手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

親ガチャ 3

親ガチャ 3

 

 私の人生をお話していると限りがありません。私の周囲の人は、私の親が芸人だったから私はすんなりマジシャンになれたと考えている人がいますが、確かに私は早くからマジシャンになりたいと思っていましたし、それを支えてくれたのは親父です。そうした点では幸先の良いスタートを切ったことは事実です。然し、その後は冷静に考えても、親ガチャで運命が決まって、すんなり芸人として生きて来れたのかと言えば、そうではありませんでした。  

 実際、親父から紹介される舞台は、あまり条件のいい仕事はなく、子供の小遣いとしては十分な収入でも、これで生活して行けるかとなると、全く怪しいものでした。

 親父は昔の芸人で、明日の稼ぎのことなど全く考えていない人でした。そんな生き方では自動車一台買うことも、維持して行くことも出来ません。親父の時代の芸人の価値観と私の生き方とは相当にギャップがあったのです。

 つまり、マジシャンとして生きて行くには、親父にくっついて、かかって来る仕事だけを待っていたら、場末の芸人で終わってしまうと気付きました。自分自身でもう少しレベルの高い仕事を開拓しない限り先がないと知ったのです。

 然し、上を目指したいとは思っていても、当時の私は、マジックの技術、知識もことごとくレベルの低いものでした。

 20歳のころ、周囲には30数組の同年齢のプロ、アマチュアマジシャンがいました。私はそのマジシャンの演技をつぶさに見ましたが、彼らはすべての点で私よりレベルが上でした。

 同年代のマジシャンにナポレオンズさんがいました。7歳年上ですが、遅れて芸能入りしてきたマギー司郎さんがいました。ナポレオンズマギー司郎とは仲がよく、頻繁に会っては一緒に喫茶店で話をしました。然し、私ら三組は、恐らくマジック界で一番へたな部類のマジシャンだったと思います。

 3組は、スライハンドもしますが、技が金になると言うほどのものではなかったのです。と言ってほかに目立った取り得も見えません。すなわち同期のマジシャンの中で我々3組は最下位だったのです。上手く生きて行けるかどうかもわかりませんし、むしろいつの間にかこの社会から消え去ってしまうようなマジシャンだったと思います。

 ところが40数年経って、周囲を見渡してみると、かつて巧いと思っていたマジシャンのほとんどが廃業しています。結局残ったのは劣等生の三組でした。

 

 そんな中で私は、昨日、一昨日お話ししたように、キャバレーに出演したり、アメリカに行ってコンベンションとレクチュアーで稼いだりしていました。

 自分なりに稼ぎの場を見つけて、「これなら絶対生きて行ける」。と思った仕事が、3,4年もすると輝きを失い、やがて無価値になり、また次に生きる道を探してうろうろ彷徨(さまよ)わなければならなくなります。生きると言うことはそんなことの連続です。

 努力をして、稼げるようになっても、数年すると、もうそれでは通用しなくなって行きます。親ガチャで運命が決まるなどと言うのは幻想で、親父が私に与えてくれた仕事は、親父が若いころに見ていた価値観であって、私の時代にはもう通用しないものでした。その後になって自分で見つけた仕事も常に不安定なものでした。

 どんな仕事でも、3,4年もすると変化が来ます。変化に対してマイナーチェンジを繰り返さない限り、今していることは古臭くなって行き、やがて限界が来ます。

 大体どんな社会でも20年いいと言う仕事はありません。20年が過ぎると、その社会は古くなって人が離れて行きます。そしてその先には、全く真逆の時代がやって来ます。

 私ごとでいうなら、バブルのさ中にイリュージョンチームを起こして、仕事は多忙になって、チームを株式会社にして、稼いだ金で大きな道具を次々考案して、必死になって働いていたさ中に、バブルが弾け、その後にクロースアップブームが来たのです。

 仕事は激減し、クロースアップで活躍する若手を横目に見ながら、チームを維持することで四苦八苦する毎日でした。

 そこから私がクロースアップに移行することは不可能です。どうやって生きて行ったらいいか。暗中模索の日々でした。やがて、それまでの手妻を大きくまとめて、単なる演技としてでなく、大きく和の文化として維持発展させて行こうと考えるようになりました。幸いそれが多くの支持を得て、東京イリュージョンは、伝統的な手妻を残すチームとなったのです。

 私は子供のころからずっとマジックをしてきましたが、子供の頃にしていたマジックはタキシードを着て、道具物を扱うマジックをしていました。その間に古い先輩から手妻を習いましたが、当時は全く手妻を生かせる場所がありませんでした。

 その後、スライハンドをし、イリュージョンをしたりして、仕事の規模を大きくしましたが、バブルが弾けて、手妻を再度構築しなおす活動を始めたのです。

 言ってみれば原点に回帰したことになりますが、今私がやっている手妻は昭和40年代に私が習った手妻とは全く違います。あの時代の手妻は錆だらけ、カビだらけ、矛盾の塊だったのです。それを私がそのまま演じていたなら、今の若い人は一人も寄っては来ないでしょう。

