手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

小野坂東氏の業績研究とはなにか

 「小野坂東氏の業績研究」なる冊子が出ることになり、私も寄稿しました。企画はマジックフォーラム通称MN7、中村安夫さんが主宰となって活動しています。12月15日、13時から両国江戸博物館内の会議室で刊行記念講演をするそうです。私も行ってみようと思います。

  唐突ですが、私には先生が5人います。一人は松旭斎清子、この人は師匠です。渚晴彦。20代の時には師について仕事を手伝い、カードや鳩出しを習いました。高木重朗。最もお世話になった先生です。どれほど多くのことを習ったか知れません。アダチ龍光。私の親父の友人であり、子供のころから楽屋でお世話になりました。舞台の喋りは絶品でした。ダーク大和。訪ねて行くと常に親身になって考えてくれました。

 この5人の先生は私のマジックの骨格となって行った先生です。そうした先生とは別に、とても多くの影響を受け、今も会えば一時間でも二時間でも一緒に話をする人が小野坂東(とん)さんです。私が20歳くらいから今日まで、ほぼ45年間お付き合いさせていただきました。言ってみれば、私の人生は氏のアドバイスを実行することで今日まで来たのです。

 

 リサイタルの必要性を熱く語ってくれたのも氏です。結果として今も年に数回自主公演をしています。

 海外に出て多くのマジックを見たほうがいい。と教えてくれたのも氏です。実際ずいぶん海外のマジシャンから刺激を受けました。そして多くの仲間を作ることができました。海外のコンベンションに出かけると頻繁に氏とお会いしました、ホテルでも、レストランでも、ずいぶん話を伺いました。

 手妻(和妻)をもっとまとめて、マジックの一ジャンルとして昇華させた演技を作ったらどうか。と言って、手妻の支援をしてくれたのも氏でした。私自身も20代から手妻の工夫はしていて、少しづつ作品はアレンジしたり、新しいアイディアを加えたりして作り溜めてはいたのですが、当時はイリュージョンの仕事が当たっていたため、本格的には手妻に力を注ぐことができなかったのです。第一当時の手妻は、なかなか仕事に結びつきにくく、まだまだ実験の段階だったのです。それを、海外に持ってゆけるような手順づくりを勧めてくれたのは東さんです。いろいろ困難がありましたが、結果としてこれができたおかげでコンベンションなどで手妻ができるようになり、更には、文化庁の芸術祭大賞につながり、そこから新たな人生が開けました。

 私に組織を起こしたらどうかと勧めたのも東さんです。私は私なりに、東さんがコンベンションを開催するたびに大きな赤字を作るのはなぜかと考えていました。それは担保がないからという答えに至りました。赤字が出た時に補填する資金が足らないのです。それゆえ、金が足らなければ東さん個人が埋めなければなりません。奇術界発展のため、社会全他のために活動しているにもかかわらず、結果として個人の負担に頼っていることが間違いです。

 そうなら、組織を起こして、初めから会費を集めて、会費を担保に大会を開催したらいい。と言うのが私の発想です。東さんのやり方では、東さんが情熱を持って運営しても、赤字を目の前にしては次に続くものが現れません。東さんを助け、その情熱を受け継ぐにはどうすればいいか、私なりの解決法が組織です。

 二人で話をするうちに、日本にSAMの地域局を起したらいい。と言う話になり、東さんは早速SAMの本部に連絡を取りました。SAMとはすなわち、アメリカ奇術協会です。現存する世界最古のマジック団体ではありますが、SAMは内部で大きな悩みを抱えていました。悩みとは、見た目がアメリカ国内の団体に見えてしまうことです。ライバルのIBMが、国際奇術協会であるのと全く対照的です。何とかSAMが世界組織であることをアピールしたい。それにはどうしたらいいのか、役員は顔を合わせても、名案が出てこなかったのです。

 SAM本部の苦悩も知らずに、私は日本各地のマジック愛好家に手紙を書き、半年以内に700人の会員を集めました。手紙だけで1000通近くを書きました。今思えばよくそんな行動ができたものだと思います。しかしめでたく組織はできました。

 そして、毎年、日本各地で世界大会を開催することになりました。平成3年のことです。私が36でした。これはいわば、東さんが頻繁に開催していたレクチュアーやコンベンションを私が部分的に肩代わりすることでした。 

 

 平成2年。インディアナポリスで開催されたSAMの大会に日本から私が700人の名簿を持って登場しました。組織としては青天の霹靂です。当時のSAMのメンバーは5000人。その10%強の名簿を持参したわけですから、役員、会員一同が起立して、盛大な拍手で私を迎えたのです。入会した当初から私の人気は絶大なものになりました。無論、東さんと祝杯を挙げたことは言うまでもありません。ここまでは晴れがましい成功の話です。

