手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

あがり症って何 3

あがり症って何 3

 

 私が、楽屋で吐き気がするほど緊張したのは、余りに多くのことを抱え込みすぎていたのです。慣れない手順を演じ、いい顔を見せて、いい青年を演じ、仕事に結びつけて、収入を上げたい。などとあれもこれも望みすぎていたのです。一度、背負ったものをすべて降ろして考えて見たなら、パブで見せる芸人など大したものではないのです。あがりの原因は自分を背負いすぎているのです。

 但し、私のあがり症は、徐々に日ごろステージで演じている内容よりも、よりハードな演技を自主公演で演じているうちに、その過酷さに慣れて来て、普段の手順であがることはなくなって行きます。

 常に条件の厳しい舞台を経験していれば、メイン手順がいかに楽か、しみじみ有難みを感じるはずです。自分がメインで演じている手順であがると言うのは、やるべき稽古が不足しているだけなのだと思います。

 日頃の稽古が、中途半端なまま、自分が「この辺で大丈夫だ」。と見切りを付けてしまうから、曖昧なまま、うまく行かずに、結果本番で、わずかなスチールをミスしたり、タイミングを間違えたり、セリフが前後して説明が伝わらなくなったり、基本的な失敗を繰り返すのです。基本をおろそかにするからあがるのだと思います。

 舞台は万全な演技を出さなければ常に不安です。仮に、未熟な稽古で上手く行って、拍手喝采したとしても、それは偶然なのです。むしろそうした成功はその後にとても怖い結果を生みます。偶然の勝利は次の慢心につながります。

 

 私は30代になると、世間からの信用もついてきて、いい仕事が回ってくるようになりました。普通に頼まれるショウですら、60分、100分と言う大きなショウを依頼されるようになります。

 そうなると、アシスタントや、スタッフ一同で10人15人と言う編成を指揮するようになります。傍から見たら、大きな仕事をして、大きな収入を得て、人が動いてくれてずいぶん楽だろうと思われますが、飛んでもありません。これが簡単なようで簡単ではありません。

 座員全員が舞台に集中すると言うのはとても難しい仕事です。何しろ、金で雇われている人たちはなかなかマジックを自分事と考えて舞台に集中してくれません。しばしばリハーサルでしたことを忘れます。弟子も同様で、時々無責任な仕事をします。

 そうすると、人の失敗がとんでもない舞台になる時があります。

 

 水芸は、始めは暗転で始まります。真っ暗な中で、才蔵が「東西、東西」と声を張り上げて、木頭を打つと、舞台はぱっと明るくなって、その瞬間、真っ赤な欄干が舞台一面に広がり、お客様がわっと歓声を上げます。そして上手から私がゆっくり出て来るのですが、ある日、私が出て来ると、欄干の上にある椅子にポリバケツが置いてあって、バケツに雑巾がかかっています。

 リハーサルで稽古をした時に弟子が置き忘れているのです。古典芸能だの、芸術祭受賞者だのと持ち上げられても、ポリバケツ一つで台無しです。私が先に気付いていれば何の問題もないのですが、この時私は楽屋で急いで衣装を着かえ、舞台袖にやってきたばかりです。舞台袖は暗転で舞台が見えません。チェックが効かないのです。明るくなって出て行ったらポリバケツです。これは気持ちが一気にしぼみます。

 そんな時でもやる気をなくしたり、諦めたりはできません。裃を着た大名役の私が欄干に上がるときに、何気にバケツをどけて、才蔵に渡し、表向きは冷静に、中央に立ちます。正直やりにくいのですが、もう元には戻せません。本番は何が起こるかわからないのです。大きな仕事はどこかで人を信用して細部を任さなければなりません。

 こんな時に、私があがってしまったり、パニックになってしまっては舞台が台無しになります。努めて穏やかに、いつもと変わらない気持ちで演じなくてはいけません。大きなショウをすると言うことは、些末なことにこだわってはいられません。何が起ころかわからないのです。何が起こってもとにかく演じ切らなければいけません。

 こんな時、自分のメイン手順がうまく行くかどうかと、ドキドキしているなんて言う人は幸せだと思います。大きなショウをする者は、人の間違いまで背負わなければいけないのです。自分があがっているゆとりなどないのです。

 

 こんな仕事を続けているうちに、30代あたりから、私の顔が気難しくなって行きました。年齢と言うこともあるとは思いますが、つるりとした愛嬌のある顔ではなくなって来ます。これはまずいと思いました。

