手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

春は名のみの 2

春は名のみの 2

 

 昨日に続き、香港のお話。16日の朝8時ころ朝粥を食べたあと私は、香港の街を歩いていました。陽気は少し蒸し暑く、町全体に薄くもやがかかっていました。私は厚手のシャツに、厚手のジャケットです。そんな恰好で歩いている人は殆どいません。短パンに、半そでシャツ姿の人ばかりです。

 然し、短パン、半そでシャツで歩くほどには暑くはありません。私の格好でも汗は出ないのです。慣れの違いでしょうか。

 部屋に戻って、シャワーを浴びて、荷物を仕分けていると、迎えの通訳さんがやって来て、これから出ると言いました。いつでも連絡が突然で、来るとすぐに出なければなりません。

 会場まではタクシーで行きます。タクシーは、中国語で的士と書きます。車に乗って10分ほどでエアサイドに到着。大きなショッピングセンターです。

 その二階に広場があり、一面桜のディスプレイに飾られた祭り会場が出来ていました。控室は、23階の会議室。立派な部屋です。7階から上はすべてオフィスとしてつくられています。

 一回目は3時の出演、二回目は5時30分の出演です。一回目と二回目の間が短く、セットが十分にできるかどうかが心配です。そのため、一回目は、傘出しと蝶で15分の手順。二回目は、傘、サムタイ、蝶で30分の手順です。サムタイはお客様を舞台に上げ、話をしながら進行する上に通訳が付きますので、確実に10分以上かかります。そのため、一回目のショウはサムタイカットです。

 さて急ぎセットを終えて二階に降りると、もう広場は人で溢れています。舞台裏に回って、時間待ちをしていると、全く予定にない、子供を上げての浴衣コンテストをしています。これが結構盛り上がっています。然し、私の出演時間になっても終わる気配がありません。

 進行に尋ねると、日本の大使が見えていて、祭りを楽しんでいるらしく、大使を喜ばせようと、司会が盛り上げて企画が伸びているようです。多少の遅れは致し方ありませんが、まずいのは、それによって、二部のショウが間に合わないことです。

 結局、30分以上予定を押して、私の出演となりました。いつもの傘出しと傘による人力車の引っ込み。そして挨拶をして、蝶の演技、無事20分以内に演技を終えました。ところが、主宰の向谷さんが、司会を割って入って来て、「サムタイをやってくれ」。と言います。私は今の時点で企画が30分以上伸びている上に、サムタイをすれば更に10分以上伸びるため、出来ないと言うと、「大使も来ていることだから、サービスして」。と言います。

 たっての願いとあれば致し方なく、サムタイをしました。幸いに好評で一回目のショウは終わりました。しかし問題は二回目です。フル手順を仕込むには1時間かかります。慌ててセットをするとうまく行きません。でもあと1時間しかありません。そのため、30分ショウを遅らせてもらうことにしました。

 6時の出演に間に合うように、セットをしていたのですが、その間、ランチを食べる時間がありません。そもそも、この企画はランチをいつ食べるのかの指定がないのです。まぁ、仮に指定があっても、この日程では食事は出来ません。何もかも香港タイムです。ショウが終わってからの食事を愉しみに、セットアップを済ませて、再度会場に向かいました。またまた人はたくさんいます。

 私は、この企画が1時間押していることを考えて、二回目の手順はサムタイを外すことを伝えました。そして、実際、その通りに、傘と蝶を演じて終わろうとすると、またまた向谷さんが現れて、「サムタイをやってくれ」。と言います。私は反対しましたが、懇願され、サムタイを演じました。

 ショウを終えて、道具を片づけ、さて食事をしようと言うと、通訳は、街に出ようと言います。かれこれもう8時です。私は昼飯をスルーされて少し機嫌が悪くなり、「外に出るのでは時間がかかるから、ここのレストランで食事をしましょう」。と不快感を現しました。言われて通訳は、階下のレストランに我々を案内し、ようやく食事が始まりました。

 晩食のメンバーは、日本の凧を継承している凧師の小野さんと、私と弟子の朗磨と女性の通訳さんです。出てきた料理は、青椒肉糸と、酢豚、豚肉と野菜の炒め、福建チャーハン、スープ。でした。この店は、レベルの高い店で、何を食べても旨いと感じました。但し、酢豚は、広東風で、中にパイナップルが入っています。パイナップルはいい味なのですが、元々広東風は甘い味付けが多い上に、この酢豚はパイナップル入りで、まるでお菓子のように甘く、これは問題ありでした、然し肉質はいいものでした。

 何と言っても、お目当ては福建チャーハンでした。10年以上前に、台湾で福建チャーハンを食べて以来、私はこれに恋をしてしまいました。日本に戻って、福建チャーハンを探しましたが、どの店も台湾ほどの味わいがありません。チャーハンの上にとろみの掛かっている野菜炒めを乗せたものですが、炒めはあっさりとした塩味で、チャーハンも塩味なのですが、それが合わさった味わいが絶妙で、その後、台北に勝る福建チャーハンに出会っていません。

 この店に福建チャーハンがあったので、もしやと期待をして頼みました。その味は。正直言うなら期待した味ではありませんでした。チャーハンも、炒めも悪くはなかったのです。然し、違います。

