んでいろいろ質問をすると、松浦さんは困って。

「この部分は他のマジシャンには言っていないんだけども、藤山さんがあんまり熱心何で、教えましょう」。等と言って初代の秘密を話してくれました。私に取っては飛び上がらんばかりに嬉しいことで、そうして習ったハンドリングは、天海メモには載っていない部分で、松浦さん亡き後、私に取って宝物です。

 そのことは、高木重朗師も同じでした。師は教え上手で、一つの手順をいくつか簡単に演じる方法を心得ていて、相手を見ながら指導します。そんな時に、「先生が直接習った時の、本当の手順と言うのはどんな風だったんですか」。と尋ねると、しぶしぶ原作を教えてくれます。それを習うと、師がなぜこの手順を隠して教えたがらなかったかがよくわかりました。マジックは本当のことを軽々に教えてはいけません。安易に教えたなら、教えた作品は必ず、レべルが下がって、他の人に伝わるからです。教えるなら本当にその作品を愛して、理解を持った人に教えなければいけないのです。

 習う側も、本当の本当のことはくどいくらいに尋ねて、本心を問わなければ話してはもらえないのです。秘密の秘密の奥の院は簡単には開かないのです。

 

 ただ、若いうちに習ったことは今でもとても役に立っています。特に人に指導をする時には、初心者が何を考えてマジックを学んでいるかを考えると、自分自身の若い時の思いと、私に指導して下さった数々の師匠方の言葉が今になって思い出され、しかも、言われたとき以上にその意味がよくわかるために、とても勉強になります。習うと言うのはその場だけのことではなくて、一生習ったことの思いは付いて回るものです。

 

 ネットで種明かしをしているマジシャンがいますが、それをマジックの普及と言うのは間違いです。それは暴露です。相手の技量も考えず、一方的に種を暴露してしまうのですから、それはマジック界の発展にも、地位向上にもつながりません。むしろ価値を下げてしまいます。そこから優れたマジシャンは生まれては来ません。ネットで覚えたアマチュアはマジックの奥を知り得ないからです。表に見えている現象と種だけでマジックは出来上がっていると思っているのです。それだけでは人を感動させられない。と、こう話しても、ネットの種明かしを見て育ったアマチュアさんには何も伝わらないでしょう。それはやむを得ないことです。

 アマチュアマジシャンが増えることはいいことですが、種だけ知っているアマチュアが増えるのはあまり良い結果にはなりません。恐らく彼らは、マジックショウに3000円5000円と代価を支払って見に来る観客にはならないでしょう。仮に見に来たとしても、「あぁ、あれ知ってる、あれ出来る」と言う人ばかりが集まりそうです。マジックが芸能であることの認識がないまま、種がわかることでしかマジックを見ない人が育つのは、マジックの発展を妨げるだけです。

 

 然し、そんなアマチュアが増えることを嘆いているばかりではいけません。プロがネットの種明かしを見て育ったアマチュアと同じレベルのマジックをしていては将来がありません。今我々がしなければいけないことは、彼らが知っているマジックよりもより深く、よりレベルの高いマジックをしなければならないのです。

 しかも、それを演じる上で、ショウの構成、演出などが優れていなければいけません。はっきりアマチュアよりも上の立場に立って、プロの演技をしない限り、プロの存在感を示すことはできないのです。

 色々考えると、コロナウイルスの影響は、プロが生きる路線を立て直すためには、とても役に立つ時間を提供してくれたと思います。この時間を活かせる人が次の時代のスターです。とはいえ、余りに仕事が激減しては、暮らしもままなりません。それでも、まだ自分自身が少しでもマジックに投資する余力が残っているなら、ここで一つ真剣に考えて、勝負してみることは大切です。

 私が以前ブログで書きましたが、世の中は10年に一度、どうにもならないほどの不景気がきます。そんな時にはマジシャンが30人50人と廃業してゆきます。残念と言えば残念ですがやむを得ないのです。将来の勉強をする努力のない人は消えて行くのです。

 

 私が20歳になりたての頃、マジックショップに立っていた同じ年のマジシャンAが、誰からもマジックを習わずに我流のマジックをして、ステージに出ていました。ショップで指導の案内も出して、教室を開いていました。それに対して私は、親切心から、「まだ技術も身についていない立場で、人に物を教えるようなことをしないで、自分から先輩方に習いに行って、色々覚えたほうがいいよ」。と偉そうに言いました。