 お客様はマジックを楽しみたくてやってくるのです。それが気難しい顔をしたマジシャンが出て来ては、ショウを楽しめません。私は努めて笑顔を見せて、ばかばかしい話をします。多少なりともお客様に緊張を与えないように気を使います。

 しかしそうすると、また自分の子供のころの記憶がよみがえり、作り笑顔をしながら、演じるマジックが、本当に自分のしたい世界なのか、と自問自答します。つまり私は気難しいのです。

 もっと、明るく楽しい演技をしなければと思う反面。もっと心の中に素直な演技をしなければならない。と相反する演技を主張して、心の中で悩みます。こうした性格は一生続くのでしょう。

 

 50歳を過ぎて、マジックのパーティーなどに顔を出すと、何となく若い人が私に遠慮するようになりました。よく考えて見たなら、私も若いころは、50、60歳のマジシャンの傍に行って、ペラペラしゃべることなどできませんでしたから、当然なのです。

 でも、このころ、出来ることなら、若い人に役に立つようになりたい。と、思うようになり、幸い、「そもそもプロマジシャンと言うものは」と言う本を出しましたので、若い人が遠巻きに私を見ていますが、実はいろいろ話を聞きたいんだろうと思い、なるべく私から若い人に話しかけるようにしました。その時、顔つきも気難しい顔をせずに、ばかばかしい話を交えて話すように心がけました。

 50,60代の人が黙っているだけでも若い人にとっては怖いのです。なるべく、若い人の緊張を解くように努めるのですが、私自身が無理に私を演出して、私自身を演じていると、「これでいいのかな」。と思います。多分いいのでしょう。然し少し疲れます。

 大人とはこんな風に常に別人格を演じて生きているのでしょうか。そうであるなら、私が疲れるだの、つらいだのと言うのは贅沢です。毎日こんなことをして、多少の緊張をして、人の役に立つなら、これも我慢と考えています。

続く

 

 

あがり症って何 2

あがり症って何 2

 

 昨日(10日)私があがり症であると言うことを書きました。しかし実際、私が、出番前にがちがちに上がって、手が震えたり、声が出なかったりすることはありません。普段の舞台でも、緊張することは少ないのです。それは、自分で自分をコントロールする方法を覚えたためで、過度な緊張はしないものの、心の中では今でも小さな緊張はしています。

 

 昨日、私が子供のころ、誰に対しても愛想のいい子だったと言う話をしました。私はそれを自分の性格だと思っていました。然しそうではなかったようです。私が15歳くらいの時に、母親が、ふと、

 「お前は昔から誰とでもすぐに仲良くなって、とても愛嬌がある子だったけども、ある時、占い師の人が、お前を見て、『お宅のお子さんは長生きしませんよ』。と言ったんだよ。『どうしてですか』、って聞いたら、『人に気を使いすぎる。あんなに幼くて、人に気を使っていたら神経をすり減らして、長生きできなくなりますよ』。って言うんだ。あたしはてっきりそういう性格の子供なのかと思っていたけど。お前は早くから人に気を使っていたんだね」。

 と言ったのです。この言葉はショックでした。なんとなく幼いうちから処世術を身に着けて、人に愛想よくしていたことが、本心ではないと見抜かれていたのです。そんな生き方を長く繰り返していると、本心からしていることなのか、作っているのか、自分自身でも気づかなくなって行きます。

 スマイル(笑顔)なのかプレゼンテーションスマイル(愛想笑い)なのか。自分自身ではよくわからないまま、相手が喜ぶから自分を押し殺していい顔をしていたわけです。それを幼いうちから私は身に着けていたのです。

 ところがその実、私は昔から、初対面の人にいらぬ緊張感を持ちます。表向きは、にこにこ笑って、人との話の共通点を探して、誰とでも仲良くなろうと努めるのですが、人と会った後、とても疲れるのです。そして後で余計なことを喋ったことを一人後悔するのです。

 でも、私は人と会う、人と話をすることと言うのはそういうことなのだと思っていました。然し、実際はそうではなく、自分が人にいらぬ気を使っていることに気付いて行きます。

 人はこれを二重人格と言うのかも知れません。でも10代の頃は自分が何者なのかがわかりませんから、どちらが本当の自分なのかが判別できません。分からないままいろいろな役を演じているうちに、自分自身が一層見えなくなってなって行ったのです。

 

 いいプレゼンテーションスマイルを見せることは、営業マンだとしたら、とてもいい武器を持ったと同じことです。もしアメリカ人だったら、それだけで成功のチャンスを掴めます。それを知らず知らずに身に着けている子供がいたなら、その子は成功間違いなしの人生が約束されています。