 しかし、いささかこの企画は成功しすぎました。組織としては規模が大き過ぎて、私の会社ではとても維持できず。名簿の整理や、大会の運営に支障をきたすことがしばしばでした。大会が大きくなったのはいいのですが、予定していた会費の穴埋めではとても足らず。赤字は広がり、なかなかうまく運営ができませんでした。それでもSAMを20年近く続けました。しかしSAMに関わったことは私の人生で大きな失敗でした。面白い楽しいこともたくさんあったのですが、人の面倒を見て、人のために働くと言うことがどれほど大変なことか、その代償がはるかに予想を超えて大きなものでした。その一部始終は語る時期が来たならお話しします。

 

 話を戻して、私が50代になって、いろいろな書籍を出し始めたことも支援してくれました。書籍は、松尾芸能賞などと言う、なかなか奇術師が受賞できない賞をいただくなどして、認めていただきました。こうして何のかんのと東さんが考えてくれたレールに乗って、私は今日まで来ました。面白い楽しい日々でした。

 ただし、将来が心配です。こうしてマジック界を見渡しても、東さんに変わる人がいません。私がその役をしたならいいのでしょうが、私のようなプレーヤーではマジック関係者が集結することが難しいと思います。東さんはある時期から自らマジックをしなくなったことが人生を幸いに導いたのだと思います。

 マジックを演じないこと、これがこの世界でいかに崇高なことか。マジックを演じないから、プロが寄って来るし、世界各地の大会主催者が東さんを頼りにします。資産があってそうしているなら出来ないことではありませんが、全くの奉仕から始めて、やがて人に頼られ、周囲が面倒を見てくれるようになる、と言うのは真に人徳と言うほかはありません。

 願わくばこの先もずっとマジックに協力していただきたいと思いますが、最近の体の衰えを見ると心配です。願わくば体に留意されて、マジック界と優しくお付き合いを続けて行かれることを願っています。

 

アマチュア心、プロ心

 

 

 アマチュアマジシャンが、「自分はアマチュアだからこんなものでいいんです」。と言ってするマジックくらいつまらないものはありません。初めに、自身の限界を決めてしまってマジックをしていては、演技に魅力が生まれません。趣味でマジックをするにしても、やる以上はプロ意識を持って、自身の力を100%出し切った演技をしなければ、やっている当人も本当の面白さは手に入らないのです。マジックに限らず、楽器でも、将棋でも、ゴルフでも、ぎりぎり限界まで挑戦する気持ちで、アマチュア活動をやってみなければ、趣味としてものにはならないのです。

 楽器などは顕著な例です。欲をもって演奏してゆくと、みるみる音色が変わってきます。少し分かって来ると、これが自分が演奏したものかと疑うほど音が変化してきます。音だけでなく、独特のリズム感までわかってきます。そうなると、

 「あぁ、あの名人はこんな気持ちで演奏していたんだなぁ」。と演奏家の気持ちまでわかってきます。これでプロに並んだとはとても言えませんが、「これくらいのレベルで十分」なんて思っていた時よりも、格段の違いで音楽の理解が深まります。それはアマチュアとして、外から眺めていた時には予想もできなかった世界が見えてくるのです。ここが趣味としてマジックをする本来の醍醐味と言えます。

 自分はこんなものでいいんだと思ってマジックをしていては、本当の面白さはいつまで経っても手に入りません。たとえアマチュアであっても、いざ舞台に立ったならプロになった気持ちでマジックをして見せなければマジックの本当の面白さはわからないのです。つまり、アマチュアに必要なのはプロ意識なのです。プロ意識をあえて意識しないでプロ活動ができるようになると、それはプロ心に変化します。

 

 プロはどうでしょう。実はプロが失ってはいけないものはアマチュア意識だと思います。プロがプロ意識を持つと言うことは当然なのですが、その陰でほんの一割でも二割でも、アマチュア意識を残しておくことはとても大切なことだと思います。

 プロの持つアマチュア意識とはどういうことかと言うなら、とかくマジックを職業にすると、時間と内容を切り売りして活動することになります。簡単に言えば、私が蝶を飛ばす演技の価格と、傘の手順やいろいろな手妻を加えた上で蝶を演じるのとでは価格が違います。水芸を加えるとなるともっと価格に開きが出ます。すなわち、金額が私の演じる内容を決めてしまいます。そうすることが、私を売り込んでくれる仕事先にはわかりやすいためにそうしているわけですが、私の気持ちからすれば、およそ芸能で生きると言うことは、時間や、内容を割り切って演技はできません。

 例えば果物屋さんで、小さなリンゴは300円、大きなリンゴは400円と書かれたものを、チョイスして買ことは普通にあることですが、芸能を値段で区切って演じるのは根本が違うように思います。先方と打ち合わせをする中で、「いやこの現場はこっちの内容のほうがいいのになぁ」。と思うことがあります。そこで値段が折り合わず、先方は、やむを得ず小さな手順を求める場合がありますが、契約が決まった後で、私は値段に関係なく目一杯やってしまうことが時々あります。