 それから30年して、何十年も会っていなかったAが奇術協会に所属してきました。然し、気の毒なことは、もう彼の技量では入会しても、人前に出せないのです。ある時、マジック大会に私がトリで出ていた時に、Aは舞台袖にいた私に静かに近づいてきて、「昔、藤山さんが、若いころは人に物を教えるのではなくて、先輩からいろいろ習ったほうがいいって言ってましたよねぇ。俺、今になってその意味が分かりました」。

 20代で分からなければいけないことが50代で分かっても遅いのです。それから半年後、Aは自分のアパートで餓死していました。仕事がなかったようです。一縷の思いで奇術協会に入って来ても、既に自分の居場所はなかったのです。あの時、人にすがるような寂しげな眼で私の舞台を見ていたAに、私は何の言葉もかけてやれませんでした。どうにかなりたければなぜ、もっと早くに相談に来てくれなかったかと思います。

終わり

芸能 芸術 いとをかし

 私は20代のころ随分高木重朗師からマジックを習いました。師は、今ではカードマジックの研究でその名を残していますが、実はステージマジックも大好きで、要は、ジャンルにこだわりがなく、物事を公平に見る目を持っていました。

 但し、師からステージ物を習おうと言う人はごくわずかでした。その一人が私で、師のマジックを見る目のすごさは単純なマジックを否定しないことでした。

 師は、「マジックの最高傑作はリンキングリングです」。と明確に仰って、人前で見せるときも、いくつものリング手順を持っていて頻繁に演じていました

 また晩年は、電動のライジングカードを良く見せていました。カードが競り上がって来るときに、必ずスーツの右ポケットに手を入れて、左手で魔法のジェスチュアーを掛けながら演じていました。そして楽屋で、「こうした道具ネタこそがマジシャンの価値なのです」。と言いました。スイッチ一つで現象の起こるマジックを決して否定しないのです。マジックをやり込んだ末のライジングカードの発言は重みがありました。

 同様に、中華蒸籠です。中華蒸籠とは、言ってしまえば二重筒の交換改めです。時代の流れから言って、最も若者がやりたがらないマジックです。しかし師は違うと言います。細かな改良が幾つもされていて、どれも不思議だと言うのです。その改良部分を飛ばして演じてしまうから、交換改めにしか見えないのだと言うのです。

 実際、習ってみると目から鱗の手順でした。とても古い作品ですので、古典を演じるものにはちょうどいい研究材料です。私の弟子は必ずこれを勉強します。実際に仕事先で演じるかどうかは別としても、プロダクションマジックがどういう考えでできているのかがよくわかります。まさに私の一門の芸です。

 実はこれを明日から前田に教えます。前田はまじめで、何でもよく稽古をしますので、きっとこれもものにするでしょう。いいマジックです。

 

芸能 芸術 いとをかし

「藤山さんはよく芸術の話をされますが、殆どのマジシャンは芸術家を目指してはいないんじゃないですか。エンターティナーで十分だと思うんですけど」。その通りです。

私が芸術を尤もらしく述べると、エンターティナーすなわち演芸家で生きて行って何が悪い。と居直りたくなりますよね。ただ、覚えていただきたいことは、エンターティナーの出来のいいものがアート(芸術)になるのです。演芸と芸術は別物ではありません。エンターティナーの行き着く先がアートです。今あなたの演技がアートのなっていなくても、長い年月の末にはアートになる可能性があります。いやいや、アートにならなかったとしても、よくよく考えてみたなら。アートとはこういうものだったのかと、気付くようになります。子供が大人になってゆくように、いつかアートの道は見えて来ます。エンターティナーとアートが別物と思っているマジシャンは、子供が大人になろうとしていないだけなのです。

 いつでもネットでマジックの種を探したり、DVDを買って人のアイデアを拝借したり、そうした研究をなさることは結構なのですが、そうして出来上がったマジックは、世界中似たり寄ったりの、誰もがするような作品になりませんか。