 ところが、私は、思春期に母親からそんな話をされて思い悩みます。よくよく考えて見れば、私は常に自分を隠して生きて来たのです。別に何かを隠そうとしたわけでもないのですが、心の奥を探って行くと色々隠すべきものを持っていました。親が芸人で家が貧しかったこと。本当の私はものすごく気が強く、人との折り合いが良くなかったこと。適度に才能があって、人よりも先に答えが見えてしまうこと。それらのことはすべて自分にとってマイナスな性格だと思って隠していました。

 人より先に答えが見えてしまうなどと言うのは、優れた才能だと思う方もあると思いますが、実際には、目端の利く子供と言うのは周囲からは愛されないのです。子供のくせに人の間違いを指摘したりすると、先生や、チームのリーダーから疎まれます。仮に、私の言ったことの方が正しかったとしても、あとでのけ者にされます。

 馬鹿なリーダーは、自分が失敗すると、反省をするどころか、自分の恥を隠すために正解を言った人間を攻撃します。そんなことで何度もいじめを経験すると、「世の中は、考え方が正しいかどうかが価値基準ではなくて、間違っていても、人と同調して生きることの方が大切なんだな」、と知ることになります。

 

 私は幼いころから、自分の心の中に相当強い意志があることを知っていました。然し、何か言うたびに周囲とうまく行きません。そうなら、人から愛されるように、意思を押し殺して、にこにこ笑って生きていることのほうが得策だと知りますが、それがやがて心の中で葛藤を生みます。

 そんな中、親父がやっているお笑いの世界を見ていると、芸人は、生活が苦しいにもかかわらず、実に素直に自分を表現して生きています。当時まったく売れていなかった北野たけしさんなども、ものすごく強い意志を持ちながら、収入にならない舞台活動を繰り返していました。でもそれがめちゃくちゃ充実した人生に思えたのです。

 私は絶対この生き方のほうが自分自身を伸ばせると考えました。やがて学校を卒業して、プロマジシャンになったときに、周りをきょろきょろ見渡しながら、人のまねをして生きるのでなく、もっと、心の中の自分を素直に押し出して生きて行きたいと考えるようになりました。

 芸能とは本来そうしたもののはずなのです。誰に遠慮が必要なわけではないのです。ところが、実際マジシャンになってみると、そこも一般社会の縮図でした。周囲の先輩に遠慮をして、人の言葉に同調して、いいも悪いも自分で判断せずに、世の中の流行に合わせて、ただ人のするマジックを真似る人ばかりだったのです。「そんなの芸能じゃぁない。そんな生き方をするためにこの道を選んだわけじゃない」。

 そう考えて、国内では毎年リサイタルを開催したり、アメリカに行ってマジックキャッスルに出演したり、自分のしたい人生を歩むようになりました。然し、肝心の自分が一体どんなマジシャンなのか、なかなか見つかりません。

 自分が見つからないまま、自分のマジックを作り上げようと思って、リサイタルを開きます。が、その演技は矛盾の塊です。演技の最中にも、今いるお客様を喜ばせなければいけないとか、自分の演技は結局自己満足なのではないかなどと邪心が過(よ)ぎり、あれこれ考え、葛藤して、一人心の中で緊張感を煽り、次の出番のセットを急がなければならないにもかかわらず、楽屋で吐き気を催すほどに緊張していたのです。結局最大の敵は自分自身なのです。

続く

あがり症って何 1

あがり症って何 1

 

 私は、普段、舞台に立つ前と舞台に立って演技しているときと、なるべく変わらないように振舞っています。周囲の人から、「よくそんな自然体でいられますね」。と言われます。10歳の時から舞台に立っていますので、もう56年。マジックをしてきて、日常と舞台の区別もあまりつかなくなっています。勿論区別はしています。

 「あがったことはないですか?」。と聞かれます。「もちろんあります。私はむしろあがり症です」。と言うと相手は驚きます。

 いろいろ記憶をたどって行くと、10歳から12歳くらいまでは、舞台で上がると言うことはなかったように思います。子供だった私は、舞台に出て来る時に、ニコッと大きな笑顔で出ていました。それが愛嬌があって結構お客様から可愛がられました。

 このころは自分をどう見せよう、とか、かっこよく振舞おうなどと考えたこともなかったのです。無心だったのです。子犬が寄ってきて、人を不思議そうな眼で眺めているようなものです。その無邪気なまなざしに人は思わず抱きかかえようとします。その子犬と同じだったのでしょう。