 今の人が私から習いたいと思っていることは、昔の手妻の原作の面白さプラス、私の考え方、アレンジ、演出に興味があってやって来るのでしょう。古い物を古いまま演じていても若手やお客様は興味を示さないのです。

 親ガチャと言って、初めから受け身で物事を眺めていては何も生み出せません。どんな社会でもどんな立場でも、自分がどう考えたか、どう工夫して生きて来たかと言うことにこそ価値があるのです。

 人によっては「何をどうしていいかわからない」。と言います。私でもどうして行っていいのかわかりません。でも、苦悩して答えを探すのです。必ず日常にサインが出ています。多くの人はそのことに気付かないだけなのだと思います。

 誰にでも平等にサインは出ていて、誰でも答えを掴めば成功するチャンスがあります。「自分には何もない、どうしていいかわからない」。と周囲に不満を言い続けているだけでは目の前のチャンスも逃げて行きます。不満を言う前に、サインの見つけ方を先輩から学べばいいのです。物の分かった人を仲間にすることです。

続く

 

 明日(18日)、12時30分から玉ひでで公演があります。若手の出演は、ザッキーさん、せとなさん、前田、です。

 私は久々、傘手順から蝶までのフル手順を演じようと思います。どうぞ、ご興味がございましたらお越しください。東京イリュージョン、03-5378-2882

 

 

親ガチャ 2

親ガチャ 2

 

 キャバレーの仕事から離れて、イベントの仕事を中心に生きて行きたい。と思うようになったのは26歳の頃からです。

 キャバレーの仕事は、初めはいい収入になって有り難いと思っていましたが、何年たってもあまりギャラが上がらないことに気付くと、新作のマジックを出したり、イリュージョンを出したり、手妻(和妻)の衣装や、道具に費用をかけて演じることが負担になって来ました。

 そこで、イベント会社を探して、イベントやパーティーの仕事を中心に活動して行くようになりました。然し、イベントも会社のパーティー不定期で、いつ来るかもわかりません。仮に出演して好評だったとしても、来年も頼まれることはありません。イベントは仕事の本数にはばらつきがあります。そのため、当初は随分苦しい思いをしました。

 

 このころ、毎年初夏にはアメリカに行き、マジックキャッスルに一週間出演し、それに付随して、アメリカのローカルコンベンションに出演し、出演と出演の間はアメリカ各地のマジッククラブでレクチュアーをしたり、イベントに出演したりしていました。

 このレクチュアーは、毎年1か月くらい出かけて、帰ってくると100万円くらいの収入になりました。日本でキャバレーやパーティーをしていて稼ぐ収入の3か月分くらいになります。

 最高収入は、27歳の時でした。3か月みっちりアメリカに行って、4つのコンベンションのゲスト出演をして、キャッスルに出て、27都市のレクチュアーをして帰って来た時には300万円近い収入を手に入れました。但し途中で黒人にバッグをひったくたれて、70万円取られてしまいましたが。

 この活動は、私には何ら不足はありませんでした。アメリカでショウの出演が出来て、レクチュアーで稼いで、たくさんの海外マジシャンと仲良くなれて満足でした。

 少なくとも、他のマジシャンにはできないことであり、ましてや親父の仕事をしていてはこんな活動は不可能でした。もう十分自分自身で自分の生き方を見つけていると信じていたのです。すなわち親ガチャを超えた仕事の仕方を見つけていたわけです。

 仕事はアーノルドファーストさんと言う、古いマジシャンが、長年の伝手でアメリカ各地のマジッククラブと連絡を取ってくれて、私がアメリカに着くまでに完璧なスケジュールを作って待っていてくれました。ツアーに出るときには、ファーストさんが日産の自動車を運転して、こまごまマネージメントをしてくれます。

 若いころにこんな生活をして、アメリカ中を回っていけたならこんな楽しいことはありません。

 しかし実際アメリカを回ってみて気付きました。如何にアメリカが大きいと言っても、マジック愛好家がたくさん集まるクラブはそう多くはないのです。27都市も回ると、もう大概網羅してしまいます。そこから先は思いっきり小さな町の少人数のマジッククラブを訪ね歩く以外なくなります。

 コンベンションも同じです。大きなコンベンションに何か所か招かれると、後は小さなコンベンションばかりになります。小さなコンベンションではギャラもわずかです。

 まず交通費が出ません。コンベンションには一週間くらい滞在しますので、旅費と出演料で3000ドルくらいもらわなければ収入にはなりません。然しローカルコンベンションでは、交通費なしの1000ドル、ひどいときは500ドルが全てと言う条件です。当然これでは無理です。すると主催者は、「店を出したらいい。レクチュアーをしたらいい」。と商売を勧めます。

