手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 8 超えられない人

天一 8 超えられない人

 明治13年正月、千日前の小屋がけで天一は西洋奇術一座の看板を上げます。この時の天一は、音羽瀧寿斎を名乗っています。西洋奇術一座と言うのは、天一が初めてではありません。明治3,4年ころから既に西洋奇術を演じる奇術師はたくさん現れています。

 天一が西洋奇術の看板を出す10年ほど前、明治初年に一度、西洋奇術のブームがあったのです。それは、海外に渡った手妻師が、蝶や水芸を演じ、随分西洋で稼いだのです。稼いだ金で西洋奇術の道具を買い込み、日本に戻って来ると、手妻を演じることをせずに、洋服を着て西洋奇術師として看板を出したのです。当初は珍しさで観客を集めますが、数年すると西洋奇術は終息します。

 なぜ終息したのかと言えば、同じ出し物ばかり続けていたために数年で飽きられてしまったのです。今も昔も、奇術師にとって目新しい種仕掛けを探し続けることは大きな苦労を要するのです。

 でも、本来は種仕掛けで人の興味を集めるのではなく、奇術師個人の魅力や、何度見ても見飽きのしない芸が備わってこそ長くこの道で生きてゆけるのですが、なまじ目新しい種を手に入れたことで稼ぐ方法を覚えた芸人は、常に新しい種仕掛けを追い求めることになります。しかし明治初年の日本では情報がほとんど入って来ないため。結果として目新しさが消えた時が人気が消えるときになってしまいます。

 そして、西洋奇術がひとしきり飽きられたときに天一が現れたわけです。しかし天一は、それまでの奇術師とはずいぶん違っていました。恐らく天一は、ジョネスからもらった給料を全てはたいて、洋服を仕立てたのでしょう。当時西洋奇術の看板を出している奇術師でも、服装がいい加減な人が多く、山高帽子、ステッキ、靴に至るまで本物を持っている奇術師は少なかったのです。

 無論正装で演じる奇術師もいるにはいたのですが、天一のように、フロックコートに蝶ネクタイ、山高帽子、ステッキを持って舞台に現れ、その姿が西洋のマナーにかなっていて堂々としている奇術師はいなかったのでしょう。

 天一はこの時からカイゼル髭を生やし始めたようです。カイゼル髭とは、ドイツの皇帝、ウイルヘルム二世が生やしていた髭で、口の上に左右に伸びた髭のことで、髭の端がピンと上を向いた髭です。軍人や、政治家が多く真似て生やしたスタイルでした。これで押し出しは十分です。まるで県知事か代議士、軍人のような堂々とした態度で小屋掛けから出てきたものですから、お客様はびっくりです。みすぼらしい千日前の小屋掛けでこんな風格のある芸人と遭遇するとは誰も予想していなかったのです。

 もちろん外見だけでなく、奇術もジョネスから習った本物の西洋の奇術をこなし、珍しい演技をいくつも見せました。これで人気が出ないわけはありません。連日満員です。この時天一はようやく西洋奇術師としての成功を掴んだのです。28歳でした。

 

 ところが喜んでいるのもつかの間でした。道頓堀の五座のうち、中座では、東京から帰天斎正一を招き、西洋奇術の看板を上げました。それに対抗するかのように、弁天座(後の文楽座)では、中村一登久が、西洋奇術と水芸を看板にして華々しく興行しました。歌舞伎や新派、人形浄瑠璃などの芝居を演じる浪速の五座で、二つの劇場が正月から一か月間、西洋奇術の興行を始めたのです。

 いずれは出てみたいと思っていた道頓堀の五座での西洋奇術は、天一にとっては由々しき大事でした。天一が千日前の小屋掛けで、入場料、一人一銭か二銭で奇術を見せていたのに、帰天斎は中座で一人一円の入場料を取ったようです。規模と言い、稼ぎといいとても勝負になりません。しかも、中座の人気は大阪中の話題でした。

 帰天斎正一は東京の奇術師で、元は落語家でした。しかし幕末期から江戸は不景気で、寄席に人が集まりませんでした。それは参勤交代がなくなり、侍の数が減ったことが大きく、更に、明治維新徳川将軍家が官軍に敗れると、江戸城を出なければならず、徳川一族は静岡に移ります。その折、旗本、御家人も引き連れて静岡に移ったため、江戸の人口は一遍に減ってしまい、侍相手に商売していた町人は一気に失業して仕舞います。

 そうなると寄席は不入りが続きます。そうした中で、帰天斎は西洋人から奇術を習い覚え、寄席で演じてみると、喋りが達者なことから評判になります。そこで落語家を廃業し、奇術師で生きて行くことにします。

 帰天斎は、外国人の片言の日本語を真似て、「あなた、よくみるよろし」などと言うへんてこなセリフを考え出します。これがお客様にバカ受けし、一躍人気者になります。稼いだ金で大道具を買い集め、西洋奇術の看板を上げ、大舞台に乗り出します。

 