 気を付けなければいけないことは、発想を誰か、数人の司令塔に任せていては自分の名前が世に出ることはあり得ないのです。(数人の司令塔=世界中に何万人もマジシャンがいますが、実は、多くのマジシャンは、ほんの数人のマジックしか見ていないのです。そして、数人のマジシャンのすることを常に真似たり、追いかけたり、その人の出すマジックグッズを必死に買い集めたりしています。司令塔になるマジシャンは勿論、能力を認められた人ですが、それを追いかけるマジシャンは、マジックの世界では単なる餌になってしまいます)。みんなが検索するネットの販売店で、人気の商品を買えば、それだけであなたは、何万人といるマジシャンの一人になってしまいます。プロで生きるなら、頭脳を人任せにしてはいけません。人が知らない仕入れ先?を見つけださなければ成功はないのです。

 

 話を初めに戻して、自分のマジックはエンターティナーでいいなどと、自分から垣根をこしらえないでください。もう少し広く世の中を見て、他の芸術家が何に苦しんでいるか、何を目指しているかを考えてみてください。そのことがわかったなら、少し、自分のマジックに応用してみることです。お喋り一つ考えるのでも、少し知性のある話を舞台で提供すれば、新たな観客層を開拓できます。マジックの道具を持ちながら、マジックの話ばかりしているから、観客の共鳴を受けにくいのです。その話し方が知的に見えないから、アッパークラスの客層から相手にされないのです。

 

 モーツァルトは初めから芸術を作ろうとして音楽を書いたわけではありません。その時は生きることに必死で作曲していたのだと思います。然し、同時代の音楽家の中で抜きんでていい作品を残したから、後世、モーツァルトの音楽は芸術として残ったのです。芸術であるか否かは後に時代の人の判断によるものです。然し、だからと言ってそれが偶然に残ったわけではありません。実際モーツァルトはとんでもなく高いプライドを持っていました。絶対自分の作品は最高のものだと信じていました。

まず初めに才能がなければ作品は残りません。偶然では残り得ないのです。

 

 マジックの演技も、後世に乗りうる可能性は十分にあります。然し、そのためにいろいろ仕掛けておく必要があります。お喋りで下手なダジャレやギャグを言わないこと。同じ喋るなら、もう少し知性のある話をすること。似たり寄ったりのマジックをいくつもしないこと。どんなマジックもあなたにしかできないマジックであると思わせること。そこまで周到に自分の考えを張り巡らして、芸術に王手をかけておくのです。

 こうした形で手順を作れば、仮にコロナウイルスで仕事が減っても、ファンは必ず集まります。小さな仕事でも依頼が来て、生活が成り立つようになります。

 今、多くのマジシャンは仕事がなくて苦しんでいます。そんな時こそ、いろいろな資料を調べて、自身のマジックを肉付けしていって、厚みのある演技に仕上げるのです。泣いていても仕事は来ません。仕事はいい演技をする人にのみ来るのです。いい演技のできるマジシャンになることです。

芸能 芸術 いとおかし 終わり

芸能 芸術 なんのこと

 昨日は、来年2月の仕事の打ち合わせのために埼玉まで行ってきました。埼玉は決して遠くはありません。私の家から車で40分足らずです。水芸や蝶々を含めたフルショウを一日2回披露する企画を引き受けました。大きな仕事です。別にワークショップの仕事が一本つきました。全くの芸術、文化事業です。

 私はこうした大きな仕事が年間十本近くあるために、舞台回数が少なくても生きて行けます。これは長くこの道を続けてきたことで手に入る仕事ですので、有難いことだと思っています。

 但し、ネックとなるのは入場者数です。通常300人入る劇場なら、コロナウイルスの影響で、150人しか容れられません。意味のない入場制限です。こんなことをするから芸術がしぼんでしまうのです。ウイルスが感染するかもしれない。と心配して、過剰に対応した結果です。ご心配なく、コロナウイルスは感染しません。

 それが証拠に、京浜東北線や、中央線、山手線をご覧ください。相変わらず通勤ラッシュで人がひしめき合っています。連日、数分毎にあれだけの人を電車に乗せて、走らせていて、日本人のほとんどがウイルスに感染しないなら、コロナウイルスは感染しないのです。そうであるなら、ことさら劇場だけ入場制限するのはアンフェアな行為です。私が言っていることが違うと言う人がいるなら、山手線の混雑で、なぜ感染しないのか、その因果関係をどなたか解説してくださいませんか。