 色々食べて、青島ビールも飲んで、空腹は満たされました。ホテルに戻って10時30分。深夜ではありませんが、一日二回のショウは少し疲れました。いつもは二回程度のショウで疲れることはないのですが、この日の進行の悪さに気を使い疲れました。すぐに休むことにしました。

 然し、通常、こんな時間に寝たなら、明日が朝早くて、眠れないのではないかと不安になりますが、青島ビールが程よく眠気を誘いました。そうそう、最近は酒を呑んで寝ることが無くなりました。酒呑みにとって、呑んで眠ることの幸せは何にも代えがたいものです。久々それが出来るのは幸せです。明日の朝、向谷さんと7時半に朝食をする約束をしていますが、私の生活なら5時くらいには起きていますので、問題ありません。まずは酔いに任せて眠ります。と言うわけでこの先はまた明日。

続く

 

春は名のみの 1

春は名のみの 1

 

 ブログは二日休んで、その間に香港に行ってきました。出演は一日だったのですが、15日(金)前日に乗り込んで一泊し、翌日16日が出演当日。その晩はまた泊り、そして17日の晩に帰って来ました。

 この仕事は、日本政府と地元の民間企業が協力し合って、日本の文化を広く知ってもらうために、各所で定期的に催されている企画です。今回は、出来て間もない、巨大なショッピングセンターのドーム中央に、日本の祭り広場を作り上げて、お菓子や、伝統工芸などを並べて、そこに舞台を作り、私は手妻を致しました。

 このショッピングセンターは、元々、ここに啓徳空港があった場所です。かつては香港は町の中央に空港があったのです。私も初めて香港に行ったときには啓徳空港を使いました。ところが、この空港は曰く因縁付きの空港で、余りに繁華街に近いため、周辺のビルが、時代と共にどんどん高くなり、空港がビル群の中に埋没してしまったのです。

 そのため、飛行機が着陸するときには、ビルに遮られて、長く低空飛行することができず、周囲のビルをすれすれに飛行機が飛んできて、狙いを定めていきなり体の向きを下げて急降下しなければなりません。日本では飛行機がこんな離着陸をしたら、危険極まりないと、周辺住民の人権問題に発展して、大騒ぎとなるはずですが、そこが中国人の国ですから、何でもありなのです。

 大きな飛行機が、住んでいるいるアパートのベランダに並行して走っている姿は異常な光景ですが、毎日見慣れてしまったのか、これまでは危険とも、騒音の苦情も出ませんでした。中国人はそれを日常と受け入れてしまうのです。

 然し、パイロットにすれば、こうまでビルが近いところにある飛行場は危険極まりなく、評判の悪い空港だったのです。それが、十数年前に、香港島の西の端に新規に空港を建設して、空港から、香港市内を高速道路で結びました。これで香港市内で大きな飛行機の騒音はなくなりました。

 さて、その啓徳空港の跡地ですが、いろいろ開発の話があって、今回もその一つとしてショッピングセンターが出来たのです。名称はARESIDE(エアーサイド)。将来的には劇場ができたり、そごうデパートが出来るそうです。敷地はまだまだたくさんあって、大きな起重機が何十本も並んでいます。

 香港と聞くと、古いビルが林立していて、下は小さな商店がひしめいていて、上層階は何百世帯ものアパートが暮らしている、超過密ビルを連想させますが、数年ぶりに訪れた香港は、とても大きなビルが新たに出来ていますが、ビルの作りが高級化して、住まいの質も向上しているようです。

 ショッピングセンターを歩いている若い子供連れの夫婦を見ていると、みんな幸せそうで、日本の若い夫婦と同じように、いい身なりをしていますし、子供も幸せそうです。所得で言うなら、もう日本と同じくらいの収入を取っているようで、生活も安定しているようです。物価を見ても、ショッピングセンターの中の商品価格は、東京の中心街の価格とほぼ同じで、レストランの食事の質も申し分がありません。

 ほんの数年で、香港は全く日本と同じような生活をする国になっていました。そして、香港の人は日本文化が大好きです。都市国家と言うのは、ある一定の地域に人を押し込んでそこに金融業や、IT企業を持ってきて、産業を発展させました。そこには人が集約して生活しており、仕事をするには便利ではありますが、どこへ行ってもビルばかり、公園もなければ、街路樹も少なく、人が休息する場所がほとんどありません。そうした人たちにすれば、日本の箱根や、富士五湖などの観光名所は魅力です。都市と森がうまくバランスを持って生活している日本は憧れなのです。

 と言うわけで、香港の人は日本のすることが何でも好き、米も秋田こまちや、ひとめぼれが普通に売られています。日頃食べているタイ米ではおにぎりが作れませんので、日本米は大人気です。但し日本で食べるよりも相当に高いので、日本の米を毎日食べられる家庭は限られています。

 日本のラーメンも、たこ焼きも、寿司も、果物も、何でもかでも売られていて、日本と名がつくと高級と言うイメージが定着しています。日本のすることは何でも大好きです。そんな中巨大ショッピングセンターで、ジャパンフェアが開催されれば、彼らは面白がって家族総出でやって来ます。 