 これはルールを決めて仕事をする、プロの活動としては間違っていますが、マジックを愛する者の気持ちとすれば、このほうが正しいと思います。状況によって、何を演じたらベストなのかを一番よく知っているのはプロなのです。プロの心の中には常に、一番いい状況でマジックをしたいと言う思いが強いのです。それは金額の問題ではなく、自身のベストの姿を見てもらいたいからなのです。

 そうなると、プロはマジックを収入度外視して考えていることになります。その通りです。実はそれがプロにとって大切な行動だと思います。今日、ギャラと言うものは、ほとんど銀行を通して振り込まれることが多いのです。しかしプロはいちいち通帳を見てマジックをしていません。仕事とギャラは直結していないのです。収入は一年間トータルして、自分と自分の事務所、家族と弟子が生きて行けたならそれでいいのです。

 むしろ自分がやりたいことを目いっぱいできる状況を作ることのほうが大切なのです。これがアマチュア意識なのですが、実は、意識とは言っても無意識でそうしているのですから、本来の意味でいうならアマチュア心なのです。こんな気持ちでマジックをしていないと、自身の満足が手に入りません。自身が納得できる演技をすることが一番の目標であるなら、プロがアマチュア心を捨ててはいけないの言うことは大切なことだと思います。

 

 更に、職業として自身が作り上げた手順を何年も演じ続けていると、時々、もっと本当にしたかったマジックが頭の中をかすめてゆきます。その思いを思いにとどめず、純粋にマジックが好きだったころを思い出して、収入を度外視してでも好奇心からマジックを作ってみようと思う気持が生まれると言うのも、アマチュア心だと思います。

 「自分には、まだもっとやってみたかったことがある」。今は、それが仕事に結びつかなくとも、自身の純粋な気持ちを動かすアイディアであるなら、とにかくやってみる。その気持ちが大切だと思います。実際私事でいうなら、手妻を改良して今日の手順を作ったのは、当初は全く収入を考えてしたことではなかったのです。

 初めは子供の頃に習い覚えた手妻を、今の人に見せるにはどうしたらいいか。と考え、30歳になってから、イリュージョンをしている仕事の合間に、あれこれ工夫を始めたのが始まりです。その頃イリュ-ジョンの仕事がとても忙しかったので、仕事から帰って、深夜になって、2~3時間、あれこれ道具をいじっていたのです。

 一つ一つアイディアを考え、道具見本を作って、やがて、いくつかの作品になって、それが30分くらい演じられる手順になって行ったのです。でも、その時ですら、まだそれらの作品が自分の収入になるとは考えていませんでした。当時はなかなか和服を着てするマジックが一般に認知されなかったのです。多くは自身が主宰するリサイタルで発表して、お客様の反応を恐る恐る見ていました。それが大きく評価され、私の仕事の主流となるのは40歳近くなってからの話です。

 直接収入にならないことをなぜするのか、その答えがアマチュア心だと言えます。

 アマチュア心は、マジックを作ることに限りません。人を育てることも同じです。マジックの世界でどうにかなったなら、今度はマジック界のために、少し時間を割いて、次の世代の人を育ててゆく気持ちが大切だと気づきます。単純に言って、次の世代の人を育てると言うことは、プロの立場から見たならライバルを育てることです。マジックを職業とする立場からすれば、そこに時間をかけることは無意味な行為です。

 しかしあえて人を育てることに時間を使うのはなぜかと言うなら、それは純粋なマジックへの愛情なのです。プロが本来の舞台活動から離れてマジック活動をすると言うことはとても大切なことです。それこそが、広い目で見て、マジック界の何らかの財産を残すことにつながるのだと思います。

 

 さて、こうしてブログを書くと言う行為も言ってみればアマチュア心なのでしょう。私にとって、この活動が何のメリットなのかと問われても、今のところ答えは出ません。しかし、何かはわかりませんが私の心を動かす行為ではあります。まず、見返りを求めず、しばらくは判然としない心の内を感じるままにブログを続けてゆこうと考えています。あまり期待せずにお付き合いください。

舞台人のための秘伝書を開設

 前にお話ししました、少し複雑な芸能のことを書いた文章をnoteに載せることにしました。タイトルは「舞台人のための秘伝書」。まるで能の花伝書のようで、随分勿体ぶっています。これほど大上段に名前を付けて、くだらない話ばかりだったら飛騨牛どころの話でなく、えらく炎上するでしょう。

 今回は松本白鸚さんについて書いてみました。白鸚師は、元松本幸四郎と言って、歌舞伎やミュージカルで今も活躍していらっしゃいます。私はこの方にどれほどお世話になっか知れません。度々マジックのご指導をする傍ら、お仕事をする姿を見つつ、いろいろと学ぶことも多々ありました。その中で心に残っていることを二回に分けてお話ししようと言うわけです。師はマジックが大好きで、時折芝居の中で演じることもあります。面白いエピソードもありますのでご興味ありましたらご覧ください。

