手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一日歩いて あぁ疲れた

一日歩いて あぁ疲れた

 

 実は、一昨日(28日)にパスポートを申請に行った後、翌日、受付担当から電話があって、書類の不備を指摘されました。そのため、1日、再度都庁のパスポートセンターに向かうことになりました。

 その前に、毎月一回の糖尿病の検査のために三軒茶屋の病院に向かい、午前中は、血液を採って、検査を受けました。先月の結果は、少し血糖値が上がっていました。別段酒の量が増えたわけではなく、三度の食事も抑えていますので、大きな問題はないのですが、恐らく間食におやつを食べることが日常化してしまい、血糖値を上げているのでしょう。食べてはいけない、呑んではいけないと言われて大人しく従ってはいますが、結局おやつに手を出してしまいます。食べると言うことは一番手っ取り早いストレス解消ですので、なかなかやめられません。

 病院のあとラーメン屋さんで食事を済ませました。これは可もなく不可もなく、まぁまぁの味。そして新宿に向かいました。パスポートセンターで、別枠で再度申請用紙を書き直し、提出。待つことしばし、担当者が現れ少し話をして、問題解決。

 その後、一昨日買い忘れた、糸鋸の刃と、革製のシールを買い求め、東急ハンズへ。ついでに、うろうろ買い物をしたら、少し疲れました。どこかに座って休みたくなりましたが、喫茶店などに入ると、ついつい、甘いものを注文してしまいます。ここはぐっと抑えて、ハンズの階段にある休憩用の椅子に腰を下ろしました。

 するとこれが実に気持ち良かったのです。そのまま座っていると眠気を催し、ついうとうとと、小一時間も眠ってしまいました。よく、階段に備え付けの休憩用の椅子に腰を下ろして寝ている年寄りを見かけますが、そうした人を見ていて、「寝るならほかの場所で寝たらいいのに」。と思っていましたが、どうやらその年寄りに私がなってしまったようです。

 実に気持ちよく眠ってしまったのですが、こんなことは生まれて初めてでした。外に出たなら幾つもの用事をさっさとこなし、買い物をし、食事をしたり、ついでに新しい飲食店を探したり、或いは人と会って話をしたり、時に映画を見たり、常に目的を決めて行動していたものを、何の用事もなく椅子に座って寝ていることが何と気持ちの良いことか。プータローの気持ちがよくわかりました。

 それから高円寺に戻ったのですが、どうも東急ハンズの際の買い物と言い、電車の中と言い、体がフラフラします。体が疲れているように思いますが、それほど疲れるような仕事をしていません。この気持ちは、かつて、糖尿病になり始めのころ、薬が合わず、初期には薬が効きすぎて 、逆に低血糖になったときの気持ちに似ています。この日は朝から食事をしないで、昼にはラーメン一杯食べただけです。体が甘いものを求めていたのでしょう。それを、甘いものはいけないと押さえていたことが、逆に体をふらつかせていたのだと思いました。

 そうなら、甘味を補給しようと、途中のコンビニでアイスクリームを買いました、朗磨の分のコーンのチョコアイスと、私のは、多分新製品だと思いますが、明治のバニラアイスクリームを買いました。見るからにミルクの濃厚そうなパッケージです。バニラアイスマニアとしては、興味津々です。買った後で気付きましたが、400円近くします。コンビニのアイスとしては高価格です。

 それを買い求めて、事務所に戻り、朗磨と一緒にお茶を飲みながらアイスクリームを食べました。このバニラは十分満足のゆくものでした。甘みが効いたせいか、体調は覿面に良くなりました。

 

 朗磨は、3月9日のマジシャンズセッションのチケットを発送しています。このところ急に申し込みが来て、その対応に追われています。大成は、出演者と、メールで内容の打ち合わせをしていて事務所には来ませんが、これも忙しいようです。アキットさんは映像を使ってかなりストーリー性の濃い内容を演じるようです。期待したいと思います。

 セッションと言い、リサイタル公演と言い、ずっと長らく続けて来ましたが、コロナの時の3年間が響いています。東京も、大阪も、福井の天一祭も、内容は充実したものを提供するべく努力をしてきましたが、コロナの際の不入りは堪えました。それもコロナ前までは観客の集まりが良く、東京も大阪も二日間開催にした矢先のコロナでしたから、規模を大きくした途端の赤字の幅が大きく響きました。