 これが悪魔のささやきです。収入を補うために、商品を販売してローカルコンベンションを回るうちに、マジシャンはいつしかディーラーになって行きます。

 私はマジックショップの経営者は立派な職業だと思います。然し、マジシャンが小銭稼ぎに、小道具を数点並べてそれで生活しようとする姿勢が好きではありません。

 自分が何になりたかったのかを考えたなら、それは自分のする仕事ではないことに気付かなければいけません。実際私もレクチュアーをして、小道具を販売をしていました。然し、そのときはファーストさんが売ってくれました。

 でも、もしこの先、私がアメリカのマジッククラブにしがみついて生きて行ったら、コンベンションの出演にこだわっていたら、いつしか私もディーラーになってしまったでしょう。

 さらにこの先、ヨーロッパに出かけてレクチュアーをして、コンベンションに出るようになれば、間違いなくディーラーになってしまいます。

 アメリカの平原を日産の車で飛ばしながら次の町に行くときに、「あぁ、この仕事も今年を最後にしなければいけない」。と強く思いました。

 さて、私がなぜレクチュアーとコンベンションを回るツアーをやめようと思ったか、「こんな仕事はやめた方がいいよ」。と言うサインがいつやって来たのかをお話ししましょう。

 

 ファーストさんから「今度のアメリカツアーは27都市でレクチュアーをするから、たくさん商品を持ってきてほしい」。と連絡がありました。そこで、大きなスーツケースを二つ。肩に担ぐバッグを一つ。計3つのバッグを持って日本を発ちました。

 ロサンゼルスの空港で、スーツケースの中身をチェックされたときに。ふたを開けた途端、たくさんのグッズがバラバラ飛び出してきました。「これは何だ」。と尋ねられ、「マジックグッズだ」。と言いました。「アメリカの仲間に土産で上げるものだ」。と言って通過しました。

 然し、この時、私は自分が方向を間違えていることを知りました。スーツケースを開けたときに、整然とマジックの装置が並んでいるのがプロマジシャンです。販売の小道具がバラバラはみ出て来るのはプロではありません。

 「こんなことをしていて一流のプロマジシャンと言えるのか」。自責の念に駆られました。儲かるからと言って、毎年だんだんと販売用具の量が増え、いつしかマジックの道具よりも販売用具が増えて、グッズの運び屋になっています。「自分はどこかでいいわけをして生きている。こんな生き方はもうやめよう」。と、空港で心に誓いました。

 そう誓ったすぐ後に、ファーストさんが空港の出口でにこやかに迎えてくれたのです。「これが麻薬だ、これが自分の人生を遅らせるのだ」。と思いました。間違った道を勧める人はみんな優しい、いい人なのです。

続く

親ガチャ 1

親ガチャ 1

 

 若者の間で「親ガチャ」と言う言葉が流行っています。これは、「子供は自分の親を選ぶことは出来ない。だから誰の子として生まれて来たかが、人生の大半を決めてしまう。ガチャと言う自販機と一緒だ」。と言う話。

 ある種、受け身でものを考えていて、それが諦観になっています。実際、それはある意味正解と言えます。

 親が誰であるか、と言う話はさておいて、例えば、日本人として生まれたか、ウイグル人として生まれたか、アフガニスタン人に生まれたかで、今見えている世界はまったく違ったものに見えるはずです。

 一日12時間以上も働かなければならない国に生まれたとか、耕してもほとんど実りの少ない土地に暮らしているとか、ひどい女性差別の中で暮らす女性とか、幼くして武器を持たされて戦争に明け暮れる毎日とか。

 決して自分が望まなかった生き方を周囲に強制されて、そこで苦難の人生を歩まなければならない人たちは、その人に罪はありません。そこに生まれ合わせたことで運命づけられています。これはいわば親ガチャであり、親と言うよりも、国ガチャと言うべきでしょう。

 日本で、親ガチャと呼んで自身の運命を諦めて考えることは、少し違うと思います。日本で生きることは、生き方にかなり幅があって、人生の裁量は当人の才能によって相当個人差が出ると思います。

 勤め人を選択しても、私のような芸人を選択しても、親の商店を継いだとしても、そこから先の人生は相当に個人の努力と才能、センスによって差が大きく出ます。

 日本に生まれたなら、国や、周囲の仲間や家族が協力してくれる可能性は決して小さくなく、そのためには、私のような舞台に生きる者(個人事業をしている者)は、自分がどんなマジシャンになりたいか(どう生きて行きたいか)、という方向性をはっきりさせて活動していれば、周囲の協力を得られる可能性は多々あります。

 

 私の親父はお笑い芸人でした、私が物心ついたころには人気が陰っていて、仕事自体もあまりいい仕事をしていませんでした。夏祭りのお祭りの屋台とか、中小企業の会社の忘年会とか、ヘルスセンターの休憩所での余興とか、まぁ、大した収入にならない仕事ばかりでした。