 

https://note.mu/hiden_shintaro/n/ndb5de5fa828f

 

 このブログでは、この先、北野武さんとの交遊も書きたいと思いますし、島田晴夫師のことも書きたいと思います。柳川一蝶斎も、松旭斎天勝も、天海師も、高木重朗先生も、小野坂東さんも、書きたい人は山ほどいます。

 今、下降傾向にあるコンベンションについてもぜひ書いておかなければいけません。マジッククラブについて、韓国のマジック事情について、マジック指導について、マジックの指導者は何を知っていなければいけないか。マスコミとの付き合い方について。仕事のとり方について。芸人、芸能人としての生き方について。書きたいことはたくさんあります。幸い私は、このところパソコンに向かうのが楽しみですので、しばらくは頭に記憶していることを順に書いてゆこうと考えています。

 

 昨晩は、松本白鸚さんの記事を仕上げ、同時に中村安夫さんから頼まれていた、「小野坂東さんの記事」(これは一週間前から少しづつ書いていました)。それをまとめて、深夜に就寝しました。大阪や、福井から帰る新幹線の中でもこの二つの記事は交互に書いていました。自分自身の頭の中は、かつてのことを思い出し、列車の中は一面、昭和60年代、平成の時代の世界がパノラマのように広がり、細部に至るまで浮かんできます。シカゴやニューオリンズポルトガルリスボンで東さんとビールを飲みながら、話をしていた時は時間を忘れて楽しいひと時でした。

 なおかつそこにマックスメイヴンさんや、サルバノさんなどが来て、表の話、裏の話が飛び交うと、「ああ自分はなんて贅沢な時間に浸っているんだ」。と喜びひとしおでした。そんなことを思い出しながら、パソコンを動かしている時がとても楽しいのです。疲れたときはそのまま寝てしまいます。目が覚めたらまたドイツやフランスの大会を思い出して記事を書きます。そうしているうちに福井につきます。時間はあっという間に過ぎて行きます。書き足りないときには、そのまま降りずに金沢まで行ってしまいたいほどです。

 

 もともと私は何か書くことが好きでした。しかしそうそうまとまったものを書くことはありませんでした。私は、書く以外にも、陶芸をひねる。絵を描く、長唄を唄う、日本舞踊を踊る、鼓を打つ。芸事何でも好きでした。そうではあっても自慢できるものは何もありません。長唄などはプロさんに褒められて、もう少し稽古をすると金が取れるよと言われました。自分では声質のいいほうだと己惚れています。それに気を良くして長唄の発表会などに家族や、娘、マジックの後輩などを招待するのですが、女房は結婚する前は熱心に来ましたが、結婚後は全く来ません。

 長唄の発表会の当日になると決まって用事を作って聞きに来ないのです。娘も自活するようになるともう来ません。マジックを習いに来る学生などは、声をかければ来ます。以前にウナギ弁当を10人前用意して、学生に渡すとすぐに食べてしまって、後は一人消え、二人消え、私の出番の時には一年生の後輩一人しか残っていませんでした。

 それでも私はその一年生を褒めて、1000円の小遣いをやり、「どうだった、どこが面白かった」。と聞きますと。「ええ、微妙です」。と言われました。彼らはウナギが食べられると言うことがどんなことなのか、気づいていないのです。ウナギが何の理由もなく誰でも食べられる発表会と言うものはないのです。

 

 執筆を真剣にするようになったのは50の時からです。糖尿病が見つかり、しかも血糖値が260くらいあったのです。医者から危ないと言われ、それまで毎晩欠かすことになかった酒をやめました。お陰で血糖値はてきめんに下がりました。酒をやめたのはいいのですが、そうなると夜にすることがありません。そこで前々から書きたかったことを本にまとめ始めました。

 雑誌マジックの連載で載せていた「そもそもプロと言うものは」(東京堂出版)を一冊の本にまとめました。それから長らく書きたかった、手妻の歴史をまとめて「手妻のはなし」(新潮選書)として出しました。初代引田天功さんや、アダチ龍光師匠の話をまとめた、「種も仕掛けもございません」(角川選書)。松旭斎天一の一生をまとめた、「天一一代」(NTT出版)。種の解説も「ロープマジック入門」(東京堂出版)として出しました。50代の頃はずいぶん精力的に書きました。

 60代になってからはほとんど書いていませんが、昨年夏に「たけちゃん金返せ」(論創社)と題して、40年前に北野武さんに貸した5万3千円のお金の話を書きました。楽しい思い出です。今もう一件、どうしても書かなければいけない本があるのですが、これが止まっています。いろいろな理由で書けません。それでもようやく時間が空きそうですので、今月から既に半分書いてある原稿を進めてみようかと考えています。