 

 15日は、とにかく一日かけて、香港に向かい。到着後、迎えのスタッフと一緒に九龍にあるホテルに入りました。その晩は遅かったのでそのまま休みました。

 16日は、私は朝の5時半に目が覚めました。いつものことです。然し、5時半ではどこも店らしいものはないだろうと思い、7時まで本を読みながら休みました。それから、ホテル周辺を散歩しました。ここは中心街ですから、朝からにぎやかです。

 そこで2ブロックすすんだところにけっこう高級なレストランがあり、そこで粥料理がありましたので入りました。私は香港や、台湾の粥が大好物です。粥は地元ではコンチーと言い、普通に朝食で食べられています。薄く塩味が効いていて、丼いっぱいに熱い粥が盛られます。粥の中には、ピータンが細かく切って入っていて、他に小振りの鶏肉が骨付きで三つ入っていました。内容はこれで充分です。

 鳥の脂身と。ピータンの旨味、粥の塩味で頂きます。これは幸せな料理です。体に優しいですし、丼一杯の米を頂いても決して腹いっぱいにはなりません。サイドディッシュに、焼売と、牛肉饅頭を食べて、十分満足です。値段は70ドル(香港ドルは、1ドル20円=1400円)。値段はまぁまぁです。

 焼売と、牛肉饅頭を食べての粥の値段ですから、普通でしょう。香港に着いたらまず粥が食べたいと思っていましたので、朝から満足に食事ができました。

さてこれから、エアーサイドの会場に入りますが、その話はまた明日。

続く

 

深夜の地震

深夜の地震

 

 昨晩(3月14日)、深夜寝ていると、かなり長い時間の地震がありました。揺れは東西の横揺れでしたから、震源は千葉か、茨城がだろうと思いました。揺れは大したことはなかったので、問題ないだろうと思い、そのまま寝てしまいました。

 このところ地震が多いのが気になります。今現在、日本の景気は株価も最高潮に達していますが、これで首都圏に大きな地震が起きるようなことになると、一辺に経済が破綻してしまいます。

 災害があっていいことなど一つもありません。首都圏での大地震となると、復興に、相当に時間がかかります。10年経っても完全復旧は無理かも知れません。上水、下水を考えても、東京の地中には、60年70年経っている水道管などがざらにあります。そうした配管が地震によって一遍に駄目になってしまいますから、これを完全に修復するだけでもとんでもない費用が掛かります。

 ビルの建設、道路の修理、橋や、陸橋の修理、あらゆるものが破壊されて、建設会社にとっては大儲けのチャンスかもしれませんが、幾ら費用をかけても、元に戻すための費用ですから、日本の発展にはつながりません。被災した人にとっては財産を失い、生活を失い、仕事を失い、不幸以外の何物でもありません。

 

 いま政治の世界では、パーティー資金のバックリベートの問題で国会内は大騒ぎですが、もし大地震が起きたなら、バックリベートの話題など吹っ飛んでしまって、日本中災害復興に集中するでしょう。自民党にとっては、もし今、関東大震災が起これば、天の恵みになるかも知れません。

 パーティー券のバックリベートなどどうでもいい小さな話になってしまい。税金を逃れて、政治資金を作っていた政治家はみんな無罪放免になるでしょう。政治だけでなく、だらだらとゴシップを引き摺っていた、ジャニーズの問題も、松本仁志さんの問題も、うやむやのうちに、噂が消えて、いつの間にか当人がテレビ復帰するかも知れません。ついでに渡部さんなども戻って来るかも知れません。

 地震はすべてのことを忘れさせて、あらゆるものを浄化させる作用があるのかも知れません。大きな問題の前には、小さな問題は消えてしまいます。いいも悪いもありません。それだけ日頃、むきになって大騒ぎしていたことはどれもつまらないことだったのです。いいか悪いかと言えば悪いことではありますが、地震の前には些末な話なのです。そんなことより、この先東京をどう復興させるか、が重要な話題となるのです。

 

 かつて、私の20代のころ、一極集中している日本の首都を遷都しようと言う話があったのですが、あの話はどうなったのでしょう。茨城あたりに新首都を建設しようなどと言っていたものが、その計画がいつの間にか消えてしまいました。首都移転となると巨大な費用が掛かるため、恐らくバブルが弾けた後は、金が無くなって、話は消えてしまったのでしょう。

 然し、大震災があって、破壊されたなら、どのみち新しく、国の機能は建て直さなければなければならないでしょうから、なにも東京にこだわることなく、北関東でも、東北でも、首都を移転すればいいのではないかと思います。

 東京にばかりあらゆる機能が集中していることの弊害は昔から言われていました。地価は値上がりし、電車、車は渋滞し、不動産は高騰し、生活環境も最悪です。何十年もそんな生活に慣れてしまったから、みんな諦めて何も不満を言わなくなりましたが、本来日本人はもっともっと豊かな生活を安価で手に入れて行けるはずなのです。生活するためのシステムが悪いから無駄な金を使って、不便を強要されているのです。