 方や中村一登久は、この数年、大阪で活動を続けていましたので、天一は一登久の舞台は前から何度も見ていたでしょう。

 中村一登久と言う人は、努力の人で、この人の水芸は日々進化していました。初めは養老派の影響を強く受けた水芸だったようですが、水の出る個所を増やしたり、手先に持った扇子で、湯呑から立ち昇る水を扇子で掬い取ったりする演技を考えて、人気が急上昇します。

 西洋奇術も人体浮揚や、壺抜け、剣刺しなど、さまざまな新しい道具を演じています。何より一登久は愛嬌があって、人を飽きさせず、喋りが達者で、特に謎がけが達者だったそうで、お客様からお題を貰うと、すぐさま舞台で洒落た答えを出して、お客様を笑いの渦に巻き込みます。これほど陽気で頭のいい芸人が、奇術を面白おかしく見せたなら、到底天一はかないません。

 天一は、自分の出番を終えると、弁天座や中座に行って、穴のあくほど二人の芸を見たはずです。当時天一にすれば、二人の芸は、生涯かけても追い越すことのできない、憧れの芸人だったはずです。然し、少しでも近づく努力をしなければどうにもなりません。天一は必死で二人に接近し、指導を乞うたことでしょう。この時の天一は何とかなりたい一心で必死だったのです。座敷に招待したりして自身を売り込んだりしたのでしょう。やがて少しずつ二人が声をかけてくれるようになります。

続く

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

 

 昨日(21日)は、中華蒸籠(せいろう)を稽古しました。私は中華蒸籠を日本式に改めて演じています。本来日本には、緒小桶(おごけ)と言う三本筒の芸が江戸中期までありました。これは中華蒸籠の原型の奇術です。10年前にこれを復活上演しましたが、今一つ見せ方がすっきりしません。と言うよりも、今、中華蒸籠の扱いを見てしまうと、緒小桶は物足らないものに感じます。そこで中華蒸籠を外観から壺までデザインをし直して10年ほど前に和風に作り変えました。筒は飴色のニスで塗り、渋く出来ています。中の壺は、メッキの壺ではなく、グラスファイバーで作って、陶器に見えるように白地に梅の絵の描かれています。

 私は昔から中華蒸籠は好きでしたが、あのメッキの壺が嫌いでした。メッキの壺と言うのは日本中のどこの家の床の間にも飾ってありません。そこで一から製作したのです。ところが、私がデザインした蒸籠も壺も、うっかり全部弟子や生徒さんに出してしまったのです。困りました。そこで昨日、従来のメッキの壺に艶消しの白の塗料を吹き付けてみました。いい具合です。ちょっと見ためには金属に見えません。これでしばらく稽古をして、4月の玉ひでにかけてみます。

 

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

 天一に大きな影響を与えたジョネスと言う人物が謎の人です。どんな人なのかよくわかりません。アメリカ人とも、イギリス人とも書かれています。職業も、奇術師とも、貿易商人とも書かれています。天一も「紳商ジョ子ンスー(しんしょうジョネンスー)」などと述べています。紳商とは紳士の商人と言う意味でしょうか、そうなら人品の確かな人でしょう。名前はジョネスが本当か、ジョネンスーが本当なのか不明です。

 貿易に関わっていて、趣味で奇術をしていたと言うことは十分あり得ます。後に天一がジョネスの奇術師の技量を語らなかったところを見ると、ジョネスはアマチュアで、奇術の腕前はそう大したものではなかったのかもしれません。そもそも、自分一人でショウができるなら、天一を使う必要はないわけですから、そう持ちネタの多い人ではなかったのでしょう。

 ジョネスは、軽業の芸人を連れて、上海あたりまで売り込んでいたと言う記録もありますから、プロモーターもしていたのでしょう。謎多き人ではありますが、何にしてもジョネスが天一を雇ってくれたことは幸いでした。

 「新古文林」では、ジョネスに買われて年1000円で3年契約をした。等と書いていますが、当時の1000円は現在の3000万円に匹敵します。3年で9000万円の契約をしたと言うのは吹きすぎです。ジョネスとともに、イギリスに行き、更に欧州各地で興行し、西洋の奇術師と奇術合戦をしたなどと述べていますが、全てほらです。

 まだこの時期、天一は海外に行ってはいません。私は外務省の外交史料館渡航資料を調べたところ、天一がこの時期に海外に出た形跡はありません。何しろ無宿人ですから、パスポートが下りません。恐らく天一は、横浜、神戸、長崎の外人居留地でジョネスの興行を手伝っていたのだと思います。

 ジョネスとはどこで会ったのか、これも謎です。長崎で知り合ったと言う記述もあります。ジョネスは横浜に住んでいたと言う新聞記事があります。また、天一の活動を考えると、神戸と言うことも考えられます。神戸には今も、ジョネス邸と言う西洋館があります。この建物が後のジョネスの家だったとしたら、ジョネスは相当に大きな仕事をしていた人と言えます。実際がどうなのかはわかりません。

 話を戻して、恐らくジョネスは、外国人居留地で奇術を見せていたのでしょう。そうした流れの中で、上海あたりに行く話があったのかもしれません。そこで天一は、大慌てで、阿波の西光寺に行き、籍を入れてもらいに行った可能性はあります。