うまくできましたらまたお知らせします。今日はこの辺で。

天一祭終了

 昨日夕刻に天一祭が終了し、深夜11時に東京に戻りました。さすがに4日間東京を留守にすると少し疲れが溜まり ました。今日はゆっくり休みたいところですが、文化庁の書類が残っていて、今日が締め切り日ですから何とか仕上げなければいけません。

 

 昨日の天一祭は120人の参加でにぎわいました。出演者は、私と、前田将太、ジュンマキさん、土井崇雄さんの4人と、福井のプロマジシャンのサイキックKさん、岡田透さん、masayoさん、ゲストのDrレオンさんと、多彩なメンバーです。今回の天一賞受賞者はレオンさんです。芸歴と言い、知名度と言い、妥当な受賞です。

 レオンさんと初めて会ったのは彼がまだ大学生の頃です。今から34年前のことでした。レオン(当時は坂井弘幸)さんは、無論アマチュアマジシャンでした。当時私は、渋谷にマジックキャッスルと言うパブを立ち上げたいと言うオーナーからの依頼で、ステージマジシャン2人と、クロースアップマジシャン2人、計4人のマジシャンを探していました。マジシャンの人選だけでなく、店のデザインからシステムまで私に依頼が来たのです。

 この時クロースアップに推薦したのが、Drレオン(坂井)さん、と前田知洋さんでした。彼らは学生ですし、いまだクロースアップはお金にならない時代でしたが、その時に日給8千円で雇ったのですから、彼らは喜びました。

 店は東急本店の向かいにありました。しかしビルの二階にあったため、通行人にはわかりにくい店でした。そこで、前田さんが夕方になると、ダンシングステッキを持って道端に立ち、ステッキを振りながら道行く人にチラシを配りました。これはかなり効果があって、徐々にお客様が増えて行きました。

 店は一年続きましたが、後半はお客さんが減少し、結果、閉店しました。しかしこの一年は彼らにとってはいい修行になりました。みるみる腕を上げて、その後各地でクロースアップを見せるようになってゆきます。そして二人とも大学を卒業するとプロのクロースアップマジシャンになってゆきました。ここからクロースアップが収入を得る芸能になって行ったのですから、渋谷のマジックキャッスルはエポックメーキングな場所だったわけです。私にとっても良き思い出です。

 

 masayoさんは、今年IBMのコンベンションでグランプリを受賞しています。地元の新聞社がどこも大見出しで、カラー写真入りで書いてくれました。お陰で福井県ではちょっとした有名人です。その演技を、私は、FISM国内コンテストなどで何度か見ています。今回、客席でしみじみ見たら、スピードアップされていて、不思議な個所も増えていて、格段に内容がよくなっていました。ずいぶん練習の跡が見えます。世間の評価も高まっていますし、当人の顔つきにも張りが出てきました。いい流れです。これからきっと舞台活動も上向いてくるでしょう。

 

 さて、天一祭もせっかく上向きになってきましたが、福井市は今回、毎年いただいている10万円の補助金をあっさりカットしてしまいました。なんということでしょう。

 10万円の補助金が、今年はもろもろの都合で7万円になったとか、6万円になったと言うなら致し方ないとも思います。それがゼロと言うのはどういうことでしょうか。もし市の職員が、「今年は市の予算が足らないから」、と言って、給料がゼロになったなら、職員は仕方ないと言ってあきらめるでしょうか。到底あきらめきれる話にはならないでしょう。

 そうなら、市の職員の給料をゼロにしないで、毎年開催している天一祭の補助金をゼロにすると言うのはどういう理由でそうするのでしょうか。私は、来年早々福井市に出かけて、補助金を再開してもらい、、今まで以上の補助金がいただけるように交渉しようと考えています。これまで、天一を福井の観光の目玉としたいと言う福井県や市の要望に応えるべく、書籍や、テレビなどで福井県福井市を宣伝してきた者としては、福井市天一祭の補助金10万円をそっくりカットしたと言うことは、納得がゆきません。このため、私が福井に行くことはやぶさかではありません。私にできることなら何とか協力したいと思います。

 できることなら、天一祭は、今以上に大きくして、マジックショウとコンテストの二本立てにしたいと考えています。プロマジシャンの出演の場だけでなく、なるべく若い人たちに出演チャンスを作ってあげたいのです。そうでないとステージマジックはどんどん世界が小さくなってしまいます。私がまだ元気に活動できるうちに天一祭の形を作り上げておきたいと思います。このブログをお読みの読者諸氏も、どうぞご協力をお願いします。

 