 システムを変えれば今以上に快適な暮らしができるはずです。政治や行政を別の地域に移転することは有効な話です。筑波に移転するもいいですし、いっそ、東日本地震で人が減少した、福島県に首都を移転しては如何でしょう。

 今でも福島県や東北地方では地震の被害から立ち直れない地域がたくさんあります。そこに首都を持って行けば、地域の復興には役立ちますし、東京は人口が少なくなって、地価は下がり、都民は快適に暮らせるようになります。新首都は地震に強い、耐震構造の都市を作って日本全体のモデル都市にしたらどうでしょう。

 それを、東京大震災が来てから行動をするのではなく、今から新首都を福島に移転するべく、用地を買収して、(放射能被害で人が住まなくなった地域を買収すれば格安で手に入るでしょう)青写真を作っておくのです。そして、早期に新首都を建設して、仮に地震が起きたなら、速やかに移転するのです。こうすれば、日本の手回しの良い行動に、世界は称賛するでしょう。

 「もし、地震が来なかったらどうする」。問題ありません。来ても来なくても首都を移転するのです。移転の費用は、今の千代田区にある政府の建物(国会議事堂や、外務省、などの庁舎)、を売却した費用で賄えばよいのです。官庁はどこも交通の便のいいところにありますから高額で売れるでしょう。

 ついでに大学も新首都に移したほうが良いでしょう。東京は、経済と文化の都市と位置付けて、政治学問は新首都に移したらよいのです。そうなれば、東京は今より100万人、人口が少なくなるでしょう。一割人口が減ったなら、山手線のラッシュは確実に改善されるでしょうし、住宅もマンションも、アパートの家賃も確実に10%価格が下がるでしょう。

 地震が来ることは脅威ではありますし、被害を思えば誰も望まないことではありますが、でもどうせ来る災害ならば、その災害をばねに、より住みやすい生活を考えたらよいのです。駄目はいくら繰り返しても駄目です。駄目をどうしたらよく出来るか、それが大震災のきっかけでよりよい生活が出来るなら、地震は大きなチャンスを生むことになります。幸せも不幸も、成功も失敗も、全ては人の思いようです。

続く

 

 明日(16日)明後日(17日)は、香港での仕事のため日本を離れます。2日間ブログはお休みします。今日はこれから出発します。帰ったら香港のお話を書きます。

リーダー不在

リーダー不在

  私は親が芸人で、親の手引きによって小学生のころから舞台に立ち、そのまま学校を卒業して、マジシャンになってしまいました。こんなマジシャンは世間でも珍しく、他のマジシャンと話をしていても、みんな初手は、そもそもプロになること自体が苦労だったと言います。

 最近、若いマジシャンと話をしていると、昔と同じように、プロになる道は狭く、プロとして活動して行ける人は少数です。但し、どうも私の20代のころとは違って、何となく縮こまって狭い世界で細々生きているように見えるし、はっきりとした目的意識も持たないまま、とにかく食えればいい。マジックが専業であればいい。みたいな人が多いように見えます。

 

 確かに当面は食べて行かなければなりませんから、どんなことでもしゃにむにやってこの世界で顔を知ってもらい、稼がなければなりません。と言って、ショウから離れたバイトをしていたのでは、いつまで経ってもマジシャンとして生きて行く目的は達成できません。どんな小さな仕事でもいいからショウに携われるようにしたいと考えます。無論、出演させてくれて、自分のマジックを披露させてもらえるなら、こんな幸いなことはありません。

 多くはコンベンションのコンテストに出たり、アマチュアマジッククラブの発表会に招かれてゲスト出演したり、仲間の伝手でレストランや、バーなどで出演させてもらったり。とにかく、舞台数と収入を得ることに専念します。

 それでも不定期なイベントの出演では毎月の生活を維持することは出来ません。好きで始めたマジックではあっても、実際活動してみれば、生きて行くことの厳しさに直面します。これは日本だけのことではないのです。例えば、韓国や台湾、香港、シンガポールなどを見ても、どれも国が小さすぎて、そもそもイベントの数が少なすぎます。

 どこの国もマジシャンの数に比べてイベントの数が足りません。それは、程度の差こそあれドイツでもイギリスでも、フランスでも同様です。ヨーロッパはどこの国も日本の人口の半分くらいしかいませんから、町は大きな都市が少なく、当然イベントの数も少ないのです。

 ヨーロッパで成功しているマジシャンは、一国に留まることなく、各国に招かれるような、実力のあるマジシャンであれば生きて行けますが、一地域だけで生活しようとすると日本と同様に活動は狭くなります。

 そのことはアメリカも同じです。アメリカほど広い国ならば、アメリカ中を回ることで、いくらでも無限に舞台チャンスがあるかと思いますが、そうではありません。アメリカは国が広すぎて、例えば、ニューヨークに住むマジシャンをロサンジェルスのイベント会社が仕事を依頼をすることはまずないのです。なぜなら、交通費や、宿泊費がかかり過ぎるからです。