 後年天一は、本名を服部松旭と名乗ります。これは唯阿上人から勘当を許されて服部を名乗るのですが、実は、唯阿上人自身は天一の父親の弟ですから、牧野を名乗っていたはずです。それが明治9年に、地元の有力者の服部家を相続して服部姓を名乗ることになります。いきさつは不明ですが、廃仏毀釈(仏教を教えてはいけない)の法律などで、寺は一時存続出来ず、唯阿上人は僧職を降りたのかもしれません。

 いずれにしても天一が服部になるためには、唯阿上人が服部を名乗っていなければならないわけですから、天一が唯阿上人に侘びを入れて籍に入れたのは明治9年以降になります。恐らく、ジョネスを知り合って、上海行きのために急ぎ籍を入れてもらいに行ったときに服部になったのではないかと思います。それが明治11年頃だとしたら、天一26歳の時になります。

 天一は、このころ服部松旭になりましたが、その名前で海外に出た形跡はありません。この時期は神戸か長崎の外人居留地でジョネスを手伝っていたのでしょう。そもそもジョネス自身も日本の法律で、勝手気ままに日本の町を歩くことは出来なかったのです。まだ攘夷派の侍の生き残りがうろついていて、外国人の外出は危険だったのです。

 

 天一がジョネスと知り合ったことは大きなチャンスを生みます。一つは、ジョネスから西洋奇術を習ったことです。情報の少なかった時代に西洋奇術を習えたことは幸運でした。但し、ジョネスが親切心で教えたとは思えません。給料から天引きしてレッスン料を取るなどしたのかもしれません。いずれにしても日本の徒弟制度とは違った形で奇術を教えたのでしょう。

 それにもまして、天一の掴んだ大きなチャンスは、西洋人の立ち居振る舞いを覚えたことです。常にジョネスについていて、彼らがシルクハットや手袋をいつ外して、どういう風に持っているか、挨拶はどういう風にするのか、細かなマナーを見て取ったのです。これにより、天一は西洋のマナーを覚えたのです。これがこののち天一を大きくします。日本の県知事や、政治家ですら、洋服姿が慣れずに苦労していたのに、天一は舞台姿が堂々としていましたし、服装がきっちりした正装だったのです。

 この時代の西洋奇術師を真似た日本人は、いい加減な服装の奇術師が多かったのです。シャツは買えても上着が買えずに陣羽織を着ていたり、ズボンが買えないために袴をはいていたり、およそ西洋人に見えない格好で西洋奇術を演じている人が多かったのですが、天一はそのレベルを超えていたのです。このことが天一を大きく見せ、出世の糸口をつかむことになります。

 ジョネスの元を離れ、明治13年の正月。天一は千日前の興行で、西洋奇術一座の看板を上げ、華々しくデビューをします。

続く(明日は日曜日ですのでブログを休みます)

 

 

天一 6 西洋奇術と出会う

天一 6

 

打ち合わせと小春軒

 昨日(22日)は、夏以降のショウの企画の打ち合わせに行きました。この企画が決まれば、かなり長く大きな仕事が手に入ります。私のメリットだけでなく、若いマジシャンにも仕事を提供できます。そうなればそこから優れた人材も育って行くでしょう。何とか企画が成功するようにチャンスをつないでゆきたいと思います。

 帰り際に、人形町の洋食屋さんの小春軒に行ってきました。さて、私が小春軒に入るのは三十年ぶりです。今までも玉ひでには頻繁に来ているのですが、その並びにありながら、小春軒にはなかなか寄ることが出来ませんでした。ここの得意は揚げ物なのですが、自慢のミックスフライを頼むのは今の私にはどうかなぁ、と躊躇しました。

 と、言うのも最近、脂で揚げたものがあまり食べられなくなってきました。残したらまずいなぁ。と思っていると、店のおかみさんが「うちのミックスフライは90歳のお婆さんでも食べますよ」。と言われ、それならと、私と前田の分二人前を注文しました。

 出てきたものはメンチカツや、とんかつが小さく作ってあり、海老フライだけが立派な大きさでした。依然食べた時には、もっとボリュームがあったと思っていたのですが、あの時は、海老フライとメンチカツを別々に頼んでいたのかもしれません。ミックスフライの盛り合わせは、メンチなどは一口サイズでしたので、このサイズなら十分食べられます。イメージばかりが膨らんで過大に考えていました。

 味は、高円寺のDAIGOに揚げ方が似ているように思いますが、小春軒はガーリックを使うなどして個性を出しています。

 元々初代が明治の末に帝国ホテルでコックをしていて、その後人形町に店を出したのですが、そのフライの揚げ方が、少しもしつこくなく、からりと上がっているところが評判になり、100年ののれんを維持しています。店は少しも気取ったところがなく、ガラガラと明ける引き戸も昔のままです。そのまま蕎麦屋や、うなぎ屋に替えても成り立つくらい和風な店です。