 どうも世の中はうまく行きかけると、禍が起きます。なかなか楽しく幸せな舞台活動が出来ません。それが、ここ最近になってようやく人が動き出しました。よき方向に向かってくれればいいのですが、何とも先行きが読めません。

 

 ところで、一昨日の大谷選手の結婚は、どうもその後の展開で、結婚相手がすでに妊娠しているんじゃないかと言う噂が出ています。相手はスポーツ選手で、女性でありながら慎重180㎝と言う噂です。

 大谷選手のお母さんがバドミントンの選手で、夫婦そろってアスリートの家庭で育ったためか、大谷選手も、両親を見ていて、結婚相手はスポーツ選手と考えていたようです。秘密のうちに知り合い、子供まで作って、いきなり結婚この二人の間にできた子供となると、二人の間にできた子供となると、もうマジンガーZとか、ライディーン(どうもネタが古いですね)のような子供が生まれるのではないでしょうか。生まれながらにして、大リーガーや、オリンピックを背負ったような子供が出来ると思います。早く生まれてくるといいと思います。

 それにしても大谷選手は、いきなり結婚をして、ビバリーヒルズあたりに家を構えて、ドジャースで活躍して行く。まさに大谷選手が子供のころに描いていた人生のスケジュール通りに発展しています。

 とにかく四六時中人に監視されて、超多忙な毎日を送りながらも、自分のやりたいことが着実に出来ていると言うのは素晴らしいことです。

 新婚のご家庭で、仲間が集まったパーティーで、私が蝶を飛ばしたなら、いい思い出になるでしょう。そんな日が来ることを願っています。

続く

 

大谷選手結婚発表

大谷選手結婚発表

 

 今日は朝から大谷選手の結婚の話題でもちきりです。アメリカでも日本でも注目の的になっています。婚約者紹介ではなくて、いきなり結婚にまで話が進んでしまうところが驚きです。

 これまでそんなそぶりは全くなく、追っかけの新聞記者なども、今まで全く女性との交際を見つけることができなかったのに、なぜ。よくわかりません。とてもプライバシーが作りにくい超人気の選手が、どうやって人に気付かれずに女性と付き合えるのか、謎です。

 朝のニュースを見ていると、相手が誰であるか、まだ報道していないようです。しかし、結婚した、と話しているのですから、そうなのでしょう。恐らく徐々に全貌が見えてくるのでしょう。とにかく、おめでとうございます。

 

 今年は大谷選手にとって大飛躍の年になるのでしょう。昨年は、ドジャースとの巨額の契世間を騒がせ騒がせ。そして移籍をして、もう今シーズンの活動が始まっています。人気が人気を呼んで、ドジャースの試合は特別料金なのだそうです。外野のスタンド席ですら、4000円だと書いてありました。外野スタンド席など1000円でも高いくらいです。然し、ドジャースだけはファンの熱気がものすごく、座席は完売状態で、金額も平年の二倍の売り上げだそうです。

 1100億円の契約金などどうやって球団は支払うのか、と心配されましたが、全く心配はいらないそうです。1100億円と言う金額そのものが劇的な効果で、ドジャース関連の物は何でもかでも価格が跳ね上がって、ドジャースは大儲けだそうです。すごいですねぇ。たった一人の選手がチームを変えてしまいました。

 今年のアメリカの話題は、大谷翔平選手と、ゴジラー1・0ですね。全部日本が発祥の話題です。いままで、日本の話題と言えば、自動車とか、機械の話題ばかりでしたが、今では文化に話題が集中しています。時代が大きく変わって来ています。

 その中心に存在しているのが大谷選手です。私が子供のころは、日本の野球選手が、アメリカのリーグに行って、認めてもらうこと自体が夢物語だったのですが、今ではそのリーグのトップに立っているのが日本人であり大谷選手です。ものすごい話です。

 