 それが、思春期を迎え、自分の容姿が気になり出すと、妙に髪の毛を梳かしたり、演技の時も横顔を強調したりと、変な思い込みをするようになって、同時に舞台に出ることが緊張するようになります。道具を持っている手が震えます。テーブルの小道具を掴もうとするのになかなか掴めません。喋ろうとしても、言葉が出なかったり、間違えたり、何をしてもうまく行きません。

 子供のころは、毎週舞台仕事があったのに、思春期になると仕事の依頼が少なくなります。14ぐらいから17くらいは芸人としても使いにくい年齢なのです。マジックの内容はお粗末ですし、まだ自分が何者かもわかっていないのです。それでいて自意識ばかりが高いから、あまり人から可愛がられなくなり、仕事は減ります。そして出番前はあがりまくっていました。

 18歳くらいになって、キャバレーの仕事をするようになると、仕事はがぜん増えてきました。このころになると、舞台の緊張が解けてきました。自信がついてきたのです。妙な自意識は薄れてきます。マジックも独自に研究するようになり、少し色々なことがわかりだして、それまでマジックに劣等感を持っていたものが力がついて来ます。喋りも壺がつかめるようになり、私の話をお客様が面白がって聞いてくれるようになりました。

 舞台は手慣れては来ましたが、慣れが雑を生み、緊張感のない舞台をするようになりました。大学在学中はそんなダレた舞台を繰り返していました。キャバレー用に、15分の手順を二つ作り、これを演じている限りはいくらでも仕事が入ってきます。そんな演技ではとてもマジシャンの頭数には入れないのに、気持ちはもういっぱしのマジシャンでした。

 大学を出て、舞台に専念するようになりました。この時決断をして、自身のリサイタルを始めました。年に二回。初めはパブで30人お客様を集めて、ショウをしました。

 このリサイタルでは、いくつか自分でルールを作りました。

 1.必ず新作を入れる。一つの作品は5分程度にまとめ、起承転結を作る。

 2、ゲストを一本、または二本入れる。自分の演技を必ず60分演じる。

 3,アンケートを配って、反応を確認する。

 4,テレビ局のディレクター、仕事先のマネージャーなどを招待する。

 5、既成のマジックは色デザインを変え、仕掛けも改良し、演出を加える。

 

 こうしたルールを自ら作って、春と秋に都合二回リサイタルを開きました。当時マジシャンでリサイタルをする人はいませんでしたので、お客様は良く集まりました。但し、必ず5分の作品を一つないし、二つ作って、自分だけで60分のショウをすると言うのは簡単ではありません。間にゲストが出てくれますが、ゲストと言っても学生マジシャンです。3分か4分しか演技がありません。そのわずかな息継ぎの間に、20分の演技を3つ仕込まなければなりません。通常キャバレーで演じている、スライハンドや鳩出しなど、そのまま演じてもいいわけですが、まとめて一時間演じるとなると演技の仕方が根本から変わり、緊張感が増します。

 20分を一気に演じるとなると頭の中はハンドリングを浚(さら)うことでいっぱいです、スチールや、パスなど、20か所や30か所のハードルを次々に確実に超えて見せなければなりません。

 一つの手順が済めばもう前のことは忘れて次の手順に集中しなければなりません。その間もお客様にギャグなど言って、愛想をよくしながら、頭の中では次の手順を浚います。それがすべて出来て20分です。

 ゲストの学生アクトが4分。その間に次の仕込みをします。そして急ぎ舞台に出て、次の20分を演じます。それを都合三回繰り返します。シルクなどを楽屋で巻いているときに、時間に追われ、吐き気がして、思わずごみ箱に胃の中の物を全部吐いてしまいました。自分としてはかれこれ10年の舞台経験があります。それなのに「楽屋で吐くとは何事だ。なぜもっと落ち着けないんだ」。そう自分に言い聞かせるのですが、思いとは裏腹に、手は震え、頭は混乱し、気持ちばかりが焦って、稽古の半分も力が出ません。

 この時私は、ふと、「あぁ、これだな」。と思いました。自分にここまでの緊張を科し、ぎりぎりに追い詰める。マジシャンは誰一人ここまで自分を追い込んで舞台に立ってはいないのです。ある意味、この状況はレベルの高いコンテストに出るようなものです。これを繰り返せば確実にうまくなる。そのための修行をしているのだな。と思いました。

 そう思ったとたん、気持ちが少し軽くなりました。なぜ軽くなったのか。それは自分を客観視したからでしょう。それまで、この後、舞台に立って成功しなければならない自分と、今楽屋でやるべき作業を必死にこなさなければならない自分が重なっていて、ほかのことが考えられなかったのです。