 私も子供のころからマジックをして、親の仕事のつながりでショウをしていましたが、大学浪人のころには、私が見ても、ただ来る仕事を受け身で待っている親父の生き方ではだめだと気付きました。

 そこで、私はキャバレーやナイトクラブ専門の事務所に出かけ、自分を売り込みました。当時キャバレーは日本中に山ほどあり、仕事量は豊富でした。

 18歳くらいからキャバレーの舞台を始めると、仕事は忙しく、収入もぐっと増えましたが、数年もするともっと大きな仕事がしたくて、アシスタントを使ってイリュージョンをして行こうと考えました。

 ところが、キャバレーはそうしたショウを求めないのです。一人で音楽に載せて演じるマジシャンで十分なのです。これですと一晩1万円程度の収入です。勤め人の月給が5万円取れない時代の一日1万円です。事務所に任せておけば15日は仕事が入ります。いい仕事です。

 でも、恐らく10年経ってもこのままでしょう。もう少し自分の可能性を広げたいと考えました。そこでアシスタントを使って大道具を演じて3万円のギャラを求めると、パッタリ仕事が止まります。相手先が出してくれる限界は、一晩1万8千円。これではアシスタントに1万円を支払ったら赤字です。

 25歳の私は、どうしたら3万円のギャラが取れるのか腐心していました。

 

 ある時、私の両親が引っ越すことになりました。同じ上板橋の町中での引っ越しです。引っ越し業者がやって来て、リーダーと、学生バイト2人、車は2トン車で一回運ぶだけの引っ越しが、5万円と言う見積もりでした。

 この時、私はそれまでの人生がいかに間違っていたかを知りました。引っ越しの人たちは、荷物を運ぶだけの人です。そこでショウをするわけでもなければ、新しいアイディアのマジックを見せるわけでもありません。ただ、数百ⅿ荷物を運ぶだけ、ほんの4時間程度のバイトで5万円です。

 方や私は、アシスタントの女性を使い、衣装を用意し、化粧をして演技を見せて、自分で考案した大道具や手順を夜に二回演じて、1万8千円です。なぜ私がそんな評価の低い仕事に甘んじていなければいけないのか。

 それから随分悩みました。そして出した答えは、キャバレーは自分の仕事場ではないと気付きました。一人で稼ぐにはいい仕事場でも、先のことを考えると、そこに長くいてはいけないのです。

 学生バイトで、荷物を運ぶだけの引っ越しの仕事に、自分のイリュージョンが負けているなら、それは芸能芸術の仕事になっていないのです。そうなら新たな理解者を求めて活動場所を変えなければいけません。

 言葉でいうのは簡単ですが、そこそこ儲かっている仕事を手放して、先の読めない人生にチャレンジするのは簡単ではありません。

 何が言いたいのかと言うなら、人生は数年ごとに転機が来ます。それまでよかったことが数年すると、それでは先がないことを知ります。でも、知るためのサインがいつ来るのかが全く不明なのです。誰が見てもわかるような天変地異でも起きればそれが転機であることはわかりますが、人生の転機は何気ないところにサインが出ます。それは誰にでも平等に来ます。

 但し、その後の成功を掴めるか否かは当人がサインに気付いていまの自分を修正できたかどうかです。決して人生はガチャの機械をひねって、不確実なボールを買うような単純な作業で決まるようなことではありません。

 初めに自分がどう生きたいか、その方向定めが大切です。方向を定めたら今の自分が目標のために何をしなければいけないか。必要なスキルを学びます。手妻をやろうと思って、鼓の稽古や日本舞踊に通うようなものです。これは結論が出るまでとても長い道のりになります。

 当初は味方なんかいません。収入もなく仕事も少なく、苦しいことの連続です。然し活動を続けていると、誰かが見ています。ある時、まったく思いもよらいない人が協力してくれることもあります。

 目標を持って活動している人なら、外部の人が見たときにわかりやすく、声をかけやすいのです。然し簡単に声はかかりません。サインは秘かに知らせてくれます。ほとんどの人はそれがサインであることすら気付きません。気付いた人のみ、次の道に運んでくれる支援者が現れて、扉が開きます。

 私のことでいうなら、親父の仕事に限界を見たとき、或いは、キャバレー仕事の限界を見たとき、もし、引っ越し業者との格差に気付かなかったら、その先の支援者は現れなかったのです。それについての詳しい話はまた明日お話ししましょう。

続く

 

総裁選 峯ゼミなど

総裁選 峯ゼミなど

 

峯ゼミ

 一昨日(12日)、神田の会場で峯ゼミが行われました。一人の欠席者もなく熱心な指導が続いていました。ようやく手順が進んできて、二つのシェルとボールによる四つ玉の手順の全貌が見えて来ました。相変わらず細かな点が解説され、その工夫に参加者が感動していました。