 二ュ-ヨーク~ロサンジェルス間は、東京~北京以上に離れています。ヨーロッパで言うなら、スペインのマドリッドからモスクワに行くような距離です。距離が海外旅行に匹敵します。ニューヨークのショウは、当然ニューヨーク近郊に住むマジシャンのテリトリーとなり、シカゴはシカゴ、ロサンジェルスロサンジェルスのマジシャンを使うのです。となると如何に国が大きくても、仕事の量は無限にあるわけではありません。

 無論、アメリカ中を活躍するマジシャンはいます。そうした人はテレビでレギュラー番組を持っていたりして、誰もが知る有名なマジシャンです。有名であれば、交通費や、宿泊費など関係なく招かれます。但し、そうなると、ギャラが高すぎて小さなイベントには出演できません。

 

 さて、ここで私が何を言いたいのかと言うと、何とか、マジックの世界で生活できるようになって、人間関係も出来て来て、年間決まった場所の出演もいくつか決まって行ったとすると、マジシャンとして初手の目的(この道で生きて行くこと)は達成したことになります。

 然し、気を付けて下さい。今現在の安定は仮の姿なのです。生活ができるようになったと言っても、それは低いレベルでの安定であって、本当の安定ではありません。やっている仕事場も、とり合えずはマジックを見せているレベルではあっても、本当にいい環境でマジックをしているとは言い難いでしょう。

 その舞台活動の周辺にいる、仕事仲間や友人も、きっといい人達ではあるかも知れませんが、彼らが本当のプロなのかと問えば、自分自身も含めてプロとは言い難い人達なのではないでしょうか。つまり、何とか、プロ活動は出来ていても、それはプロの仕事を真似ているだけであって、仕事内容も、スタッフも仲間も、本当にプロの仕事をしているとは言い難い、いわば仮の世界なのではないかと思います。

 実は芸能の落とし穴はここなのです。何となく生きて行ける。これならこの先やって行ける。と言う道は、実は見せかけの世界であって、そこに長くいると、人の志を少しずつ蝕んで行く麻薬のような世界に陥ってしまうのです。せっかく、才能があって、努力もして、見た目も生き生きとして、かっこ良さげなマジシャンが出て来たと思ったら、10年も経って見ると、年齢よりも老けて見え、何となく汚れた演技をして、場末感の漂うマジシャンになっていたりします。

 無論、誰だってそうなろうとして生きている人はいません。然し、例えて言うなら、けものが自分の身幅だけの穴を掘ってそれを住処(すみか)とするように、芸の意識の低い人は、自分の浅い知識だけの狭い世界を作って小さく生きようとします。

 その先に大きな目的があるならば、それを仮の姿として見ることもできます。しかし、その生き方を五年十年と続けて行くといつしか人は、身幅ほどの生き方しか出来なくなって行きます。

 何の成功もないまま、ただマジックをするだけの生活をして、それで本当に満足なのか。ここは一つ真剣に考える時です。マジックで食べて行けるようになったなら、もう少し、レベルの高い仕事場に出て行けるようにするとか、より有能な人に認めてもらえるように努力をするとか、今のマジックをマイナーチェンジして、当初自分が思い描いていたマジシャン像を本気になって作り上げて行こうとする人こそが、一つ上のランクのチケットを手に入れられる人なのです。

 本当の成功を掴まないまま、中休みをしたままて、一生を終えてしまうマジシャンが如何に多いことか。ここは思案の為所(しあんのしどころ)なのです。

 続く

3月4月は、

3月4月は、

 

 3月はもう早くも半分が終わってしまいました。振り返って見て、一体自分は何をしていたのかと言えば、指導と小道具の製作が多く、ほとんど毎日個人指導をしていました。指導の間に、新しい手順を考えたり、小道具の試作を作ったりしていたわけです。

 弟子の朗磨は毎日、9日のヤングマジシャンズセッションのチケット対応をしていました。あれこれ事務仕事をしているうちにあっという間にセッションの当日になり、そして後片付けをして、今日に至ったわけです。

 9日の舞台では久々植瓜術を出しました。ところが、稽古をしていて気づきましたが、四つ柱になる細竹が割れていました。何とか、接着剤で応急処置をして本番を演じましたが、柱が折れてしまい、全体を支えるだけの力がなく、演じていて倒れそうになります。本番はなんとかうまく行きましたが、公演の翌日、早速竹を取り換えて、新規に作り直しをしました。

 こうした道具は既製品ではありませんので、一から作る以外ありません。作ると言っても元となる資料もありませんので、全ては私の頭の中で想像して考える以外ありません。「多分昔の人はこんな風に作ったのだろう」。と言う想像の元に制作します。

 道具はなるだけ、昔の儘に新しい素材は使いません。如何にも昔の人が使っていたような道具を考えて作ります。まるで1000年も前からこの道具でやっていたかの如くに古風な道具で演じます。すると、お客様も勝手に古い時代をイメージして、ストーリーに入り込んでくれます。これは大人のおとぎ話なのです。修理した道具は収納ケースに収めて、又次の植瓜術の公演に備えます。

 

 私は明後日から香港に行き、公演をします。ジャパンフェアと言う、日本政府と民間企業との合同の日本文化を紹介する催しです。様々な日本の芸能や、伝統工芸などの職人さんを紹介して、数日間、日本文化を披露すると言う企画です。