 さて11月29日は東京、座高円寺でビッグセッションです。これも全く私の私費で開催している催しで、国も、杉並区からの支援も受けてはいません。来年には文化庁の芸術文化支援事業の協力を得たいと、今まさにその申し込みの書類を書いています。今日一日はそのための書類作成で身動きできません。でも今私がやらなければ、誰もこうした活動はしないでしょう。それなら私の仕事です。そのセッションの出演者は、

 

 片山幸宏さんは前回FISMの第3位の実力を備えています。つい最近の香港のマジックコンベンションでも、優勝したと聞いています。やっていることはどれも不思議です。これをやり込んで、雰囲気をより濃厚にしてゆけば、芸術的な演技に仕上がって行くでしょう。何とか、今以上の独自の世界が作り出せるように、周囲も支援したいと思います。

 原大樹(ひろき)さんは、10代でラスベガスのコンテストで優勝し、デビッドカッパーフィールドに可愛がられて、アメリカで知名度を上げました。スピード感のある演技で、多くの海外のクライアントと大きなイベントを手掛けています。もっともっと日本国内のマジック愛好家は彼に注目し、支援してあげなければいけません。日本と言う幅を超えた、けた違いに大きく、有能なマジシャンです。ぜひ生の原大樹さんの演技を見てください。

 アキットさんはこれまでストリートパフォーマンスで地道な活動を続けてきました。しかしその実、彼は多くのマジックを研究していて、そのレパートリーの広さ、演技の個性など、同年代のマジシャンのレベルをはるかに超えています。コンベンションなどに出演してこなかったために、マジック愛好家ら話題になることは少なかったのですが、このところ急激に人気が沸騰しています。多くの愛好家には初物のマジシャンを見ることになるかと思いますが、今のアキットさんを見ることは貴重な体験と言えます。ぜひご期待ください。

 さらに、私と、ナポレオンズマギー司郎、三組のショウをご覧いただきます。三組は45年来の仲間です。今回、ショウのオープニングに、それぞれが45年前に演じていた懐かしい演技を再現します。そして対談。二部になってそれぞれの今やっている演技を披露します。あまり変わり映えしないと思われるかもしれません。いやいや、大きく進化しています。芸は年月が経つと、ウイスキーやブランデーのごとく、濃厚で、芳醇な香りが立ってきます。これは5年10年の芸歴のマジシャンで出せる味わいでは有りません。どうぞ、昭和の三組、令和の三組をそれぞれお楽しみください。

 

継続は力

 今日は天一祭です。今から9年前、私が「天一一代」の書籍を刊行するために、資料集めに福井を訪れて以来、多くの方々と縁ができて、毎年福井を尋ねることになり。その流れで、福井県立こども歴史文化資料館の笠松館長を知り合います。この資料館は子供を対象にして、福井の歴史文化を伝えるために10年前に作られたもので、子供を対象にすると言う意味で、通常の博物館とは展示の仕方が大きく違っています。子供に体験させたり、文章で教えるだけではなくて、紙芝居で語ったり、芸能を実演して見せたり、遊ばせたり、遊びつつも自然に知識がつくように工夫をしています。このあたりが笠松館長の苦心のしどころです。

 そのため、マジックショウの実演などは子供の興味を集めるにはもってこいの企画で、毎年、天一まつりが開催されると、それに合わせて資料館も企画を立てて天一関連の資料を展示して、一日、私が資料館のマジックショウに出演しています。別の週には地元有志のマジックショウや、マジック教室も行っています。

 実際に、この資料館には天一の書やポスター、写真などが数多く残っていて、県立博物館と並んで、天一関係の資料が最も充実した博物館です。

 

 さて、そこで昨日は二時からマジックショウが催されました。資料館のホールは100人を超える親子連れで満員です。出演者は私の弟子の前田将太、大阪教室のジュンマキさん、土井崇雄さん、そして私の4名が手妻を演じました。間に地元のロイヤル山口さんが飛び入りで披露されました。かつては藤山大樹も弟子の頃は、毎年ここで、私の手伝いの合間に覚えて間もないマジックを披露していました。いづれにしても、マジックの実演を見るチャンスの少ない福井の子供たちには人気で、みんな楽しみに集まってきます。これを見ていた子供たちの中から次の時代のマジシャンが生まれるかもしれません。そう思うと決していい加減な舞台は出来ません。一回一回が人の心に残るような真剣な演技をしなければならないと思います。

 

 夜は料理屋に行って福井の魚を食べました。まずはせいご蟹です。せいごと言うのはズワイ蟹のメスの蟹のことで、オスとは違てとても小さな体ですが、抜群の味わいで、地元では大人気です。蟹味噌、身、卵、足、と、四種類の違った味が楽しめて、蟹好きにはたまりません。蟹味噌の海藻の香りを知ってしまうと病みつきになります。