 然し、自分を客観視して見たなら、ただの修業の芸人なのです。騒いでもあわてても、所詮小さな生き物の小さな料簡なのです。そんな芸人が何をしようと、世の中には何の影響も与えないのです。その思いが理解できたときに、不思議とあがると言う呪縛から解き離たれました。

 無論、これ以後あがることがなくなったわけではありません。その後も、ぎりぎりの時間にセリフを暗記して、舞台に立たなければならないとか、慣れないスライハンドが不安だとか、そんなことは幾らもありました。そんな時でも、緊張はありましたが、体が動かなくなるほどの緊張はなくなりました。

続く

 

だから言ったのに

だから言ったのに

 

 オリンピックの開催が50日を切りました。主催者、運営団体の人たちや、アスリート、支援者の皆さんは連日大忙しだと思います。やると決定したことです。とんでもない費用をかけて世界的なイベントを開催するわけですから、日本国民みんなでうまく行くように応援しましょう。

 と、のっけから前向きな意見を書きましたが、世の中には、何か大きな催しをする段になると必ず、足を引っ張る人たちが現れます。人の失敗を喜ぶような人がいるのです。

 主催者とすれば、協力しなくてもいいから、少なくとも邪魔だけはしないでくれ、と言いたいでしょう。ところがどうしたものか大会の邪魔する人が必ずいます。

 マスコミでも、医師でも、「オリンピックを開催すれば、クラスターが発生する可能性がある。危険だ。それが国民に及ぼす影響が心配だ」。などと、国民を心配する姿勢を見せて、その実、オリンピックの不開催を訴える人たちがいます。

 確かに、クラスターが発生することは心配ですが、誰もコロナを蔓延させるためにオリンピックをするのではありません。そのための予防や、衛生管理をした上でのイベント開催です。今の時点でやらないほうがいいなどとなぜ言えますか。去年の時点で一年延長したことで、今年開催することは世界に公表しています。ここでやめては世界に約束したことを破ることになり、せっかく盛り上がってきた機運に水を差します。やめろと言う議論は去年の時点で言うべきです。

 こういう人たちは、やらない意見を言うことで、あとで何か問題があったときに。「ほら、俺が言った通りのことになった」。と、自身の正義をかたることが目的なのでしょう。何一つ催しに協力するわけでもなく、ただオリンピックを反対して開催の邪魔をし、その後、問題が発生すれば鬼の首でも取ったかのように「だから言ったのに」、と予言者のごとく自慢します。

 国を挙げての祭りや祝い事なら、少々納得の行かないことでも、日本国の晴れ舞台なのだから、にっこり笑って応援すればよいものを、反対が何の役に立ちますか。

 連日、マスコミや、新聞を見ていると、オリンピックに反対する意見がぞろぞろ出て来ます。私は、不毛だと思います。自己の正当性を記す意味でしているのか知りませんが、愚にもつかない批判を繰り返しても意味はないと思います。

 昔から「お為ごかし」と言う言葉があります。「あなたの為を思って言っているのだよ」。と言いつつ何でも反対して、密かに物事がうまく行かなくなることを望んでいる人の言葉です。今のテレビや新聞は、お為ごかしの大合唱です。またそれを読んだ読者は、「何もしないことが世の中のためなのか」。と、協力することから逃避しようとします。日本人にとってこれほどの大イベントはこの先50年は来ないと言うのに、人はオリンピックを冷めた目で見ようとします。

 

 こんな人たちはどこにでもいます。人口減少して存続も危ぶまれるような村で、残された若者が、村起こしを考えてイベントを企画すると、村の予算を使って無駄遣いだと騒いだり、寄付を求めると、何のかんのと反対をして、寄付を出さなかったりします。

 若くて意欲のある実行委員が、こうした無理解な人たちに接したなら、村を何とかしようとする意欲が失われて行きます。彼らはしみじみとこの村がなぜ人がいなくなるのか。問題の本質を知り、やがて村の発展を諦めます。

 

 私は、55年前の東京オリンピックを見ています。小柄な日本人選手が、海外勢と互角に戦って、次々に日章旗を上げた姿は、子供だった私でも毎回テレビの前で涙が出て大感動しました。

 1969年の東京オリンピックは、有色人種の国で初のオリンピックだったのです。日本人を有色人種と呼ぶことは今ではなくなりましたが、それもこれも日本人が経済、文化、学問で国力を上げて、欧米先進国と並ぶ活躍をしたからこそ、いわれなき差別から脱却できたのです。まだ黒人差別が平気で行われていた1960年代に、日本がオリンピックを開催したことは快挙だったのです。