 3日間、傘出しや引き出しの手順、柱抜き、蝶のたはむれを持って行って公演します。無論朗磨も連れて行きます。朗磨は初の海外公演になります。私の仕事をしていれば、この先も頻繁に海外公演はあります。今から喜んでいます。

 そのため今日はこれから、演技を稽古します。何十年もやっている演技ですが、全く何もせずにいきなり本番と言うのは上手く行きません。必ず本番と同じように通しでやって見ます。すると、思いもよらないところで道具が破損していたり、必要な小道具が足らなかったりします。

 細かな演技を忘れてしまっていたりもします。香港まで行って慌てないように、しっかりチェックします。と言うわけで今日一日は、外出することはなく、アトリエで稽古をすることになります。

 

 16日に峯ゼミの初回がありますが、残念ながら私は香港と重なりますので、参加できません。峯村さんが、再度四つ玉のレッスンをします。前回見逃していた方があれば、是非参加してください。理詰めで精緻な峯村さんの手順構成はとても参考になります。ご連絡は東京イリュージョンまで。

 

 その翌週は、JCMA 主催による、ジャパンカップ。ことしは、ホテルニューオータニの敷地内にある紀尾井町ガーデンテラスで開催されます。ジャパンカップは毎年高級な会場で催されますが、今回も飛び切り高級感のある会場です。私は20年以上に渡ってずっとプレゼンターとして参加して来ました。今回も引き受けています。どなたにお渡しするのかは秘密です。宜しかったらひと時贅沢な世界をみんなで一緒に楽しみませんか。

 

 30日には、浅草公会堂の第二集会室でエンタメライブがあります。これは高橋司さんが年に数回開催している若手育成のための公演で、今回の出演は、藤山大成、和田奈月、TOMOKO、ザッキー、の4人。和洋入り混じっての公演です。15時と18時の二回公演。入場料は前売り3000円。この4本で3000円は割安です。しかも、場所が浅草公会堂の5階にある和室です。お座敷の雰囲気があってとてもいい場所です。

 私もこの日は出掛けて、ショウを拝見しようと思います。50人も入ればいっぱいになってしまう場所ですから、参加ご希望の方はお早めにお申し込みください。090-2217-1102高橋司さんまで。

 

 私の主宰する屋形船の企画は、4月12日(金)もう27人集まっています。30人までは対応できますが、30人を超えた場合は、大きな船に変えなければなりません。お仲間と申し込まれる場合はお早めにお申し込みください。4月12日、昼12時出航。3時解散。

お食事と私の手妻が付きます。東京湾から隅田川にかけての舟遊びです、季節も暑くなく寒くなく、最高にいいコンディションだと思います。参加費は17000円。お一人でも歓迎。11時30分に品川のふ頭にお越しください。詳細は御案内状を送りします。

03-5378-2882 東京イリュージョン

 

 何のかのと毎週毎週催しが続きます。その間に私自身のショウがあり、又指導があって、あっという間に一か月は終わってしまいます。5月からは秋葉原の指導が始まります。6月は福井に出かけ、三国の博物館でショウをします。そんな風にスケジュールをこなしているとあっという間に秋の天一祭、大阪のマジックセッションがやって来ます。一年なんてあっという間です。

 何とか、仕事の隙間に、創作の時間を作って、新しい手順を作らなければなりません。せっかく創作意欲が湧いている時ですので、年末までには形あるものにしたいと考えています。

続く

まる子ちゃんさようなら

まる子ちゃんさようなら

 

 先週鳥山明さんが亡くなったと思っていたら、3月4日にTARAKOさんが、亡くなっていたことを、9日のヤングマジシャンズセッションの楽屋で聞き、一気に寂しくなりました。

 ちびまる子ちゃんのテレビ放送が始まったのは、平成元年です。以来ちびまる子ちゃんの声は、ずっとTARAKOさんが続けてきました。視聴者にとっては、まる子ちゃんイコールTARAKOさんだったのです。

 そのまる子ちゃんの作者も、2018年に、53歳と言う若さで亡くなりました。そして今度は声優が亡くなったのです。63歳だそうです。自分自身が70歳近くになってしまうと、63歳は随分若く思えます。

 それでもこのところは車いすを使って移動をしながら、仕事をこなしていたそうです。死因ははっきりとはしませんが、ネットには、くも膜下出血とか、心筋症とか、書かれています。

 さくらももこさんと言い、TARAKOさんと言い、あっという間の人生を走り抜けて、いなくなってしまいます。ちびまるこちゃんは平成になってから生まれたアニメです。平成と言う時代の一端がいきなりなくなってしまうのは驚きであり、結局形あるものはいつかなくなってしまうんだと言うことを思い知らされます。

 

 ちびまる子ちゃんの世界は、昭和40年代の静岡県のごく普通の家庭を描いています。それはさくらももこさんの体験が基になっているのでしょう。昭和の時代なら日本中どこにでもあったようなありきたりの生活だったのです。

 それが平成になって、急に昭和を懐かしむ人が増え始めます。ありきたりの生活が実はありきたりではなく、願っても戻ってこない貴重な時代だったことに気付き始めたのです。それは古くはサザエさんのドラマがそうであり、おばけのQ太郎の世界でそれあり、ドラえもんの世界になって、ちびまる子ちゃんへと続いたのでしょう。