 さて、大谷選手の相手はだれか、また、どこに暮らすのか、余り親密な生活が続いて、成績が落ちないかなど、余計な心配がされます。余計なことは考えずにとにかく、先ずはおめでとうを申し上げます。

 私はこれから、月に一回の糖尿病の検査に行きます。ぎりぎりまでブログを書いていますが、もう時間がありません。これから病院に向かいます。今日はこれでお終いにします。また明日。

続く

 

パスポート

パスポート

 

 昨日(28日)はパスポートの取り直しに出かけました。来月海外での出演が決まったのですが、パスポートを出してみてびっくりしました。昨年で期限が切れていたのです。何と、もう一年近くも海外に出ていなかったことになります。

 いろいろな意味でコロナはすべての活動を狂わせてしまいました。ようやくここへ来て、ぽつぽつと出演依頼も来ています。有難いことではありますが、そのためには急ぎパスポートを取らないと仕事を失うことになります。

 そこで、朝からセシオン杉並に出かけ、先ず戸籍謄本を取りました。次に新宿に出て、都庁にあるパスポートセンターに行きました。滅多に行かないところですが、都庁に着くと11年前を思い出し、迷わずに行けました。この部屋だけはいつも賑わっています。

 先ず、写真を撮り、そして受付に向います。春休みを利用しての海外旅行のためでしょうか、人が賑わっています。以前とは違い、戸籍謄本と身分証明書があれば取得はOKで、かつてのように印鑑も住民票も必要ありません。随分簡略化されて便利になっています。

 私は念のため、印鑑を持参してきました。かつてはどこの役所でも、印鑑を捺していない書類は一切受け付けなかったのに、今では印鑑を押す場所も書かれてはいません。高校の入試受付で、一緒に行った同級生が印鑑を押していないことに気付き、用紙を返されました。この時の同級生の落胆は見るも気の毒でした。

 落ち込んだ彼と共に、帰り際に、文房具屋で三文判を売っているのを見つけ、「君の苗字ならきっとあるんじゃないか」。と教えると、果たしてありました。幸運です。私の本名だったら絶対にアウトです。私もかつては印鑑一つのために出直しを求められたことが一度や二度ではありませんでした。あれは一体何だったのでしょうか。三文判で済む捺印なら一体何の判断基準になるのでしょうか。役所の国民への嫌がらせだったのでしょうか。

 パスポートの窓口もかつては、有楽町の交通会館に出かけたり、サンシャインのパスポートセンターに出かけたりしていましたが、今は都庁が最も近く便利です。と言っても、東京全体で、パスポートを受け付ける所が4か所か5か所しかなく、1000万人の住民が、パスポートを求めるのに5か所の窓口では、一か所200万人担当しなければなりません。当然大混雑です。特に春休みを控えている今はとても混んでいます。

 

この日も、11時に手続きを始めて、書類提出まで2時間かかりました。働いている人たちは全く休みなく、次々と書類をさばいています。大変な作業です。然し、待つ身としては2時間用事がありません。2時間もあるなら、待合室に映画一本流してもらえれば、その間楽しめます。そんな工夫をしてもらえませんか。こんなことなら単行本を持ってくればよかったと思いました。とにかく大病院の待合室のようなところに2時間座っていて、手続きを済ませました。パスポート取得は一週間後です。良かった。仕事に間に合います。

 帰りに都庁内の中のレストランに入りました、とんかつの専門店がありました。1時を過ぎていましたので、中はそう混ではいません。ランチのロースとんかつを頼みました。やってきたロースは、見た目は衣が荒く、食欲をそそります。味はさほどしつこさがなく、巧く揚がっていました。味噌汁は豚汁ではなく、シジミ汁でした。とんかつにはむしろシジミ汁の方がさっぱりしていて気が利いています。これで1000円なら満足です。

 さて、その後東急ハンズに向かいました。スライハンドの小道具や、そのほか考えている道具を作らなければなりません。ここであれこれ考えながら品物を探したため、2時間以上も東急ハンズを彷徨(さまよ)いました。

 残念なことは、かつての東急ハンズと違い、品数が激減しています。今となっては日曜大工専門店とそう内容が変わらなくなっています。かつてのようなビックリするような品揃えは見られなくなりました。