 ライスが付いて1500円はお安い価格です。前田は思わぬご馳走に大満足でした。日常の洋食として一度召し上がっては如何でしょう。土日は休みです。

 

天一 6 西洋奇術と出会う

 真剣に師匠を探していた天一は、養老瀧五郎に断られ、吉田菊丸(後の菊五郎)に断られ、彷徨(さまよ)った挙句、音羽と言う師匠に出会います。この音羽が屋号なのか、名前なのか不明です。後に天一は、音羽瀧寿斎と名乗って水芸をするようになりますので、常識的に考えて、音羽は屋号で、その後に〇〇斎と名前が付いたのでしょう。しかし天一はついぞ師匠の名前を世間に明らかにはしませんでした。

 なぜかと言えば、名を成したのちの天一は、自らを水芸の元祖とほらを吹いていました。自分が元祖なら師匠がいるはずはありません。そのため、音羽の師匠を隠してしまったのでしょう。義理堅い天一としては汚点と言えます。

 天一の弟子の天洋は、「奇術と私」の著述の中で、「先生(天一)は昔、音羽斎寿斎と名乗っていた」。と書いています。音羽斎寿斎とはおかしな名前です。名前に斎の字が二度も出て来ます。天洋は記憶違いが多く、時に師の話は読者を混乱させます。色々調べると、音羽瀧寿斎が正解でした。

 天一音羽瀧寿斎なら、師匠の名前は誰なのかと調べましたが、わかりません。大きな流れで言うなら、養老の一門のようです。と言うのも天一が初期に演じていた水芸は、大きな水枕を舞台袖で後見が圧縮して、それをホースで送る式のようですから小型で軽量な水芸です。水枕を使うのは新工夫ですが、江戸時代の、水の出る個所の少ない、柳川や、養老の初期の水芸を継承していると考えられます。

 そんな水芸でも、弟子にはなかなか教えてはもらえなかったでしょう。厳しい徒弟制度の中で天一は苦しい日々を過ごしたのだと思います。晴れて独り立ちした後も、天一は修行時代を何も語ろうとはしません。嫌なことが多かったのでしょう。

 それでも水芸を習得した天一は、明治9年頃(私の推測です)に音羽瀧寿斎として一座を持ち、主に関西、中国、、四国方面で小屋掛けに出ていたようです。その興行が評判だったのかどうかは分かりません。ただ、天一が西洋奇術師として成功した明治20年ごろ、天一を見た人は、当時35歳だった天一を45歳くらいに思っていたようです。

 額の皺は深く、その顔には明らかに苦労の跡が見えたようです。若いころから一座を持ち、来るか来ないかわからない観客を当てにして、座員の面倒を見る天一は、若くしてたくさんの苦労を抱えていたのでしょう。

 私なども、26歳からイリュージョンの仕事をはじめ、男女のアシスタントを雇って給料の面倒を見ていたころを思い出すと、天一の苦労は全く人ごとには思えません。

 20代半ばの天一は、当時出来た千日前の興行街に頻繁に出ていたようです。千日前は今は難波グランド花月などがあり、大阪の中心の繁華街ですが、元々は墓場と刑場のあったこの地域は明治になって、一帯を整備しましたが、場所が場所だけになかなか人が借りたがりません。そこで大阪市はこの地を興行街にして人を集めることを考えます。人が集まれば、飲食店などもできると考えたのです。

 今も昔も大阪の一等の繁華は北と南です。北は梅田、南の中心は道頓堀。道頓堀には江戸以来の芝居小屋が五軒並んで建っていました。それぞれが1000人以上入る大きな芝居小屋です。ここが格としては大阪一番でした。天一はこの五座には出演できません。もっぱら千日前の小屋掛けに出ていたのです。

 私が27歳の時に、大阪の角座に出演しました。当時は道頓堀の五座が残っていました。日本橋(にっぽんばし)から歩いて行くと、文楽座、東映の映画館(江戸時代の朝日座)、角座、中座、戎(えびす)座、この五座の中の角座に出られたことが今となっては貴重な経験でした。20代半ばの天一は、五座に出たいと思いつつも、それが果たせず、千日前の粗末な小屋掛けで日々を送っていました。

 そこに転機が訪れます。アメリカ人のジョネスと言う奇術師が、天一の水芸を気に入ってくれて、一緒に興行しようと言ってきたのです。しかも、場所は西洋人居留地での催しです。毎日西洋人の生活を観察できるわけですし、天一にすれば西洋人が自らの水芸をどう評価してくれるかも興味です。なお且つ、ジョネスの奇術を手伝うことも条件に入っています。上手くすれば西洋奇術を習えるかもしれません。一石二鳥、いや三鳥の機会です。天一はジョネスの申し出を二つ返事で引き受けます。

続く

 

 

天一 5

天一 5

 さて四国を離れ、意気揚々と和歌山に渡った天一は、大きな野心を抱いていたでしょう。和歌山で成功すれば、大阪までは目と鼻の先です。大阪で名を挙げて、日本一の剣渡りの大夫になろうと考えていたと思います。