 しかもこの時期、アジア、アフリカから続々独立国が生まれました。彼らは何としても日本の開催するオリンピックに参加したかったでしょう。まだ一般に認識されていない自国の旗を日本で掲げて見たかったでしょう。

 実際、マラソンでケニヤのアベベが優勝したときには日本中が大騒ぎでした。日本の円谷(つぶらや)幸吉は惜しくも銅メダルでしたが、円谷とアベベの争いはつい昨日の出来事のように思い出されます。

 跳馬の山下、重量挙げの三宅、レスリングでは実に5つの金メダルを取り、柔道でも、猪熊など3つの金メダルを取りました。女子バレーでは大松監督と言う、鬼コーチが女子をしごきまくって、スパルタ教育と言う流行語を生みました。その甲斐あって金メダル。女子バレーは「東洋の魔女」と言われて海外から尊敬を集めました。

 あの時のオリンピック選手は、殆どは太平洋戦争を体験しています。昭和20年の敗戦時、軍隊の経験はなかったとしても、空襲で家を焼かれ、家族を失い、みんな食べる物すらなかった時代を体験して、貧しく苦しい中でスポーツをしてきたのです。敗戦からわずか19年で日本は復活してオリンピックを開催したのです。そうした体験をしてきた選手が、大会会場に整列して行進をした時の気持ちはどんなものだったのかと思います。

 あのオリンピックを見たときに、日本の子供たちはどれほど気持ちを奮い立たせたか知れません。やればできる。努力をすれば何とかなる。その姿勢を文字でなく映像で教えたのです。その後の漫画でスポーツ根性物が流行ったのも、オリンピックの影響が大きかったでしょう。

 テレビはなぜ今、あの時の日本人を取り上げないのでしょうか。これほど誇らしい栄光を持った日本人をなぜ語らないのでしょうか。あれから55年を経て、再度オリンピックが開催できることは素晴らしいことです。なぜ素直に祝えないのでしょう。この期に及んで、オリンピックがうまく行かない話ばかりして、なぜ自分たちを引きずり降ろすようなことを繰り返しているのでしょうか。

 今のマスコミや、反対者を見ていると、村の中で寄付を渋って難癖をつける因循姑息な老人を思い浮かべます。自分達にはビジョンも代案もないのに、ことを成そうとする人たちの否定ばかりします。いつから日本人は心根の卑しい老人になったのでしょうか。再び自分たちの子どもや、孫に、誇れるようなオリンピックをしようではありませんか。

続く

 

梅雨から夏へ

梅雨から夏へ

 

 ご報告が遅れましたが、家の改築が6月3日に終わりました。およそ20日間かかって、台所、風呂場、トイレ、洗面所が新しくなりました。水回りのすべてが新しくなったわけです。何より、この20日間。工事現場の中で生活をしなければならなかったので、工事が終わってホッとしています。

 下水管の内部に汚れが詰まっていて、随分異臭がしていたようです。31年暮らしてきたのですから、致し方のないことです。やはりここらで工事をするのはやむを得ないのでしょう。それにしても、3階の水回り関連と、壁から床から天井から、そして装置一式が取り換えられたわけですから、どこも新品できれいになりました。

 きれいであるのは気持ちがいいのですが、私が見た分には、風呂の浴槽も、トイレも、別段傷んでいたわけではないので、取り換える必要はないのではないかと思っていました。然し、下水管を直すために床、壁、天井を新品にしたのに、浴槽だけ30年前の物を使うのは嫌なのでしょう。

 結局、浴槽も、トイレも、新規に取り替えました。そして、色はピンク色になりました。女房の判断に任せましたので、致し方ありません。

 女房も娘も喜んでいます。彼女らにとっては、今年は幸せな年になったわけです。無論私も、新しい風呂に入って、のびのび出来て、幸せです。

 

 私は、風呂や洗面所を改築してもそう大した変化はないだろうと思っていたのですが、どの器具を見ても、細かく改良されて使いやすくなっていました。先ず蛇口の形態がそっくり変わっています。使いやすくなっていますし、いろいろな機能がついています。

 洗面所の蛇口は、コックの先でシャワーと通常の水とが切り替わるようになっていて、シャンプーをするときは、蛇口が延ばせて、簡単にシャワーとして洗えるように作られています。私が使うことはありませんが、便利です。