 マジックとはこう考えるもの、手順とはこう作るもの、という基本姿勢がしっかり示されています。いいですねぇ。今までなかった指導です。黙って演技を見ていたなら当たり前に通り過ぎてしまう部分にとんでもない蓄積があったのだと分かったときに、スライハンドの歴史を深く認識します。

 同時に、これをまとめ上げた峯村さんが、マジックの世界でも稀有な存在であることを再認識します。出来ることなら、もっともっと多くのマジック研究家が峯ゼミを受けることを希望します。

 なお、峯ゼミの四つ玉は、12月で終了する予定でしたが。一回増やして、1月まで致します。そして2月からまた半年かけて、今度はシルクのレッスンを始めます。シルクを習いたいとお考えの人は、お早めにお申し込みください。

 

 終了後は、神田の藪そばに行きました。峯村さんはそば好きですが、なかなか東京で一緒にそば屋に行く機会がありませんでした。本当は、神田の砂場に行く予定でしたが、砂場は日曜日が休みで、やむなく藪に行きました。

 正直、神田の藪は、つゆの味が、カラメルでも入っているかのように甘口なところが私の好みではなかったのですが、前回前田と行ったときに、とろろそばを食べた際、少し味が変わったなと感じました。但し、とろろの味で甘みが薄まったのかと思ったのですが、今回てんぷらのかき揚げと蒸籠を頼んだところ、つゆの味がかなり辛めになっていました。「老舗であっても味を変えるんだなぁ」。と感心をしました。

 味は良くなったのですが、値段もそれに比例して高めですから、若い人には敷居が高いかも知れません。でも、峯村さんは満足のようでした。冬には、浅草の並木の藪に行って鴨南蛮を食べようと思います。 

 

 総裁選

 一週間前、総裁選に高市さんが出て来た時、私は、この人は注目すべき人です、とお話ししました。どうやら今回の総裁選はその通りになりそうです。

 これまで、野党や、マスコミが保守イコール右翼と決めつけて、何でもかでも反対する姿勢は、もう国民には敬遠されて来ています。保守の中で今一度保守の考えを構築し直して、保守対保守で論争をして行くような流れが次の時代の主流になるだろう、と私はお話ししました。

 実際、今の野党に、自民党を打ち負かす力はなく、国民の支持も得られていません。国民の多くは、野党に失望しています。が同時に自民党が、防衛費を増やすだとか、自衛隊国防軍に昇格するとか、憲法を改正するとなるとたちまち嫌悪感を示します。

 さりとて、中国が尖閣を占領しようとしたり、韓国が竹島に居座っていると、けしからんと愛国心を燃やし、何とか政府が解決すべきだ。と騒ぎます。政府は一体どうすればいいのでしょうか。国民が明確な判断を持たなければ、周囲の国はいいように日本を削り取って行きます。

 「すべては話し合いで平和に解決したらいい」。とは誰もが言いますが、ロシアとは70年以上話し合っても北方領土は帰って来ません。尖閣諸島は、明治の初めに、当時の清国との交渉の末、日本領になっています。

 ところが、昭和40年代に至って尖閣の海底に天然資源があることが分かると、中国は領有権を主張します。中国は、「そもそもは沖縄諸島自体が中国領だ。尖閣諸島沖縄諸島に属する地域だ」。と言い出します。沖縄が昔、中国に朝貢外交を続けていことを根拠に沖縄ごと返還を言いだしました。

 それを言ったら、沖縄、尖閣どころか、日本自体も奈良時代には朝貢していたのですから、すべて中国領になってしまいます。領土問題は理屈を探せば幾らでも自分に都合のいい話が作れるのです。そこに毅然とした態度で臨まない限り、無謀な要求は続きます。

 

 高市さんは、はっきりとした発言をします。尖閣には自衛隊を常駐しろ。だとか。核に対してはサイバー攻撃で敵基地を先に無力化させろだとか。かなり具体的な話をします。それがマスコミからすれば軍国主義、右翼のレッテルを張って攻撃するには格好の相手となります。高市さんはこの先相当マスコミの集中攻撃を受けるでしょう。

 然し、高市さんの言うことが正論です。この先日本の基本姿勢になって行く可能性はあります。実際大きく世の中の流れが変わるときにはこうした一見、極端な考え方をする人が出て来て、たちまち常識をひっくり返してしまう場合が多いのです。

 かつての小泉純一郎さんを思い出してください。常識で考えたならあの人が総理大臣になることなどあり得なかったのです。田中角栄さんの後の三木武夫さん然り、河野洋平さんの時の村山富市さん然りです。絶対に出てくるわけのない人がときとして世の中の流れを変えるのです。

 

 対するライバルである岸田さんも、河野さんも、高市さんが出てしまった後には、余りに日和見に見えます。

 河野さんは物事をはっきり言う人ですし、複雑な話をうまく説明できる人で、優れた政治家だと思います。今回の総裁選挙でも本命の人だと思っていましたが、河野さんは原発の反対者だったはずが、いざ総裁選に出るとなると、急に原発を容認し始めます。