 それでもちらりちらりと欲しいものがあります。午前中はパスポートのために2時間座り続け、午後はハンズで3時間立ち続けました。いい加減疲れました、もっと早くに用事が済むなら、映画の「ナポレオン」か、宮崎駿さんの「君たちはどう生きるか」、を見て帰ろうか、と思いましたが、朝から活動をして動き回り、もう映画を見るゆとりはありません。少し疲れました。大人しく帰ることにしました。

 高円寺に着いてから東急ストアに寄り、刺身でも買おうかと思ったら、焼き芋を売っていました。考えたなら、朝から朗磨が事務所で仕事をしています。おやつに甘いものも食べたいでしょう。珍しいので買って帰ることにしました。それと、桃の花が枝ごと一本だけ売れ残っていました。一週間前にひな祭りを当て込んでたくさん仕入れて、店の入り口近くに飾ってありました。もうひな祭りも間近で、今更桃の花を買う人もいないのでしょう。

 私の家には、一週間前から、玄関に陶器の小さなお雛様を飾っています。私がふと思い出して飾ったのです。すると、翌々日、娘がふいに泊まりに来ました。ネイルアートの帰りに話し込んでしまったのか、とにかくやって来ました。不思議なこともあるものです。お雛様を飾ったらめったに来ない娘が来ました。

 お雛様効果でしょうか。そうなら、せっかくだから桃の花も飾って見ようと考えて買いました。桃の花は枝ぶりが大きく、まっすぐに伸びた枝に、たくさんの桃色の花がついて、なかなか華やかです。私はめったなことでは花は買わないのですが、私が買わなければこの花は売れ残って捨てられてしまうだろうと思いました。残り物には福があると言います。

 たった一つ残った桃の枝は何かの縁です。幸運を呼ぶ桃です。桃の花と、焼き芋を買って帰宅しました。事務所で、朗磨と休憩をして、お茶で焼き芋を食べました。朗磨は朝9時からマジックセッションのチケットをまとめています。私が5時に帰っておやつを食べながら談笑をしました。なかなか話をする時間もありませんでした。

 3月9日のマジックセッションの申し込みが結構来ていて、昨日、朗磨はその配送を一日やっていました。4月12日には屋形船で手妻をする企画を立てて、こちらも既に26人の申し込みがあります。このまま行くと30人を超えるかも知れません。そうなると船のサイズを大きいものに変えなければならないかも知れません。明日には船清さんと相談をしてみます。

 6月30日の三鷹の芸能劇場で開催されるマジックマイスターも申し込みが来ています。徐々にではありますが、舞台活動も復活して来ています。陽気も良くなってきて、よき方向に向かっているように思います。明日は、東急ハンズで買ってきた素材でマジックの試作品を作って見ます。

続く

 

 

戦争の真実

戦争の真実

 

 三日前の日曜日(2月25日)にNHKのスペシャル番組で放送されたウクライナのドキュメント番組は衝撃でした。ウクライナ兵が自分たちでスマホで撮影した戦争の映像をつなぎ合わせて、兵士が語るリアルなロシア軍との戦いを番組にしたのです。

 このところ、NHKのスペシャル番組は、武器輸出の疑いをかけられた、大河原工業の冤罪事件と言い。今回のウクライナ戦争の特集と言い、事件の突込み方が鋭く、映像も生々しく、見ていても深く考えさせる番組が続いています。こうした番組を作らせるとNHKは他のテレビ局を圧倒して優れた力を見せます。

 ウクライナのニュースは、これまでも、民放各社が毎日のように放送していますので珍しいものではないのですが、実際に戦争の現場で携帯電話で撮影したフィルムをまとめ、しかも、撮影した兵士にその時の状況を聞き、実際の戦争がどんなものなのかを詳しく伝えていると言うのは、無駄な脚色をせず、説教臭さもなく、自然な番組作りが視聴者の心を打ちます。

 例えば、ドローンの攻撃を見ても、攻める側は、指令室でドローンを操作し、ドローンに取り付けられているカメラを見ながら敵地の様子を見て投下します。その姿は全くゲームで戦争ごっこをしているのと同じですが、現実には随分様子が違います。