 和歌山に着くと、興行師が、「つい最近大阪で火渡りの術を見てきました、すごい術でした。時に大夫さんは火渡りはされますか」。と尋ねて来ました。天一は若気の至りで、「ああ、出来るよ」。と安請け合いをしてしまいます。すると興行師が「それならば剣渡りだけでなく火渡りもやりましょう」。と言って、剣渡りと火渡りの二つを演じる大夫とビラを書き直し、町中宣伝してしまいます。天一は出来ると言った手前やらないわけにはいきません。然し、天一は火渡りを見たことも、やったこともありません。山伏の秘術だと言う話は聞いています。実際どうやるのかは全く知らなかったのです。

 そんなことはお構いなしに、興行師は、炭俵を買い込み、翌日、芝居小屋の舞台と客席の間の一部の床板を外し、そこへ横一列に渡り道をこしらえます。道の上には炭をたくさん並べ、開演と同時に火をおこします。お客様は満員です。火は赤々と燃え盛り、あとは大夫の出を待つばかりです。興行師に「大夫、どうぞお願いします」。呼び出されて舞台に出ると、火が恐ろしいほど燃え盛っています。さすがの天一も怯(ひる)んで、身が竦(すく)んでしまいます。

 昨日はいい加減な返事をしてしまいましたが、実際の炎を見てどうにもなりません。

「でも、素早く早く走り抜ければ、何とかなるだろう」。と高を括って、炎の中を走り抜けようとしました。ところが一歩足を踏み入れた途端、熱いのなんの、とても走れるような状態ではありません。たちまち気絶して、倒れてしまいます。

 気が付けば宿屋の布団に寝ていました。何日寝ていたのかは知りませんが、足は全く動きません。あたりを見渡すと、座員も、女房の秀もいなくなっています。秀は天一に見切りをつけてさっさといなくなったようです。

 下回りの手品連も日頃は天一を大夫だの、兄(あに)さんだのと持ち上げていましたが、足が使えなければ剣渡りもできません。そうなら一座は維持できませんから、蜘蛛の子を散らすように消えてしまいました。恩知らずと腹を立てみてもどうにもなりません。下回りは食ってゆくのに必死なのです。

 

 後年天一は、和歌山での火渡りの話をことあるごとに面白おかしく人に話しましたが、この時は、人生のどん底に突き落とされた心地だったでしょう。実際火傷の痕はものすごく、足が膝まで焼けただれていたそうです。何でもあけっぴろげに話をする天一でしたが、足の火傷を人に見せることはなく、夏でも足袋を履いていたそうです。本心は大きな汚点だったのです。

 そして、宿屋で寝ていた天一は自問自答する毎日だったはずです。これまでの人生がうまく行きすぎていたのです。なんの修行もしていないのに、度胸だけで出世をつかみ、十代で大夫となり、土佐から四国、四国から和歌山と乗り出してゆこうとするまではよかったのですが、運は長くは続きません。大きな躓(つまず)きを経験します。

 私はこの時の天一を、禅の十牛図になぞらえ、芸道の修行を解説しました。ご興味の方は、ブログの十牛図をご覧ください。この時までの天一は、怖いものなしです。やることなすこと大当たりで、万事は自分を中心に世の中が回っているように思えたでしょう。然し、火傷をして無一文になって、全てのことが夢物語だったことを知ります。

 有名だったと言っても四国の一地方のことで、広く日本を眺めたなら、天一はまだ無名です。技も、適当に覚えたもので、まだ自分のものはない一つできてはいません。よくよく見たなら小さな成功だったのです。世の中に誇れるような物などないのです。

 天一は、この時始めで自分自身を等身大の寸法で眺めることが出来たのです。気付いてみれば、ただ世間知らずの十代の若造だったのです。それがわかると急に委縮してしまい、これまでの堂々とした姿は消えてしまいました。

 

 丸一か月宿屋で寝込んで、ようやく歩けるようになって、和歌山を離れますが、一か月の宿代と、治療費でこれまで稼いだ金はすべてなくなりました。仲間も女房もいなくなり、道具一式、衣装も売り払い、全く身一つで大阪に旅立ちます。

 大阪に行って実際に火渡りを見てみると、およそ和歌山でやったようなあんな火渡りではありませんでした。渡り道は、事前に溝が彫ってあり、そこにはわからないように水が張ってあります。その上に木の枝を梯子のように並べて、さらにその上に小枝を敷き詰めて水を隠してあり、そこに薪を敷いて上から火を興します。火は下火になるまで待ち、そこに鹹水(かんすい=石鹸の材料)と塩をまきます。共に火の温度を下げるそうです。さんざん温度を下げておいて、水を張った上を歩くのですから、大した熱さではありません。

 それを知らずに、火の燃え盛る炭の上を直に歩けば足は焼け焦げてしまいます。何も知らずに無謀なことをした自分が愚か者です。

 ここで天一は、しっかり芸を学ぶことの大切さを知ります。そして大阪で当時の手妻や奇術の興行を片端から見て回ります。すると誰を見ても巧く見えます。それまでどんな名人を見ても大した者とは思わなかったのですが、今は自分より若い芸人を見ても巧いと思います。初めて人の技量が見えるようになったのです。