 風呂場の栓も、以前は、栓に鎖がついていたのですが、あの風呂場の栓は、何年か使えば必ず切れます。力を入れて引っ張りますので、細い鎖では持たないのでしょう。今回のは、既に栓がしてあって、鎖がありません。浴槽の隅にボタンがあります。ボタンを押すことで栓の開閉が出来ます。便利です。

 風呂の温度調節も簡単ですし、入浴後にドライのボタンを押せばすぐに浴室が乾燥します。ここに洗濯物を干しておけばすぐに乾燥します。便利です。

 全体に、装置がコンパクトにまとめられて、すべてが小型化されました。洗面所も、コンパクトになった分、床が広くなりました。トイレは、背中に背負っていたランドセルのような水槽が、随分小さくなったために、トイレ器具が10㎝くらい奥に配置出来たため、トイレ室内が広くなりました。

 なるほど、女房が大金をはたいてまでも改築したがったわけがわかりました。この30年間の、水回りの装置は確実に進化していたのです。

 これで3階の改築は出来ましたが、このあと2階、事務所のトイレを取り換えます。然し、しばらく休憩です。今の現状はあまりに道具が部屋にあふれていますので、一度片付けてから、2階の改築をするそうです。

 改築は結構ですが、今の私の家のどこにそんな金があるのか不思議です。女房はよほど30年間で細かく溜め込んでいたのでしょう。幸い、この30年間で誰一人病気になるものはなく、唯一、今年になって私が大腸ポリープを取って一週間入院したのが、病気と言えば病気でした。

 但しこれも手術ではありません。肛門からカメラを入れて、ポリープを取っただけで、実質1時間くらいのことでした。他の家族はまったく入院などしていません。いざと言うときのために30年間溜め込んでおいた入院費用などを、病気でなく、改築に使えたのなら、めでたいことです。

 

 私としても今年は大きな変化の年になりそうです。これから徐々に仕事も上向いて来るでしょう。今まであれこれ仕掛けてきたことの一つ一つが、ようやく日の目を見て、社会の注目を集めそうです。人が動き出して、ショウを求めるようになれば、きっと忙しくなるでしょう。

 世間では、コロナの呪縛が解けて、多くの人がコロナの実態を理解してきたように思います。いい傾向です。闇雲に恐れていてもどうにもなりません。元々コロナは罹りにくいウイルスです。コロナは唾液からの直接感染さえ避ければ、さほど恐れるものではありません。

 まだ、コロナを危険視する医師がいて、オリンピックの開催をやめるように言う人がいますが、今の日本の現状は、アメリカの状況よりずっとましです。にもかかわらず、アメリカではもうコロナは退散したと考えられており、まるでコロナなどなかったかのように、すべてが解放されて、マスクもせずに日常生活を謳歌しています。然しアメリカはまだ日本よりもずっと多い数の感染者が連日出ているのです。

 日本が、今の感染者数で過敏になっていることの方がむしろ奇妙です。飲食店なども、仕切り板を使って、手洗い、検温をしているのですから、何ら問題はないはずです。コロナワクチンも遅ればせながら始まって、接種者が増えています。これからはコロナに対する恐怖心も薄れて行くと思います。

 第一、この先日本は、秋口にかけて観光客を呼ぼうとしているわけですから、それに先駆けて、安全管理をマスターする意味でも、オリンピックによって、海外のアスリートを招くことはいいケースだと思います。安全に気を付けて、オリンピックを開催すれば、人々の長く抑圧されていた気分も払拭できると思います。

 

 19日は玉ひでの公演です。今月は満席、とお知らせすると、申し込みをしようとしたお客様が、7月8月に振り替えて申し込んでいます。コロナの状況下でお客様をお断りするのは贅沢な話です。もう少し、申込者が増えたなら、月に二回公演にするか、昼夜二回公演にしようと考えています。そんな状況がすぐ目の前に来ているように思います。

 世の中がうまく行かないからと言って、泣いてばかりいても成功は来ません。自身を一歩でも前に進める努力をしなければいけません。一歩が無理なら半歩でも前に進んでいれば、成功は必ずやってきます。成功の種などと言うものはささやかなものです。でもそのささやかなことに気付くかどうかが成功につながります。私はそうやってずっと地味な活動を続けて来たのです。今も、そしてこの先も。

続く

 

 

2日間のショウ

2日間のショウ

 

 一昨日と昨日(6月5日6日)の二日間、小さなイベントに出演しました。日本橋の田源(たげん)さんと言う大きな呉服屋さん展示会のイベントでした。コロナの非常事態宣言のために日程変更などありまして、一時は開催も危ぶまれましたが、何とか昨日開催できました。