 人を集めると言うことは大変な努力が必要です。コロナウイルスが起こる前ですら、我々は自分の公演をどう満杯にするか、いつもいつも苦心していたのです。それを、一方的に、入場者を半分にすると言う行為は芸術の冒涜です。実演家の生活を全く無視しています。これでこの先芸能、芸術が生存してゆけるのかどうか。不安になります。誤った行為は一刻も早く正していただきたい。劇場の規制は無意味です。

 

芸能 芸術 なんのこと

 画家は、写真技術が生まれたことで、ものを似せて書く技術が無意味になります。そうなら画家の技術とは何か、と言うことを真剣に考えるようになります。そして初めて自分の心の中と向かい合います。その時日本の浮世絵に出会います。浮世絵がこの時代の西洋の画家に与えた影響は大きく、その後に出て来る印象派の絵画や、ゴッホなどに熱烈に支持されます。ゴッホの生涯の憧れは日本に行くことだったのです。

 西洋絵画は、独自の発展をして行き、後のキュビスムなど、個性的な作風がどんどん現れます。それに対して、多くの大衆は、旧来の、綺麗な素直に描かれた絵画の価値基準から超えることなく、新しい発想の絵画を「変だ」。と見るようになります。

 丸いリンゴを四角に描いたり、赤いリンゴを紫色で描いたり、ゴッホのように、農村風景をまるで炎のように、木も、道も、教会も、すべてゆらゆら揺らめいて描いたりします。実際の風景とゴッホの世界とはきっとずいぶん違うもののはずです。

 これらの絵画を見て、多くの人はただ「変だ」と言います。今となっては信じられない話ですが、実際ゴッホの絵を見て、当時の批評家が、「木がまっすぐに描けていない」。と真面目に批評しています。批評家には、ゴッホが単に下手な画家に見えたのでしょう。が、ゴッホにとってはその「変な絵」こそ自分の発想なのです。曲がった木だからゴッホなのです。

 芸術は、発展するに及んで、古典的な考えでものを見る大衆からどんどん離れて行きます。と言うよりも、大衆の理解が追いつかなくなって行くのです。多くの人が、ほんの少し発想を変えて、描き手の意思を推量してあげたなら、何ら難しいことをしているわけではないものを、自分の理解を超えた作品に対して、大衆は、難解なもの、理解しがたいものと考えてしまいがちです。

 

 音楽も同様で、音楽が発展して来ると、表に聞こえている音楽をただ弾いて見せることだけでは音楽を表現していることにはならなくなります。決して複雑なことではないのですが、作曲家が何を語りたいと考えてこの曲を作ったかを、音符から読み取れなければ音楽にはならないのです。そのためにプロの演奏家が必要になります。

 芸術は、百年の歳月を経て、楽器を演奏する技術から、曲をどう解釈するかという考え方の方に比重が移ってしまったのです。時代が進むにつれて、音楽はどんどん複雑になり、作曲家の個性が際立つようになって行きました。 それにつれて、芸術と言う言葉の意味も変わって行ったのです。

 芸術が複雑化すると、表現方法も多様化し、なかなかアマチュアの理解で表現することは難しくなってきます。作曲家や、作者の意図するところが読み取りにくいことは多々あります。指揮者が膨大なスコア(全オーケストラの音符)を眺めながら、何日も曲の解釈について苦しむ姿などは、その例です。

 演じる側も、単純に喜怒哀楽をそのまま表現することが成功につながるとは限らないのです。むしろ、芸の本質はもっと、意地悪くひねくれて存在することも多々あるのです。それを見つけ出して、ひねって演じるのが演者の仕事です。

 

 私事で恐縮ですが、私が紙の蝶を飛ばしていると、お客様の中で、私をほめてくれようとする意味で、「まるで生きている蝶みたいですね」。と仰ってくださる方があります。しかし、私は蝶を本物のように飛ばしてはいません。本物の蝶は飛ぶときはもっとせわしないのです。一度モンシロチョウなどが飛んでいる姿をご覧ください。