 その映像に映る敵兵、すなわちロシア兵の顔までが見えます。迷路のような塹壕に籠って移動しているロシア兵が、遠目に見るとネズミや、害虫のように見えます。そこへドローンを投下しますが、実際狙いを定めたロシア兵が殺戮される瞬間に、頭上にいるドローンに怯えている顏まで見えました。

 塹壕の中で逃げ回っているロシア兵を見て、私は、昔、家の庭で飼っていた犬を縁側で膝に乗せ、犬の背中をかき分けて、蚤を追いかけ、親指の爪の先で蚤を抑え込んで一匹一匹潰したことを思い出しました。

 それが蚤ではなく、人間を殺傷して行きます。あんな風に簡単に人を殺戮するのを見れば、「ひどい、無謀だ」。と思う視聴者もあるでしょう。然し、これは同時にロシア軍も同じことをしています。ウクライナ兵の塹壕にドローンが落ちて来て、ウクライナ兵の命を奪って行きます。

 

 同様に地雷に遭遇する画像も出て来ました。ジープから数名のウクライナ兵が降りて、敵陣に向かって歩いていると、一人の兵士が突然地雷を踏んで吹き飛ばされます。人はいとも簡単に自分の背丈の数倍も吹き飛ばされます。落ちて地面に叩きつけられて、身動きできなくなります。怪我のほどは分かりませんが、骨折は間違いないでしょうし、直接地雷に触れた脚は衣服の中で粉々になったのではないかと思います。

 またある兵士は、地雷を踏んで、片方の足は全く動かなくなりました。恐らくズボンの下で切断されてしまったのではないかと思います。このまま野原にいては出血多量で亡くなるでしょうが、不幸中の幸いに、自力で片足で引きずりながら、ジープに乗り込んで命が助かります。後日、テレビの取材で、切断した足を見せています。

 いつの時代でも戦争は悲惨なものですが、現代の恐ろしさはすべてが映像でリアルタイムで進行して、記録として残ることです。足を切断した兵士も、自分がどういう状況で地雷を踏んで、どうなったかを後で画像で見ることができるのです。

 多くの兵士は、体に損傷を受け、或いは精神障害を被り、一度自宅に戻って、家族とひと時の生活をします。然し、政府から呼び出しを受けたときには、再度兵士となって戦いに出ます。それは、自分たちの義務として、国に求められれば、二度と行きたくない戦場にも、再度出て行くのです。

 多くのニュース番組では、被害者の悲惨な映像はなるべく映さないようにしているのでしょうが、先週の日曜日のNHKスペシャルではかなり踏み込んで、被災者を映しました。きっと多くの家庭でこれを見て複雑な気持ちになったことだと思います。人が地雷で吹き飛ばされたり、負傷を織ったりする場面を映像に流すのはいけない。と言う人もあるでしょう。

 然し、ともすると、戦争とゲームを混同している若い年代の人がいることもまた事実です。現実に負傷すれば命を失うこともありますし、足を失うこともあります。そして、負傷した兵士は、その後も被害を背負って生きて行かなければなりません。

 そのことをNHKスペシャルは現実をぼかしたり、そらしたりせず、そのままを伝えていました。今まで見たウクライナ関連番組の中では並外れて戦争のむごさを伝えています。そして、それでも戦いに出かけなければならないウクライナの人々を見事に伝えています。

 「戦争はいけない、すぐにやめるべきだ」。とは誰でもいえます。然し、全く一方的にロシアに攻め込まれてきたウクライナにすれば、今ここで戦争をやめることは出来ません。やめればウクライナ全土を失うことになります。一度国を失えば、この先百年二百年ロシアの圧政の中で不平等な地位に置かれるのです。かつてのウクライナそうであったように、この先、また同じことが繰り返されるのです。

 戦争はいけない、平和国家であるべきだ。と日本の大人は言います。然し、ひとたび攻め込まれたなら、平和も戦争反対も通用しません。戦って国を守る以外ないのです。

 自国の独立を維持するために、ウクライナは戦っているのです。戦争はいけない、やめた方がいいと言うのは当然です。誰だって戦争はしたくないのです。ロシア兵だってそう思っているはずです。ましてやウクライナ人にすれば自らこの戦いをやめることは出来ないのです。やめたら国が無くなってしまうのです。