 次に坪鯛の醤油麹焼き。鯛の身を濃い目の醤油たれで味付けして焼いたもので、この時期の脂の乗った坪鯛は別格の巧さでした。

 ブリの刺身、まずブリの大トロを食しました。見るからに脂が乗っています、しかし、マグロの大トロよりも脂がくどくなく、味が深く、高級感が漂います。そのあとブリの通常の刺身をいただきましたが、弾力のある身に、やさしい脂の乗り具合が酒好きにはたまらない魚です。

 そしてのどぐろの塩焼き。この10年で東京の人にこの味を知られたために、のどぐろの価値は上がりっぱなしで、今では高級魚です。高いと知りつつもこれを食べないと福井で魚を食べた実感がわきません。味は鯛の身よりも脂が乗っていて、金目鯛に似ています。身は箸で触るとほろほろほぐれます。白身ではありますが、たっぷり脂が乗っています。皮についた塩をひとかけ身に乗せて、一緒に口に運ぶと塩味と脂のうまみが合わさって極上の味わいです。あぁ、晩秋の福井はいい。

 ブリの兜焼きは、たっぷり身がついていて、みんなでむしゃぶりつきました。

 仕上げはおろしそば。福井では最もポピュラーなそば料理です。皿につゆも、蕎麦も、大根おろしも一緒に盛って、それをかき混ぜて食べます。わさびを使わず、大根の辛味で食べますが、これは消化にもよく、またさっぱりしているため蕎麦好きは何杯でも食べたくなります。

 こうして一通り福井の名物を食べると、福井に来たことを体で実感し、満足感に浸れます。何のかんのと言っても、食べたいものを食べて、好きなマジックをして生きて行けるのですから幸せ者と思わなければいけません。

 

 今日は朝は少しゆっくりして、午前中に天一祭の開催される繊維会館に入ります。出演者は、ドクターレオンさん、地元のマジシャンで、今年IBM大会のグランプリを取ったまさよさん、そらさん、サイキックKさん、そして昨日のメンバー4人です。チケットは完売ですが、席を増やしたため多少の追加はできるようです。初めは50人くらいの観客を対象に公演していたのですが、ようやくお客様が定着してきました。何事も継続は力です。午後から開始しますので、興味ありましたらお越しください。

 

 

 

時代の感覚

 昨日は大阪で若手指導でした。大阪の教室はプロ活動をしているマジシャンが5人います。一般のアマチュアさんもいらっしゃいます。いづれも、手妻とマジックの指導をしています。指導はもう10年にもなります。

 今朝は大阪から福井に出かけます。天一祭は8年続いている催しです。この会のゲストに大阪教室の若手プロさんに出演してもらいます。土井崇雄さんと、ジュンマキさんです。今日の出演のために昨日は手順の稽古をしたわけです。

 朝早くにサンダーバードに乗って、福井まで、毎年続けている活動です。北陸ではマジックを見る機会が少ないので、何とかプロのショウを見る機会を作りたいと続けています。そして、そこに必ず何組か若手のマジシャンを連れて行っています。

 今、ステージマジックを目指す若手は出演場所が少なくて苦労しています。決してステージの需要が少ないわけではありません。様々なイベントではマジックショウを見せる機会は多いのですが、そこに出演するマジシャンは、バブル時期に活躍したマジシャンが、今もそのまま名前を維持して出演しています。買う側は安定した実力を持つマジシャンばかりを使うわけです。しかしその反面、次の世代が勉強しつつ出演する場が少ないのです。そのためステージマジシャンは減少しつつあります。

 何とか現状を打破するには、私らが出演場所を作ってゆかなければなりません。そのため、ささやかではありますが、私の関係するステージショウには若手のマジシャンを必ず加えるようにしています。費用面で難しい部分もありますが、私が贅沢することを少し我慢すれば、何とか費用は捻出できます。

 

 松旭斎天一と言う人は1853(嘉永6)年、福井市に生まれています。亡くなったのが1912(明治45)年です。私は子供のころからその名前は知っていました。私の生まれは1954(昭和29)年です。物心ついてマジックを初めたころと言うのは昭和40年代(1965年~)です。実際年代を逆算してみると53年前までは天一が存在していたことになります。

 しかし私の実感からすると天一は歴史のかなたの人でした。西暦で考えると53年前ではありますが、明治、大正、昭和と数えてみると、遠い過去の人に思えたのです。

 それでも、昭和40年、50年代までは天一を見たと言う人は何人か存在していました。ダイバーノンしかり、天洋師しかり、マジック研究家の松田昇太郎さんしかりです(海外留学をした設計師、浅草松屋や渋谷東横百貨店を設計した人。デパートの中を電車が走ると言う発想は、昭和初年の時代では、今日、宇宙ステーションを作るような発想だったそうです)。松田昇太郎さんは私に、子供の頃に天一を見たと話してくれました。当然、昇太郎さんにすれば、天一は過去の人ではなく、実際に見たマジシャンだったわけで、どこの劇場で見たのかは知りませんが、まるで昨日見たように天一の声から、しぐさまで真似して、私に話してくれました。