 人は考え方が変わると、それまで見えていた世界が全く違った世界に見えるのです。

 さて、ここから天一の自伝は明治11年までの6年間が空白になります。他にも天一自身が語った読み物がありますが、どの自伝もこの六年間のことは書かれていません。謎の時代です。およそ人に言えないような惨めな生活をしていたのでしょう。天真爛漫で常に呆気羅漢とした天一でも、人に言えない時代があったのです。

 それでも調べてみるとおぼろげながら天一の足跡が見えてきます。天一は、実力ある奇術師の弟子になろうと、あちこちの名人を尋ねて弟子入りを申し込みます。然し、世間は全く天一を相手にしてくれません。天一は初めて奇術の世界で自分がどういう位置にあるのかを知ります。

 明治5年の最新流行の奇術は水芸でした。幕末期から様々な改良がなされて、この時期、今日の水芸の形が完成します。大阪では、養老瀧五郎が水芸の元祖を名乗っていました。明治5年、瀧五郎は還暦を機に、養老瀧翁斎を名乗り、華々しく披露をしています。天一は瀧翁斎の水芸を習いたかったようですが、あっさり入門を断られてしまいます。そこで、あちこち水芸の大夫を探して、音羽と言う大夫の弟子になります。その弟子修行に関してはまた明日お話ししましょう。

続く

天一 4

天一 4

 

日々の活動

 コロナウイルス騒動が始まり早1年です。この間私はブログを書き続けています。日曜日を除く毎日、原稿用紙にして7枚、約2800字を朝5時半に起きて、弟子の前田が来る9時までの3時間半、途中朝食時間を除いて2時間半、この間に原稿を書きます。

 なぜそうしているのかと言うなら、自身が目的を持つためです。毎日何もすることがないと言うのがいけません。どんなことでもいいからどこかで人とつながっていなければいけません。私の書いたものは、頻繁に電話が来たり、メールが来たり、様々な反応があります。全くマジックをしたことのない人も熱心にブログを見てくれます。

 私が出演する舞台なども宣伝していますので、ブログのファンが見に来てくれるようになりました。「マジックを見るファン」が増えています。これは私が最も望んでいたことで、有難いと思っています。そもそも、マジック愛好家の多くが「マジックを演じる愛好家」であることが不思議です。落語ファンで落語を演じる人は殆どいません。

 マジックを演じるファンと言うのは、藤山新太郎のファンと言うよりも、マジックのイフェクトファンなのでしょう。種仕掛けが好きなのです。そうした人は、なかなかマジシャンを支援してはくれません。マジック愛好家を相手にしている限り、自分のファンと言うのは育ち憎いのです。

 無論どんなお客様がいても結構です。ただ、私は純粋なファンを作りたくて、ブログを書いています。効果はかなりあります。この一年はずいぶんいい経験をしています。人が何を喜ぶのかを模索しつつ、毎朝原稿を書いています。

 

天一 4

 さて、宿屋の親父の協力もあって、独演会は満員です。伊賀越えなどを三日間続き物にして語り、他に西国の旅の途中に習い覚えた手妻をいくつか見せたところ、これまで直に芸能に触れることのなかった土佐の人々は熱狂します。三日三晩お客様が詰めかけました。やればまだまだ何日でも来ます。ところが4日目に、いよいよネタが尽きてしまいました。何とかしなければいけません。

 天一はふと、剣渡(つるぎわた)りの術を思い出します。剣の上に素足を乗せて、歩くもので、以前に六坊の修験者からやり方は聞いていたのでしょう。また、恐らく天一は、西国を旅しているときに、剣渡りの興行を見ていて、その大夫と親しくなるなどして、やり方のコツも習っていたのでしょう。然し、試したことはありません。

 そこで、宿屋の親父に剣渡りをしてみたいと相談すると、親父は面白がって宿屋にある刀を持って来ます。それを借りて、刃を上にして足をまっすぐ上から乗せ、そこへ体を乗せると足は斬れません。これなら簡単だと、早速町の道具屋から刀を20本ほど買ってきます。短い梯子を二本つなぎ、くの字に折って、山を作ります。梯子の桟を削って、刀が並べられるようにします。階段状にできた剣の山を端から登って、また降りて行きます。

 これはうまい具合だと、早速その晩の独演会にかけます。するとすさまじい反応で、観客は大喜びです。翌日にはたちまち近郷近在の村々にまで剣渡りの大夫の評判が伝わり、独演会は連日満員になります。

 それにつけても、朝、宿屋の親父に刀を借りて刃渡りを試し、昼には刀を買いに行き、晩には剣渡りの大夫となって人々に持て囃されたのです。大変なスピード出世です。天一の度胸の良さが幸運を招きました。

 この話は高知まで伝わり、すぐに高知の興行師が買いに来ました。早速高知の稲荷新地の芝居小屋で剣渡りの大夫と言う触れ込みで興行が始まります。興行は大評判です。

 そうなると天一は、伊賀越えの講釈などやめてしまって剣渡り一芸をして、地元の手品の下回り連を何人か雇い、一座を興します。

 