 平和を唱えていれば平和であり続けることなどあり得ないし、戦争反対と言っていれば戦争が起きないことなどあり得ないのです。いざとなったら自分たちもウクライナ人と同じように戦わなければならないことを教えてくれたNHKスペシャルに拍手喝采を送ります。

 続く 

 

人の行かぬ所に花あり 2

人の行かぬ所に花あり 2

 

 私は十代のころから、なるべく人のやらないことを見つけて、その道に特化して行くことが成功の道だと感覚的に体得して、実際その通りに実践して生きて来ました。

 だからと言って、人のやらないことをやればすぐに、何でも簡単に成功に結び付いたのかと言うと、そうではなく、人の行かないところと言うのは、全くの荒野とか、砂漠の土地のようなところが多く、成功とは程遠い、何もないところに放り出されて、悪戦苦闘する日々でした。全く手つかずのお花畑がそこらに転がっていて、そこから蜜や果物がふんだんに積み取れるわけではありませんでした。

 イリュージョンを自分で考えると言うのも、大変な仕事でしたし、バブルが去って、新たなスポンサーを探すために、子供のころ少しばかり習い覚えていた手妻を、もう一度見直して、現代の観客が見ても満足するような作品にアレンジして行く活動を始めた時も、簡単ではなく、手妻と言う言葉自体が誰も知らない上に、手妻に対しての支援者も無く、観客もいませんでした。

 手妻は子供のころから習い覚えてはいましたが、それを見せるチャンスが少なく、幾つかの演技を習得していても開店休業の状態でした。やむなく、スライハンドを演じたり、イリュージョンをしつつ、手妻を続けていて、小道具や衣装に投資をしていました。30を過ぎた頃には水芸の装置一式も作りました。正月や、夏場はそれで結構忙しく活動していましたが、水芸が良くなると、今までの手妻の作品が貧弱に見えて来て、手妻の面白さ、凄さを語るには、平凡な作品では物足らず、決め手に欠けていたのです。

 時代は昭和から平成に移り、平成になると急に、能や狂言雅楽など、古典の芸能が評価されるようになりました。手妻も例外ではなく、それまで古臭いだの、演技がのろいだの散々の評価をされていたものが、急に古典芸能として見てもらえるようになりました。

 それはいいことなのですが、そうなると演じる方も、しっかりと演技全体をまとまった作品にしなければなりません。ただ着物を着てマジックをすれば手妻、和妻ではないのです。高級品と見てくれるなら、本当に高級な芸能にならなければなりません。

 そこで、衣装から、演じ方から、小道具に至るまで、全てを見直して、新たに手妻の世界を作らなければならないと言う結論に至ったのです。私が子供のころから見知っていた手妻と言うのは、もう散々に扱いが軽くなってしまっていて、随分古ぼけた、粗末な世界でした。世間にあまり評価されない時代が長かったのか、どれも何となく貧相な内容でした。

 それを、幕末、明治期のように、手妻師の看板で大きな舞台を一杯の観客にしていた時代の華やかな公演にするにはどうしたらいいか。これには随分苦労しました。然し、この話は度々ブログに書いてありますので、ここでは申しません。過去のブログをお読みください。

 

 私がずっと続けてきたことは、人があまり興味を示さないマジックに対して、「ここを少し直せばきっともう一度輝きを取り戻せる」。とか、「口上(前説)を省いてスピードアップを図れば、きっとお客様の興味が増す」。とか、「このハンドリングを少し改めれば、かなり不思議な演技になる」。と言ったマイナーチェンジを繰り返してきたのです。それは一貫して、本体を大きく変えることなく、わずかなアレンジにとどめて直してきたわけです。

 「そんなことで、手妻がマジックの中の一ジャンルとして新たな脚光を浴びて、生きて行けるのですか?」。と問われれば、即座に「イエス」。と答えます。一つのマジックを生かすと言うことに必ずしも大発明は必要ないのです。小さなアレンジを何度か繰り返すことで、充分効果を上げるのです。