 つまり、原発に変わる大きなエネルギーなど存在しませんから、実際の政治では、原発は危険だからダメ、とは言ってられないのです。そうなら、なぜ今まで原発がダメで、今日からよくなったのかを説明しないといけません。自身が総裁になるから、と言うのでは矛盾です。

 岸田さんも、総裁に出るとなると、森友問題は、「これ以上追及はしない」。と急に消極的になります。コロナで国民は景気の悪化に苦しんでいるのに、消費税を下げることには反対です。極めて常識的な人なのでしょう。然し、そうなら、ベつに菅総理でもよかったのではないかと思います。

 この先どなたが総裁になるのかはわかりません。高市さんも投票する段になれば、派閥の力で押しつぶされるかも知れません。然し、明快に保守の発言をしたことは、低迷している政治に国民の期待を集めるにはいい流れになると思います。もう少し様子を見て行きたいと思います。

続く

 

 18日、玉ひでの公演があります。若手はザッキーさん、せとなさん、前田です。よろしかったらどうぞお越しください。お席あります。食事なしのコースもあります。03-5378-2882

東京イリュージョンまで。

 

 

変身マン

変身マン

 

 世の中には色々なタイプの人がいて、それぞれが何らかの理由でポジションを築いて、人の上に立って仕事をしています。然し、人の上に立っているからと言って、必ずしも見識があって、優れた能力を備えているかと言うと、そうではない人もいます。

 その権威が崩れてゆく過程を目の当たりに見たりすると、うっかりこの人にかかわっていたなら手ひどい被害を被っただろうと思うと同時に。人生と言うのは客観的に見たならどんなことでも面白い、と思います。

 

 44歳の時に、芸術祭大賞を受賞して、折から手妻が脚光を浴び始めるようになり、何とか手妻を残したいと思いつつ、その数少ない演じ手としてマスコミに出て、強く印象を残せないものかと腐心していました。

 テレビ局にもコネのあるプロダクションの社長と話をしているときに、テレビ番組を持ちたいと相談をすると、有力なテレビ番組にかかわっている人物を紹介してあげるよ、と言うことになり、私は自身の映像を収めたビデオを渡して、後日その人と会うことになりました。

 その人、Aさんは、私よりも歳、五つ、七つくらい若い人で、会うなり斜めに座って、私を見下すかのように、否定的な言葉がポンポン出て来ました。

「テンポがないよねぇ。盛り上がりに欠けるし、地味だよねぇ。多分マスコミでは使えないと思うよ」。「ビデオは全部ご覧くださいましたか」。「うん、見た。古いんだよねぇ」。「えぇ、手妻ですから」。「いや、そうした古さじゃなくて、やっていることがまだるっこしくってさ」。「はぁ、はぁ」。

 大体Aさんの言わんとするところは分かります。アメリカのショウの様にパッパカパッパか次々とスピーディーに現象が起こるものをいいと考えているのでしょう。

 然し、私が仮に、アメリカのマジシャンのようなマジックを見せたなら、Aさんは飛びつくのか、と考えると、やはり「古い」と言うのではないでしょうか。案の定Aさんはカッパーフィールドを語り始めます。

 Aさん「国際フォーラムでやっていたカッパーフィールドのショウ見た?」「えぇ、見ました」。「すごいよねぇ。よく考えられているよ。やはり大したものだと思うよ。藤山さんも花吹雪を散らすところがあるよねぇ。でもあれよりも何百倍も大量の雪を飛ばして、会場いっぱいに雪の世界を作るよねぇ、初めに子供の頃の話をして、しっかり世界を作り込んでそこから雪景色を作って、やはり世界で活躍するマジシャンだよね」。と目いっぱいカッパーフィールドを礼賛します。

 この手の人は、世界的に有名なアーティストを自分の柱にして、他の芸人を批判します。それなら絶対自分の勝利だと信じています。そこでそろそろ私の出番かと思い、「本当にあの雪の世界が素晴らしいとお考えになりましたか?」と尋ねると、Aさんは少し驚いたように、「えぇ、よかったよ」。

 「そうですか、舞台の両袖から泡を吹くマシーンで雪を出して、飛ばすのはマジックでもなければ、単なる舞台効果でしかないと思いますが。それでもよいと思われましたか」。

「えぇ、だって、子供の頃のストーリーが語り込まれて、そこから雪景色になるのはストーリーも完成されていて素晴らしいでしょう」。「そうですか、でも、カッパーフィールドは一体何が語りたかったのでしょうか」。

 Aさんは、思いがけない否定に、「子供のころの夢を持ち続けて、それを舞台で再現したかったのでしょう」。「それだけ?」。「えぇ、素晴らしいじゃないですか」、「確かに一作一作は良く作り込まれていますが、作品はどれもつながりがなく、全体を見ても何を語りたいのかよくわからないと思うんですよ。私の蝶の演技をご覧になりましたか?。蝶は今回の芸術祭でも高く評価されました。蝶の一生を一枚の半紙で語ります。蝶のテーマは無常観です」。