 ここで分からないことがいくつかあります。先ず天一は何という名前で剣渡りをしていたのか。天一の本名は、牧野八之助です。それが西光寺に入って、瑞山と言う名前を貰います。この時期は仲間からは瑞山坊と呼ばれていたと思います。それをそのまま芸名にしたのでしょうか。他の資料には立川松月と言う芸名を名乗っていたと言う資料もあります。稲荷新地の剣渡りの大夫は立川松月だったのでしょうか。

 天一の雇った下回りの手品師とはどう言った者なのでしょうか。当時、高知に今日でいうセミプロ奇術師の集まりがいたようです。プロのまねごとをしつつも、自分の名前で客を呼ぶことが出来ないため、天一のような看板にくっついて一緒に回る連中です。簡単に座員が集まったところを見ると、少なからぬセミプロがいたのでしょう。

 一方、秀はなぜ天一を見初めたのでしょう。恐らく秀は人を見る目にたけていた女なのだと思います。天一は晩年まで精力絶倫の男です。ましてやこの時17,8ですから、毎日欠かさず秀の相手をしていたでしょう。秀は十分満たされていたはずです。

 然し、それにもまして、天一の行動力を認めていたと思います。何しろ、わずか半年の間に、土佐に渡り、剣渡り大夫となり、手下5,6人を従えて一座の頭となってスターになってしまいます。愛嬌もあり、人として魅力があったのでしょう。並の芸人ではありません。秀の狙いは当たり、天一はいい仕事をしてくれています。陰囃子で三味線くらいは弾いて一座を助け、後は天一を相手に楽しんでいたのでしょう。

 

 天一は、高知を核にして、近隣の村々を回って興行していました。そのうち、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)、と仕事の範囲を広げ、一座の興行はかなり大掛かりになって行きます。その間に、座員の手品師から、棒呑み(30センチほどの鉄の棒を呑み込んでまた口から出す術)、火食い(火をつけた紙を次々呑んで行く)、火吹き(火食いをした後で、口から火の粉を出し、炎を吹き出す術)、など、いくつかの術を習い覚えます。これらはその後も天一の得意芸になります。

 こうして天一の若いころの舞台を調べて見ると、今日我々が考えるような奇術は全く演じていません。太古の昔から山伏や修験者が見せていた危険術などを得意としていたのです。後年、天一を西洋奇術の元祖と呼びますが、明治3,4年頃、10代後半の天一は、未だ近代の奇術を知らずに生きてていたのです。

 

 土佐を離れて興行するようになると、何度か、黒崎村も通っただろうと思います。そして唯阿上人を訪ねて行ったと思います。然し、唯阿上人は天一に合うことはなかったようです。妖しげな剣渡りの一座をしている甥に対して、決して良い顔はしなかったようです。天一はこの先、色々な仕事をする内に、戸籍を持たないことが災いとなってきます。両親のいない、戸籍も持たない無宿人の天一とすれば、何とか唯阿上人との関係を修復しておきたかったはずですが、それもままなりません。

 こうして、この先、海を越えて和歌山に渡りますが、ここで天一は人生最大の大失敗をします。これまで、全く誰からも芸を習わず、自己流でやっていたことに対する反動がやって来ます。その話はまた明日いたしましょう。

続く

天一 3

天一 3

指導の日々

 昨日は踊りの稽古に行きました、今日は生徒さんが二人来ます。舞台はありませんが、道具の修理をしたり、稽古をしたり、指導をして、日々過ぎて行きます。今は舞台の仕事は発生しませんが、5月以降にはいろいろ依頼が来るようになりました。ようやく光が差してきたようです。

 マジシャンの中には、余りに仕事がないと世の中から忘れ去られるのではないかと不安になる人があるようですが、確かに全くマジックの依頼が来なければ不安ですが、こんな状況がいつまでも続くものではありません。時期が来れば、我々の演技を求めている人から必ず依頼が来ます。嘆いていても幸せは来ません。あと半年の辛抱です。

 

天一 3

 ここで竹の子の岩吉と言う妖しげな男が出て来ます。なぜ竹の子なのかはわかりません。芸名でもないように思います。この岩吉は、浮かれ節と言う、浪曲の原型の芸能を語って諸国を回っています。恐らく神社や寺の境内などにある、葦簀の小屋掛けで、一文、二文と銭を貰って話を聞かせていたのでしょう。

 浮かれ節は今日、路上でヒップホップをしたり、ラップをしたり、ギターで自作の歌を聞かせるのと同じように、この時代の流行です。天一が片田村を通ると、岩吉が浮かれ節の会をすると言う張り紙があちこちに貼ってあります。天一は、ぐれ宿で何度か岩吉と一緒になっていて顔見知りです。