 「もうこのマジックで喜ぶ観客何ていない」。とか、「アイディアそのものが古い」。などと言って、マジックを否定してかかる人がいますが、否定の前に、一度そのマジックをワックスを付けて磨いてみるといいのです、色の落ちているところは塗装し直してみるといいのです。僅かな手間をかけることで、作品が見違えるようによくなる場合が多いのです。

 30代半ばで、イリュージョンの仕事が少なくなってからは、手妻の資料を調べたり、作品のアレンジを加えたりして、ひたすら手直しをして来ました。その甲斐あって、今では弟子に伝えられる手妻の手順も30作品くらいできました。これだけあれば数人の手妻師が生活して行けます。

 

 さて、話は長くなりましたが、ここからが本題です。私にスライハンドが見たいと言ってくる人の多くは、かつて、私が出していた指導ビデオを持っている人たちなのです。彼らは、未だ私の指導ビデオを見て、練習しています。そうした人たちは、時々でも私の演技が見たいのでしょう。

 然し、今では、私の活動はスライハンドから離れてしまっています。「そこを、何とか演じてほしい」。と言われて、よくよく考えてみたなら、私のスライハンドの研究は、私がイリュージョンや手妻に移って行ったために、中途半端に終わっています。

 出来ることならこの先5年くらいまでに、一つにまとめて、現代の人が見ても十分に面白いスライハンド。あるいは、芸術の域にまで達したスライハンドと言うものを作って見たらいいのでは、と考えたのです。それはかなり高いハードルですし、今の私にそこまでできるかどうか、心配ではあります。

 でも、目標は高く考えてもいいのでしょう。実際スライハンドマジシャンが使っている、素材を一つ一つを見ても、見るからにチープな道具が多く、それを持って出て来ただけで、社会的に地位ある人は、吹き出してしまうような粗末な道具を使っています。アマチュアならどんな道具でもいいのですが、その道のプロで、そのジャンルの権威者と言うのであれば、先ず道具には高級感が必要ですし、演技も自分が語ろうとしている世界がしっかり行き渡っていなければいけません。これまでのスライハンドマジシャンは、職人的な巧さはあっても、表現する世界観が貧相だったのではないかと思います。

 さて様々なことを考えて、今日も午後から素材を探しに出かけて行きます。又半月ぐらいしたら、進捗状況をお知らせします。

続く

人の行かぬ所に花あり 1

人の行かぬ所に花あり

 

 ブログにも度々書いていますが、私はかれこれ60年近くマジックを続けています。その間ずっと同じマジックを続けていたわけではありません。初めのうちは簡単なネタ物のマジックを喋りながら演じていました。十代前半のころです。

 それからスライハンドを始めました。カード、鳩、ゾンビボール、ロープ、リングなどです。十代の末から二十代の中頃まで続きました。

 その後はイリュージョンを始めました。二十代から30代の半ばまでです。折からのバブル景気で、イリュージョンショウは大忙しになりました。

 バブルが弾けて以降は、手妻を始めました。以降ずっと今日まで手妻で活動をしていて、多分、このまま手妻師として一生を終えるものと考えていました。

 ところが、ここへ来て、私のスライハンドの演技を求める人がかなりいて、半信半疑ながら、演じるようになりました。もう一度昔の手順を組みなおしてみようと思うようになりました。今は少しずつ昔の手順を稽古をしたり、新しいアイディアを加えるなどして自身の演技を考えています。

 

 十代のころは、何もわからないままマジックの面白さだけで手当たり次第にマジックをしていました。元々マジックの才能があってしていたわけではありません。芸人だった親父が面白がって私を舞台に上げてくれたのです。

 初めは子供でしたから、下手なマジックでも、周囲が面白がってパッと仕事が来ましたが、十代も半ばを過ぎると、なかなか買ってもらえなくなりました。そこでこれではいけないと、スライハンドを始めるようになったのです。その時にあちこち訪ね歩いて、人のやらないハンドリングや、テクニックをいろいろ学びました。

 多くのマジシャンは、道具を買い求めることはしても、ハンドリング一つに授業料を支払おうとはしません。私は、自分自身のスライハンドの才能に自信がありませんでしたので、随分と人を訪ね歩いて授業料を支払ってマジックを習いました。