 Aさんは「無常観と言うのは、伝統芸能でよく聞く言葉ですが、何でも無常観をくっつけてしまうと、全て無常観になってしまいませんか」。「仰る通りです。変わりゆくものすなわち無常観ですから、マジックの変化現象は全て無常観になってしまいます。小さなハンカチを拳の中で色を変えて見せても無常観です。

 でも、変化することが無常観なのではありません。むしろ見た目の変化よりも、何も変わらず繰り返し続いて行くことに無常観の本質があるのだと思います。それが生きると言うことだと思います。

 蝶は生まれて、飛び立ち、伴侶を見つけて結ばれます。そして命が尽きますが、月日が経てばまたその子供が生まれて飛び立って行きます。去年飛んでいた蝶は、今年飛んでいる蝶とは違います。然し確実に命はつながり、同じことを繰り返しています。それを手妻の中で語って見せると言うのが手妻の無常観です」。ここらでAさんは急に静かになります。

 私は続けて、「実は、あのカッパーフィールドのショウを私は、○○の宮様と見ていました。○○の宮様はマジックがお好きで、私のところに電話をくださって、カッパーフィールドのショウが見たい、と仰ったのです。そこでイベント会社に電話をして、いい席を10席取ってもらいました。私は○○の宮様の隣でカッパーフィールドを拝見しました」。

 この辺りでAさんは、ひざを組んで横座りしていたものが、足を組みなおして、正面を向き始めます。

 「○○の宮様は手妻のファンです。その宮様がカッパーフィールドのショウをご覧になって、『とても楽しかった』と仰ってくださいました。そこで、『それなら楽屋に行かれますか』と尋ねると、『まぁ、いいでしょう』。と言うのです。『でも面白かったのですよねぇ』。『面白かった、でもそれだけ』。と仰ったのです。これは私にとって衝撃でした。面白い、でもそれだけと言うのです。この時、いかに優れたマジックでも、背景に語るべきものがなければ、何も人に伝わらないんだ、と思いました、手妻には背景があります。私はそれを皆さんに伝えたいのです」。

 これを聞いたAさんは、「藤山さん、話を聞いたら手妻は素晴らしいですねぇ、いやいい芸能ですよ。応援します。私も責任を持って宣伝しますよ、仲間になりますよ。いや仲間にしてください」。

 カッパーフィールド人気を盾に私をくさしていたAさんが、私が○○の宮様と知り合いだと聞いただけで、ものすごい手のひら返しです。これほど見事な手のひら返しは私の人生で見たことがありませんでした。芸能界にはこんな人が多いのです。相手の才能も見えずに、相手が強い人だと見たなら、さっさと自分を捨てて、相手にくっついてしまうが、でも結局そんな人が世渡り上手として生きて行ける社会なのです。

 

 来週の土曜日は、玉ひでの公演です。まだお席ございます。

 

 今日(12日)に、ブログを書きましたので、明日月曜日は、ブログを休みます。

 

下津井港

下津井港(しもついみなと)

 

 縁あって私は岡山に行く機会が多いのですが、岡山に行くたびに、長らく日本奇術の研究をなさっていた、今は故人の山本慶一先生のお宅に伺って、お線香をあげるようにしていました。

 山本慶一先生は、かつては地元で小学校の校長先生をされていて、定年後は、倉敷市の図書館の館長をされ、その後は下津井港の海鮮問屋の博物館の館長になる予定でいたのですが、博物館が出来る間際に癌で亡くなられました。

 山本先生のお宅は、この博物館のすぐ近くにあって、かれこれ150年くらい経った家と聞きました。私が出かけると、いつも酒と魚を用意してくれていて、大歓待をしてくれました。

 下津井に住んでいてはマジックの話をする人も少ないらしく、私が行くと、溜まっていた話が次から次に出て来て、朝まで話をしました。

 

 山本先生は、奇術研究と言う季刊誌に手妻の文献を頻繁に載せておられて、既に昭和30年代からその名前は知られていました。当時は、平岩白風さん、藪晴夫さんなどと共に、数少ない手妻の研究家の一人でした。

 山本先生は、三代目の帰天斎正一との親交が深く、帰天斎正一亡き後、大部分の資料を買い取って所有していました。昭和40年代でもすでに古い形で手妻を演じる人は少なく、帰天斎の芸は貴重でした。

 私は手妻のご縁でたびたび下津井まで出かけ色々な資料を見せてもらっていました。ご自身でも手妻を演じる機会はあったようですが、アマチュアとして時折地元で見せる程度でした。

 山本先生の小学校に末原と言う生徒さんがいました。この人がマジックが大好きだと言うので、帰天斎に弟子入りさせて、のちに六代目帰天斎を名乗りました。

 