 これらの作品は、昭和のある時代を描き出してはいますが、それは決して昭和そのものではなく、今を通して眺めた昭和であり、多分に作者の憧れを絵にした世界だったと思います。それが証拠の、登場人物は、ある時代に固定されてはいますが、少しずつマイナーチェンジされて、微妙に現代を語るようになり、作者も登場人物も、一つの役を長く続けることで、少しずつ年齢を重ねて行きます。

 まる子ちゃんも、子供でありながら、決して小学生が言わないような言葉を使い、発想もかなり大人の発想をします。長い経緯を知らない人が見たなら、「それはおかしいだろう」。と突っ込みを入れたくなるようなストーリーの展開もあるのです。

 然し、視聴者も同様に年を取り、互いが、同じ世界を共有しつつ、年齢が過ぎて行くために違和感を感じないのです。お爺さんは自分にとってはいつまでもお爺さんであり、周りの家族は、永遠にお爺さんを超えて年は取らないのです。

 然し、30年もたつと、子供のまる子ちゃんも、お爺さんと同じくらいの年齢に達してしまいます。この時、初めて初回のお爺さんが実はお爺さんではなかったことを知って愕然とします。

 

 私は子供の頃、よくお婆さんと昼寝をしました。その時無意識にお婆さんのおっぱいを握って昼寝をしていました。お婆さんは、「この子ったら、あたしのしなびたおっぱいを握って昼寝をするのよ」。と周りに話し、喜んでいました。

 この時のお婆さんの年がいくつだったのだろう、と、後で考えてみると、まだ60にもなっていなかったのです。お婆さんの年を既に超えた自分が、その時のことを思うと、お婆さんは実はお婆さんではなかったことを知ります。

 お爺さんもお婆さんもまだ現役の人で、この先ひと花もふた花も咲かせようと言う人たちではあったのですが、それを隅の方の、年寄り席に追いやってしまったのは、子供たちであり、孫たちなのです。

 昭和の時代の年寄りは、自動車の運転も出来ませんでした。車に乗せると、目の前に並ぶ各種のメーターを見ただけで、恐れをなしていました。自動車がどうして動くのか見当もつかなかったのです。

 自動車ならまだしも、カセットデッキ(テープレコーダー)の操作もよくわからなかったし、ましてや、ビデオでテレビを録画するなどと言うことは何度聞いても出来ませんでした。無論、パソコンが出来た時も、全く仕組みが分からずにただ眺めているだけでした。

 そうした電気製品に囲まれて生きると言うことは、ただただ恐ろしく、自分の理解を超えた世界だったのです。そんな年寄りにとって、自分にもわかる世界は、サザエさんであり、ドラえもんであり、ちびまる子ちゃんだったのでしょう。

 孫と一緒になって見て、分かる世界。それがまる子ちゃんだったのです。実際昭和の時代が細かに描かれています。但し、私が今になってまる子ちゃんを見ると、まる子ちゃんよりも友蔵さんに興味がわきます。あの人は一体幾つだったんだろう。と考えると、せいぜい60になったくらいではないかと思います。

 「60にしては髪の毛はほとんどないし、老けているなぁ」、と勝手に友蔵さんを値踏みして、「60歳であんな隠居のような言葉遣いをして、納まっているのはおかしくないか」。と思います。「自分はあのような年寄とは違う。そもそも年寄ではない」と、自分が年寄りであることを否定しようとします。しかしそう思っているのは自分だけで世間はそう見ていないのかも知れません。

 私の家の前にある「山とき」と言うラーメン屋さんでアルバイトをしているかわいい女の子がいたので、路地に座って休憩している女の子に、缶ジュースを上げたら、とても喜んでくれました。そして、女の子はラーメン屋のオーナーに、「裏のお爺さんから缶ジュースをもらいました」。と報告をしたそうです。

 ショックです。女の子にすれば私は缶ジュースをくれる親切なお爺さんなのです。いわば私は友蔵です。徐々に私も世間の片隅に押し込められています。

続く

第8回ヤングマジシャンズセッション

第8回ヤングマジシャンズセッション

 

 一昨日(3月9日)、座高円寺にて、ヤングマジシャンズセッションが催されました。陽気は良くなりましたが、まだ風の冷たい季節です。幸いお客様はよく集まりました。総勢8組による熱演の舞台で大いに盛り上がりました。以下はその感想。

 

 一本目、川上一樹。身長180㎝以上、少女漫画に出てくる主人公のようなマスク、タキシードを着て出て来ただけで客席が湧きました。赤いバラを持つと、花がシルクに変わり、そこからまたバラの花が出てくる、シルクを結ぶといつの間にかほどけ、更には結んだ結び目が空中でスローモーションでほどけます。独特の世界を見せて行きます。この世界をもっともっと突っ込んで行ったなら、シルクのオーソリティになって行くでしょう。

 

 司会はザッキー、陽気で元気のいい司会でお客様の心を掴んでいます。

 