 結果として、それが今になって役に立っています。師匠の松旭斎清子からは蒸籠や連理の曲などの手妻を習いました。松旭斎千恵先生からは12本リングを習いました。二代目松浦天海師から初代天海師の様々なハンドリングを習いました。高木重朗先生から、陳徳山の中華蒸籠や、ロープやシルクのマジックを習いました。渚先生からは鳩や、カードを習いました。お陰でどうにか格好のつくマジシャンになれて、結構忙しく活動するようになりました。

 その時に、なるべく人のやらないものを多く学びました。例えば、リングは、当時はみんなが3本リングを演じていたのです。スローな演技で、静かに演じる3本リングが当時のマジック愛好家には、見た目に高尚で高貴に見えたのでしょう。

 私も無論3本リングは学びました。然し、実際舞台で演じたものは、当時のマジシャンが演じることのない12本リングでした。12本リングは造形づくりが入るため、当時の奇術家の多くは、「つなぎ外しの本質とは何ら関係のない造形などやる意味がない」。と真っ向から否定していたのです。

 然し、12本リングの素晴らしさは、初めに全部改めて見せることの不思議さ。途中のハンドリングが今では世界中の手順の中のどこにもない極めて個性的なこと。更に、6本リングにない派手な造形など。見るべきものが満載です。

 しかも、旧来の手順を私がスピードアップして、後半はセリフを省いて、音だけで進行するようにしましたので、演じた後にカタルシスを感じさせるほどの小気味よさを体感します。これが面白いのです。

  昭和40年代は12本リングにとっては逆境の時代でした。そんな中、私は50年間ずっと演じて来ました。幸い今では私の12本リングの支持者はプロの中にも増えました。無論、多くの一般のお客様にも支持されています。

 同様にサムタイです。これも天洋師が演じて名人と呼ばれていましたが、若いマジシャンで演じる人が少なく、昭和40年代にはすでに埋もれているような芸でした。これに自分の工夫を加えて、得意芸として演じるようになりました。

 考えてみると、私は、人のあまりやらないマイナーな芸ばかりを狙って演技してきました。それが結果として、私のやることが個性的で物まねでない芸能に見えて、私を買ってくれる仕事先が多かったのです。実際、20代30代の私は、サムタイと12本リングを演じない日はありませんでした。

 

 その後にチームを作ってイリュージョンに移行しました。昭和50年代の日本では、イリュージョンと言う仕事は、ほぼ東京、大阪と言った大都市に住むのマジシャンが独占していました。地方都市ではイリュージョンチームと言うほどのものは育っていなくて、夫婦でマジックをしていて、スライハンドのお終いに、ヒンズーバスケットや、竹の棒の浮揚などを演じる程度のイリュージョンが殆どで、大きなチームはなかったのです。その東京ですら、4~5組のチームしかなく、かなりこのジャンルはねらい目ではあったのです。

 ところが、そうであるなら、みんなが大きく稼いでいたのかと言うと、必ずしもそうではなかったのです。なぜかと言うなら、その内容が類似していたのです。

 演じる道具がどのマジシャンも、人体交換箱、ジグザグボックス、竹の棒の浮揚。ヒンズーバスケット、とお決まりの4点ばかりを演じていて、例えば、毎週日曜日に客寄せでスーパーの吹き抜けで演じているショウにマジックを頼むと、人は変わっても演じるイリュージョンは誰も同じ。と言う状況だったのです。ショウを入れている事務所の人からは、「藤山さん、竹の棒の浮揚や、ジグザクボックスでないイリュージョンを持ってきてください」。とわざわざ念を押される始末でした。

 そこで、私は、イリュージョンをやるからには人と違う内容をしなければ意味がない。と思い、自ら図面を引いて、オリジナルイリュージョンの製作を始めました。これは大変に費用と時間のかかることで苦労しましたが、結果、後発でイリュージョンに乗り出しながらも、大きな仕事を手に入れて、バブル期には随分いい仕事をしました。バブル期にイリュージョンをしたから稼げたのではなく、人のやらない作品を作ったことが成功したのです。

続く