 下津井はまったく世間から忘れ去られたような町です。突き出た断崖に沿って、延々と続く細く曲がりくねった一本の街道が下津井のメインストリートです。道幅は6mくらいでしょうか。その昔はここにバスが走っていたと言うのですから、どうやって運転していたのでしょうか。

 町は古くて、銀行も郵便局も蔵造りで、そのまま明治期の映画のセットに使えます。通りの真ん中に立つと明治と言う時代がどんな時代だったのか想像が出来ます。

 その昔、江戸時代は、大坂から千石船が瀬戸内を通って、日本海を通って、北海道まで行き、昆布や鰊を仕入れて大坂で売りさばき、大きな商売をしていました。

 その頃、風待ち、雨除けに大小の船が下津井の港に停泊し、大賑わいをしたそうです。当時の船は暴風雨などを避けるためには、平地の港よりも、岩陰の浦にある港の方が好都合で、下津井は格好の港だったわけです。

 しかも下津井は向かいが四国の多度津で、金毘羅参りの船が日待ちをするために下津井に立ち寄り、遊び客相手に座敷や遊郭が立ち並んで今の何十倍もの人で賑わっていました。

 然し、明治以降、千石船は廃れ、今は漁をするための船が停泊しているのみです。下津井の港からはフェリーが出ていて、かつては私も四国に車で渡る際にこの港を利用しました。

 それも、今では、本四架橋が出来て、本州と四国がわずか20分でつながってしまいました。下津井はその本四架橋の橋げたになってしまい。空を見上げれば大きな橋が架かっていますが、もう下津井のフェリーを利用する人もなくなり、尋ねて来る人の数も大きく減りました。

 

 この港は天然の良港で、タコや、カワハギ、ヒラメ、オコゼなどが良く採れます。カワハギの刺身に肝を載せて食べるやり方はここで覚えました。余り味のないさっぱりとしたカワハギの刺身に、肝を乗せて食べると、肝の脂身が刺身のうまみを引き出し、身の歯ごたえの良さと相まって、がぜん味が変わります。

 タコも生のまま刺身にして出て来ます。きゅっとしまった身が皿の上でまだ動いています。噛むと潮の香とともに、甘みが感じられます。タコに甘みを感じたことは初めてでした。夕暮れに、瀬戸内の海を眺めながら、たことカワハギの刺身で一杯やりながらマジックの話をするのはなんと贅沢なことか。

 

 私は、下津井につくと時間を取って、町のはずれから外れまでを歩きます。今はひっそりとしていて、殆ど人が歩いていません。この道の細さと言い、古びた街並みと言い。観光地にもならずにただ残っている姿がたまらなく好きです。

 何とか町の発展を考えて、海鮮問屋の博物館がオープンしました。訪ねて行くと、来館者の数は少なく、博物館の存続が心配になります。

 但し、昔の海鮮問屋を手直しして、きれいにしたことは日本建築の良さを十分残しています。下津井の町の南側は、かつてはズラリ海鮮問屋が並んでいたそうです。町の南側は、細長い民家が並んでいて、民家の敷地は何十ⅿも続き、そのまま海まで続いていたのです。海に船をつけて、そこから荷物を倉に入れていました。

 今は南側を埋め立てて、バイパスを作り、町の真ん中に車が通らずに車が海沿いに抜けるようになっています。住民にすればその方が便利なのでしょう、その分、海はバイパスの奥になってしまいました。

 私のような旅行者からすれば、家の南側が海で、そこから小舟が出せたならどんなに面白いかと思います。南の部屋を寝室にして、朝、障子を開けたら、瀬戸内が見え、そこから日の出が拝めたなら、まるで正月に飾る掛け軸の世界です。

 「あぁ、こんな家に住めたらなぁ」。と思って、海鮮問屋の博物館を見学しました。いや、その夢はまったく不可能ではなく、博物館の並びには昔の海鮮問屋の家がいくつも並んでいます。しかも、誰も住んでいない家もあります。

 上手く交渉したなら、格安で買い取ることもできるでしょう。しかし仮に買い取ったとしても、快適に暮らすためには大改築が必要です。その費用が莫大でしょう、何しろ、漆喰の職人や、土壁の職人が日本中で激減しています。美しく復元するには相当な費用がかかります。

 さて、その家を買い取って、岡山駅と下津井を移動するために中古の自家用車を買い、小型ボートを買い、時に釣りをして楽しもうなどとすると、もう単純な遊びでは済まされないような費用が掛かります。そこまでして、年間何回下津井に行くかと考えたなら、それは道楽以外の何もでもないでしょう。

 つまり、下津に暮らすと言うのは私の夢なのです。でも、生活の心配がなくて、手妻の仕事を減らして、下津井に居を移し、時折出演や指導で岡山あたりまで出る程度の活動をして、余生を暮らして行けたなら、何と幸せな人生かと思います。

続く