 蝶は、遠目に見れば優雅に飛んでいるように見えますが、近くで見たなら、ものすごい運動量で、上に下に、右に左に、実にせわしなく、風に吹き飛ばされないように、必死に飛んでいます。然しそれを真似て、舞台で表現したら全く蝶になりません。

 舞台の蝶はもっとゆっくり、優雅に飛んでいます。つまり蝶の芸は決して生きた蝶の模写ではないのです。舞台の蝶は、天上の蓮の台(うてな)の上を飛ぶ蝶なのです。それを、まるで生きているかのよう、と言って褒めてくださることは、有難くはあっても、実は、多くのお客様の理解が、芸能が物を写すことと考えていた時代の芸術観であって、その先の芸術の発展に気づかれていないのです。

 但し、お客様が耽美的な古典の世界を求めていることは一向にかまわないのです。然し、演じる側の意識が百年以上も前の考え方でいては将来がないのです。

次回このあたりを詳しくお話ししましょう。

続く

芸能 芸術 の始まりは

 言葉は時代とともに意味が変化して行きます。 芸術と言う言葉の意味も、この200年で大きく変わっています。芸能、演芸、芸術は何がどう違うか。ことさら業種を区別して、これは演芸、これは芸術とまことしやかに言う人がありますが、私はあまり意味はないと思います。

 例えば、芸術のカテゴリーにある古典芸能や、クラシック音楽の中にも、お粗末な内容の作品を見ることがありますし、ベートーベンや、ブラームスのようにしっかりした考えで作られた作品でも、演奏家や、指揮者の未熟によって、全く心に響いてこない人もあります。これが演芸ならば、下手でも、多少、笑ったりおもしろがってみることが出来ますが、クラシック音楽のつまらない演奏会と言うのは取り付く島がありません。

 

 芸術、芸能、演芸はどう違うのでしょう。少なくとも200年前の頃には特別な違いはなかったはずです。芸も、能も、術も、意味するところは同じです。どれも「わざ」と言う意味です。ピアノが弾ける、バイオリンが引ける、絵が書ける、マジックができる、 それら、人を超えた技術を要している人はすべてが芸術家だったのです。芸術とは、単なる表現するための技術だったのです。

 それは、当時、ピアノ一台所有することは、家一軒建てるのと同じくらいの費用が掛かったために、所有者が限られていたのです。しかも、日がな一日ピアノを演奏できる人と言うのは貴族の子弟か、高所得の実業家の家族でなければ不可能だったのです。

一つの町に何人と居ない家族の中で、ピアノが弾けると言うことはそれだけで選ばれた人であって、ピアノを所有している毎日演奏していると言うことはそれだけで芸術家だったのです。

 然し、今日では素人の弾くピアノを芸術とは言いません。私の家にはピアノがあり、女房が一日3時間くらいピアノの稽古をしています。めったなことでは人前で弾きませません。その彼女の演奏するピアノは芸術かと問えば、今日の間隔では芸術とは遠いものです。

 

 なぜか、それはその後にベートーベンが現れたからです。ベートーベンの肖像はみんな知っていますが、ベートーベンがなぜ偉大かは音楽の授業では語られません。ベートーベンは音楽に哲学を持ち込んだ人です。

 それまでのハイドンなどは、宮廷音楽家でした。宮廷音楽家の仕事は貴族のお茶会や、夜の舞踏会で音楽を演奏をすることです。その音楽は、貴族の会話の邪魔をしてはいけません。なるべく自己主張せずに、綺麗で静かな音楽を演奏していれば一生生活して行けたのです。すなわちBGMの演奏と作曲が宮廷音楽家の仕事だったのです。

 そうした中でハイドンは作曲もし、自分のオリジナル曲を数多く発表しました。それらは貴族の間でも認められていましたが、その知名度は限定されていました、モーツァルトも同様に、貴族のために作曲をしていました。モーツァルトは途中から、大衆の存在に気付き、一般大衆のために音楽を作曲するようになりますが、大衆の好みを読み切れていなかったために、収入に恵まれず、惨めな生活を送りました。

 そしてべートーベンの登場です。ベートーベンと言う人は、音楽室の肖像画から見ると、頑固一徹で、自説を曲げない、偏屈な人のように見えますが、どうしてどうして流行に敏感で、人の心をつかむのがうまく、自作の音楽を高く売り込むことも上手でした。顔つきも若いころは精悍で、貴族の娘たちの間では結構人気があったようです。