 この時の昇太郎さんの思いと言うものがどんなものだったかを、今の私の立場で考えてみると、私が小学6年生の時(53年前です)に、天洋先生を見た時、志ん生師匠を見た時、柳亭痴楽師匠に会った時の感覚が、昇太郎さんと天一のそれに近いのかと得心します。そう考えると、私にすればそれはそう遠い過去ではありません。

 

 現代の日本のマジック愛好家はなかなか日本の過去のマジシャンを評価しようとはしませんが、歴史に残るマジシャンの多くが欧米人である中で、天一とその弟子の天勝はダンテやハリーケラーなどの大物マジシャンと並んで、今も歴史の一コマとして語られています。ほとんど欧米人以外の人種で名前を残しているのはこの二人だけなのです。

 それと言うのも、アジアの諸国は軒並み植民地化されていて、豊かな日常生活を享受するにはかなり困難だったのに対して、日本のみは、明治の半ばで既に、欧米の中進国くらいの生活水準を維持していたのです。どこの都市にも大きな芝居小屋が何軒もあり、連日芝居やマジックを演じていました。 天一一座は各都市を3日から5日演じては鉄道で移動して、半年一年と日本中を興行して回っていました。

 福井にも、昇平座、加賀屋座、という千人近く入る劇場がありました。そこを天一は福井に来ると10日間出演しました。福井と言う都市のサイズ(明治の福井市は恐らく2万人くらい)からすると10日間は不可能に思ええますが、生まれ故郷と言うことで、福井市民の支援も厚く、来れば必ず連日満員になったそうです。

 

 師の名前を一躍大きくしたのは足掛け4年にわたる(1901~1905年)欧米興行を成功させたことです。別段海外からオファーがあって出かけたわけではありません。いきなり行って、サンフランシスコでオーディションを受けて、仕事を見つけて行ったのです。それでもたちまち知名度を上げ、世界5大マジシャンと持ち上げられて、Aランクの劇場に出演して、しこたま外貨を稼いで帰国したのです。氏の名前を有名にしたのは、水芸と、サムタイ(和名は柱抜き)です。この二つのマジックで師の名前は今も不動です。

 

 さて、今日明日は天一祭で、私はその天一ゆかりのサムタイを演じます。天一祭ですから当然演じなければなりません。私の人生の中でもこの作品はとても重要なものです。既に5千回くらい演じているかもしれません。それでも。天一祭に来るたびに心の中で初心に帰って演じています。こうした日が年に一度くらいあってもいいのでしょう。それでは福井に行きます。

 

 

食はセンス

 昨晩は友達の辻井さんのご招待で、岐阜で最も人気のある、徳専と言う料理屋で会席をいただきました。町の中心街にある高級なたたずまいの店ですが、以前、数年前にも連れて来ていただきました。無論味も覚えています。

 食材は相当に選び抜かれていますが、変わったところでは鹿の肉のフライときのこのソースなどは初めての味で、もっと食べたいと思わせましたが、会席はそのもう少し食べたい気持ちを我慢して、次につなげるのが粋なのでしょう。鮑をヤギのチーズで石焼にしたものは全く初めての味でしたが、絶品でした。どうして鮑とヤギのチーズを合わせようと思ったのか、その発想が驚きです。刺身は後の方で出ましたが、海のない岐阜にいて、マグロのトロと、クエと、はもの湯引きがいただけるとは幸せです。トロの脂は馴染みがありますが、クエは鍋で食べたことはありましたが、刺身は、ほのかに脂身があって上品な味でした。はもは夏に京都で食べるのが定番にようですが、秋のはもは少し脂がのっていました。はもは日頃あまり味を感じない魚ですが、今回、はもの味がよくわかりました。他にマツタケが出たり、お終いは土鍋で炊いたご飯が出たのですが、店の主人いわくは、「うちで一番うまいのは飯です」。と大胆にもご飯を一番と断言します。

 確かに、炊き立てのご飯に、ちりめん山椒を乗せて口にほおばると、米粒一つ一つが弾力があり、噛むと甘みが出てきます。小さな玉子かけごはんもついて、確かにご飯がうまいことは納得です。私が日ごろ言う、「普通のことが普通にできるのが名人だ」と言うセリフをまさに実践したような出来で、さんざん料理を出した後で、自慢はご飯だと言う姿勢は見事でした。

 後で考えたなら、辻井さんは私を喜ばせようとして「普通のことを普通にやって見せる主人」を紹介してくれたのかな、と思いました。料理も芸能も同じ、何かを気負っているうちはまだアマチュアです。一見何でもないようなことをして、それでお客様が心底忘れられないような演技をして見せてこそ芸能なのだと思います。

 いい体験をさせていただきました。辻井さんは本当にいい人だと思います。

短いですが旅の感想です。今日は大阪に行きます。