 そこで岩吉を訪ねて、「前座に使ってくれないか」と頼みました。天一は諸国を回る内に、色々な芸能を見て、自分なりに真似たり、仲間に語ったりしていたのでしょう。天一は、幼いころから、講釈本を読むのが好きで、伊賀越えの仇討ち、義士銘々伝、源平盛衰記などは諳んじていて、ぐれ宿などで夜の退屈な時に、仲間や泊り客によく語っていたのです。一方、岩吉にすれば、一人で会をするには持ちネタが寂しく、困っていたところでした。天一の申し出は願ってもないことで天一を使うことにします。

 岩吉は、独演会をするのに持ちネタが足らないまま会を開こうとしています。そして、まだ芸を見てもいない天一をいきなり使おうと言うのです。どう考えても岩吉は素人に毛の生えた程度の芸人です。

 会の当日、天一は、伊賀越えを語ります。すると思いのほか好評で、もっとやれとお客様から求められ、三席語ったそうです。三席も語れば、その晩の独演会の半分を天一が演じたことになります。岩吉がそれを許したとすれば、岩吉はろくな芸人ではありません。天一は、その岩吉から後で、「もう少し稽古をすれば金がとれるようになる」。と言われ有頂天になります。

 テレビもラジオもない娯楽の少ない時代はこうした素人芸でも通用したのです。岩吉にすれば決して天一の芸を褒めたわけではありません。「下手だ」。とも言いません。上手く使えば前座として役に立ちますから。話の流れから推測すると、「まぁ、まぁかな」。と言ったのでしょう。ところが天一はそうは取らなかったようです。プロである岩吉に褒められて、「自分には才能がある。金の取れる芸人になれる」。と、聞こえたのです。素人が勘違いしてプロになって行く典型的なパターンです。

 そもそも、岩吉そのものがどうにも素人です。阿波の片田村に住んでいるところからして既に素人です。その素人から少し褒められて、天一はもうプロ気分です。

 天一は、岩吉の家にひと月、ふた月逗留を決め込みます。恐らく岩吉とともに、近隣の村を幾つか回っていたのでしょう。

 

 そうするうちに、村に秀と言う女がいて知り会います。秀は加賀(石川県)金沢で異人の妾(めかけ)をしていました。それが年季を務め、300円か400円(1000万円~1200万円)の金を貰って国に帰ってきていました。この秀と仲良くなり、中津と言う町で家を借りて暮らすことになります。

 異人妾の秀、いいですねぇ、何とも文明開化を思わせる配役です。幕末から明治にかけて、日本は遅れた産業を取り戻そうと、有能な外国人を高額で雇って、知識や技術を習っていたのです。たまたま加賀藩に雇われた外国人の技師の妾となって、秀は何年か加賀にいたのです。それが外人技師が帰国をするにあたって、役所から手切れ金を貰ったと言うわけです。

 妾になるくらいなら美人でしょう。しかも金を持っています。そんな女と親しくなれば、もう芸道の修行どころではありません。天にも昇る心地で毎日遊んで暮らしていたのでしょう。そもそも天一はまともに芸の修行をしたことなどないのです。然し、既にいっぱしの芸人気取りです。但し、中津にいては講釈の仕事は来ません。どうしたものかと考えていると、そこへ土佐(高知県)から鰹節売りがやって来ます。

 鰹節売りが言うには、「土佐はこれまで関所があって、よそ者は入れなかったのだが、この度関所が取り払われて、誰でも入れるようになった。こんなところにいないで土佐に行ったらいい。金は拾うようなものだ」。と言います。

 土佐は特殊な土地で、日本が鎖国をしていた時代に、土佐は四国の中でさらに二重鎖国をしていました。一切他国の者を入れなかったのです。それが明治維新で解放されます。すると今まで閉鎖的な暮らしをしていて、見ることもなかった様々な品物や、芸能がいきなり入って来て、一遍に活況を呈することになります。鰹節売りの話を聞いた天一と秀は早速所帯を畳んで、土佐へ旅立ちます。何とも軽薄な夫婦です。

 

 決断の速いのは天一の長所ですが、未熟な芸に反省の色もなく、土佐に行けば食えると、安易な思いで夫婦そろって土佐に向かいます。淡路島から小舟で阿波(徳島県)に入り、まっすぐ南に歩いて旅をして、土佐との国境(くにざかい)にある野根山を越えをします。このあたりは今でも人が少なく、険しい山道です。まともな道があったのかどうかも分かりません。明治維新の頃なら全く人通りもない大秘境だったでしょう。ここを、坊主崩れの芸人と、異人妾の小粋な秀が山を這うようにして欲得尽くで土佐に向かいます。秀は背中に三味線でも背負っていたのでしょう。天一は17になったでしょうか、秀は7つ上の24歳です。二人の絵柄が目に浮かぶようです。

 土佐に入った先に赤岡と言う町があります。土佐の東にある太平洋に面した町です。ここに宿を取って、試しに宿屋の親父に会を打たせてもらえないかと相談してみると、親父は大喜びで座敷を貸すことを引き受けます。それだけでなく、近所の村々に声がけをして人を集めてくれました。町の人はみんな外の情報に飢えていたのです。ここで天一は連日会を打ちます。その様子はまた明日。

続く