二本目は、うえし。川上一樹同様に長身でイケメン。道路工事のバイトに扮して、突然覚醒してロックスターに変身。ストーリーが明快なため、観客の反応もよく、受けていました。もっともっとたくさんのマジックを入れ込んでもいいのではないかと思います。秋の中国でのFISMアジア大会まではまだ日があります。その時までにもっとマイナーチェンジを繰り返してして行けば、本選出場の可能性も高まると思います。

 

 三本目は藤山大成。一転して和の世界。煙管を持って構えた姿は浮世絵そのもの。センス、羽根、煙管、そして煙、素材を生かして様々な変化を見せます。初手に小さなミスをして、それがずっと尾を引きました。こんなことは普通に起こることです。気にせずに自身の世界を作り上げることです。

 私はかつて、フレッドカプスが冒頭に使った蝋燭が火が消し切れていなくて、テーブルの捨て箱の中でボヤを起こしたのを見ましたし、リチャードロスが冒頭でファンカードを床にぶちまけて、慌てて拾い集めた演技も見ました。然し、彼らはその後の演技に何ら影響を起こさせませんでした。強くなることです。

 

 4本目は私、藤山新太郎。袖卵と植瓜術(しょっかじつ)。袖卵はめったに演じることはありません。しかし、この手妻は様式が美しく、江戸の味わいを見せるいい手妻です。演技自体は終わりが寂しいので、卵の黄身を受けるためのグラスを取り出しています。これによって演技にまとまりが出来たように思います。

 この日は、アキットさんのお客様が大勢来ているためか、袖卵も、その後の植瓜術も、信じられないような好反応でした。自分の演技が受けたなどと言う話は余りに素人臭く、嫌みに聞こえるでしょうが、植瓜術でこれほど受けたのは人生でこの日が一番でした。

 植瓜術はマジックの歴史の中でも5本の指に入るほど古いマジックです。日本でも1300年以上の歴史があります。瓜の種を蒔くと芽が伸びて、弦が伸びて、瓜が生る、と言う単純明快なストーリーです。単純なだけに話を引っ張るための喋りが難しく、15分もかかる手順が、アマチュアでは喋り切れないのです。弟子の朗磨を使って掛け合いで演じる姿は1000年前の芸そのものです。朗磨はこの芸を気に入っているようです。9日の舞台で朗磨のファンが出来たようです。

 

 ここで10分の休憩。

 

 後半一本目は、ザッキーのチャイニーズウオンド。独自のアイディアを加えて、個性的な演技を作っています。喋りの得意なザッキーに向いた演技です。

 

 二本目は橋本昌也。いつものトランクのアクトではなく、ロープとスリーカードモンテ。ロープは、大小のロープが長さが変わる手順と、結び目の移動、それに胴体を貫通するロープを巧くつなげて演じています。テンポが心地よいため、お客様は面白がって見ています。スリーカードモンテは、ジャンボーカードを使ってのお馴染みの物ですが、小さな工夫がされていて、見ていて不思議です。彼の通常のステージアクトが見られたのは幸いでした。

 

 三本目は、才頭大芽(さいとうたいが)。この人は演じる種目によって演技のスタイルを大きく変えます。行灯と傘のバージョンは今回休み、ディライトの光のマジックを前半に演じ、後半はリンキングリング。光も独自の工夫があって不思議。後半のリングは、当人の動きが個性的で、動きで押しまくって見せるようなアクトでした。いずれにせよ、この人がそんなマジックをするとは思わず、別の一面が見られたのが収穫でした。

 

 その後、ザッキーのライジングカード。ザッキーは大活躍です。

 

 4本目は魔法使いアキット。昨年アキットは、自らトランスジェンダー性同一性障害)であることを公表し、今回初めて女性の服装でステージに立ちました。長い間自らの性に随分悩んできたようで、心と体が一致しないことで、友達も出来ず、ずっと一人で閉じこもっていた時代があったそうです。

 その心を開くきっかけになったのがストリートパフォーマンスで、人の喜ぶ顔を見ているうちに自分の人生の目的が見えて来たそうです。今回も、ストーリ性のあるアクトから、クロースアップ、そして砂絵まで、たっぷりの内容でお客様を楽しませました。ドレス姿もよく似合っていました。

 演技終了後にはカーテンコール迄あり、さらにロビーにお客様が集まり、なかなか帰ろうとしないため、ロビーが大いに盛り上がりました。

 

 さて、終演後は、アキットさんと一緒に、窯鉄のピザ屋さんに行きました。どうもアキットさんは私と話をしたいらしく、アルコールを飲みながら、随分いろいろな話をしました。女性の化粧の儘外に出ることも珍しいらしく、周囲にばれないかどうかを気にしていましたが、化粧が巧いのか、なり切ってしまっているのか、全然問題なかったように思いました。この時話したことは、公表できないこともあり、又何年か経ってからお話しします。

 

 さて、8回目のセッションは終わりました。いいお客様に助けられて会は盛り上がりました。ここから一人でも外の世界に影響力を持つマジシャンが出て来たなら、セッションも大きく発展して行くでしょう。ここから先は私の力と言うよりも、マジシャンがそれぞれ大きくならなければどうにもなりません。そうなる日を心待ちにしています。

 続く