 そして何より強烈だったのは、彼の音楽が、強い個性と、意志的なことでした。いきなり「人生いかに生きるべきか」。を問いかけます。ベートーベンの音楽は、お茶会で雑談をしながら聞く音楽ではありません。入場料を払って、音楽会で真剣に聴くための音楽として作られたのです。

 それはこの時代に力をつけてきた、企業家や、資産家を新たなスポンサーとするために、より刺激の強い、明確な考え方の音楽を作って見せる必要があったのです。ベートーベン以降は、特定の貴族の好みに合わせるのでなく、自分自身の個性を世間に訴えて、自己の主張を展開する音楽家が育って行きます。音楽は鳴っている音楽の背景に哲学が存在するようになります。

 べートーベンで言うなら、「苦悩から歓喜への道」がテーマです。ベートーベンは人生をかけて、同じテーマを語り続けます。苦難にめげず、克服してこそ喜びがある。そうした曲を作り続けました。ソナタ形式を形式のとどめるのでなく、弁証法的に考えを戦わせて、徹底的に議論します。音と音とが戦うのです。そして勝利に導きます。

 モーツァルトハイドンには、音の戦いはほとんどなかったのです。そんな曲ができると、それに合わせて曲の意味をきっちり理解して、背景まで語り込める演奏家が求められるようになり、そうした人を芸術家と呼ぶようになったのです。

 

 同時期に、絵画の世界も大きな変革がありました。200年前の画家と言うのは、殆どは肖像画書きを仕事にしていました。金持ちは自分の姿を残そうと、画家に大金を支払って、自分の肖像を描かせたのです。画家の技術とは、頼まれた人を似せて書くことです。似ていれば芸術だったのです。今でも街角にいる似顔絵書きと同じです。

 ところが、ある日突然、失業の危機が訪れます。写真の発明です。写真は一瞬で真実を映しますので、絵描きが半月一か月かかって、肖像画を描く手間がいりません。当初は小さなサイズの写真しか作れませんでしたので、画家連中も高を括っていたのですが、徐々に写真技術が発達すると、画家の職業を脅かしてゆきます。

 ここで画家ははたと悩みます。似せると言う点では絵は写真にかないません。似せて描くことは技術にならなくなったのです。悩みます。そこで出した答えは、似せることを諦めることです。絵画は似ていなくてもいいと気付いたのです。

 似せることよりも、「自分はこう見た」、「こんな世界を描いてみたい」、という、画家の意思のほうが重要で、画家の考え方、画家が作り上げた世界に理解者が代価を支払うようになったのです。

 おりしも、幕末期に至って、西洋は、日本との交流を深めます。すると、日本の浮世絵がたくさん輸入されるようになります。それらの絵は、当初は、二束三文で売られていました。と言うのも、売れ残った浮世絵が、たまたま紙くず屋に渡り、当時しきりに輸出していた、お茶を入れるための木箱が湿気を防ぐために、内張りに、和紙を張っていたのです。その和紙がたまたま売れ残りの浮世絵で、茶箱の裏に何重にも浮世絵を張っていたのです。このため、三代目広重などは、西洋では、茶箱の広重と呼ばれて、人気を博します)。

 西洋人は茶箱の裏紙を丁寧にはがして行き、それらの浮世絵を見てびっくりです。そこに描かれていたものは、全く自由な画風で、少しも真実が描かれてはいなかったのです。西洋人は浮世絵を見て、初めは単に未熟で下手な絵だと思っていました。しかし一度見たら忘れられません。何度も何度も見ているうちに、この荒唐無稽な版画こそ真実を語っているのではないかと気づき始めます。

 浮世絵を見ると、人間の骨格など無茶苦茶です。写楽の絵などは、胸から突然両手が出てきたような絵があります。歌麿美人画も、実際人を立たせたらあんな風には立てません。しかしそんなことはどうでもいいのです。リアルに描く必要がないのです。自分はこう考えた、自分の描きたい世界はこれだと言う画家の意思こそが重要なのです。

 写真に押されて、絶滅の危機だった西洋絵画は、浮世絵を見て、生きる道を学びます。そこから近代の絵画が発展して行きます。

続く