 コロナ禍と言うこともあって、派手な催しはできませんでしたが、日本橋の近辺に住む若い家族連れなどが大勢集まって下さって、熱心に手妻を見てくれました。一昨日にご覧になったお客様が口コミで噂をしてくださったのか、昨日は、倍のお客様が集まりました。

 子供さんもたくさん集まりました。大人と子供が一緒になって楽しめるイベントと言うものはなかなかありません。手妻の公演は大人からも子供からも好評で、皆さん満足されて帰られました。

 何よりも子供にとっては、すべてが理解できるお伽の世界です。次から次に起こることが、見るもの不思議で、無限に夢を膨らませます。昨日は、一回目と二回目の間に、どうしたら弟子入りできるか、と真剣に聞いてきた子供さんがいました。弟子の前田が真面目に応対していましたが、さぁ、ひょっとすると、十数年後に本当に弟子入り希望が来るかもしれません。その時まで私が健康体で手妻が出来ていなければいけません。

 

 田源さんのお店は、私が毎月恒例で開催している玉ひでさんのお店とも近く、客席で、玉ひでさんのチラシを配ると、すぐさま7月の申し込みが数名ネットに入りました。このところ、玉ひでさんの公演は安定しています。今月(既に満員です)は勿論。来月も恐らく満席になるでしょう。口コミの威力は絶大です。有難く思います。このままで行けば、二回公演も近いと思います。

 何にしても、私とすれば、舞台の依頼がないまま、開店休業の状態でいるのは体によくありません。どんな場所でも、どんなところでも、見て下さるお客様がいるなら舞台に立ちたいのです。見せることは必ず次の舞台のチャンスにつながります。弟子にしても、せっかく修行しているのに、デスクワークばかりしていては意味がありません。毎日でも舞台に立ちたいのです。そうした意味で、一昨日、昨日は誠にありがたい舞台でした。

 

 幼稚園児や小学生が熱心に見ていましたが、これくらいの年齢で、手妻を体験するのは大切です。彼ら彼女らは一生この体験を忘れないでしょう。この時に受けたインパクトが、その後、様々な芸能を見る元になって行きます。

 芸能とは何なのか、全く知識のない子供に、いきなり生の芸能を見せると言うことは、不毛の土地に一粒の種が蒔かれ、その土地から芽が出たことと同じです。そこからどんな花が咲くのかはその後に当人が感じる印象によって変わって行きます。

 確実なことは子供たちが芸能を認識したと言うことです。芸能とはどう見るものなのか、どう考えるのか、を知る端緒なのです。芸能を知ると言うことは、彼らはそこから、人生や人のつながりをより深く、多面的に見る知識を学びます。芸能を知らずに育つと、一方向のみで世の中を見る、偏(かたよ)った人格になって行きます。

 芸能とは極論すれば、弱者、はみ出し者の言い訳なのです。明らかに間違った人、明らかに虐げられている者たちの悲痛な叫びが芸能の原点です。「そんなものを聞いて何になる」。と思う人もいるでしょう。然し、そんな人でも、ひとたび自分が弱者の立場に至った時に、芸能の言っていることが切実に聞こえて来ます。芸能は言ってもどうにもならないこと。明らかに間違っている人の言い訳を聞くことなのです。

 

 ロミオとジュリエットがなぜ結ばれないかは、実は10歳と13歳の初恋だからです、演劇では13歳、16歳になっていますが、史実はもっと若かったのです。しかも親同士は同じ町の中で利権を争うライバルなのです。当時でなくとも、今でも10歳と13歳の、対立した家の子供の結婚ならみな反対します。

 然し、シェークスピアは、無理な恋愛を、さも愛さえあれば何とでも解決できると言わんばかりに二人の愛を語ります。然し、終いには許されない恋と断罪して、悲劇の幕を下ろします。観客をその気にさせて、明らかに無理な話をラブロマンスに作り替え、結局天井から突き落として終わるのです。

 どう考えても理不尽です。然しそれが芸能芸術です。これをばかばかしい、くだらないと言うのは簡単ですが、ひとたび自分がその立場に立ったなら、この話の題材は一つ一つが心に刺さります。と同時に人の心を慰します。

 間違った行為を犯してしまっては変えることはできません。芸能は誤った行為を正当化はしません。芸能ができることは鎮魂なのです。傍に寄り添って間違った人のために一緒に泣いてやることなのです。見ようによっては女々しい世界です。然し、それが芸能なのです。それがわかると人は芸能から離れられなくなります。

 その芸能の発端として種をまく役を私が引き受けたことになります。何十年かして、その子供が大人になって会う機会もあると思います。どんな風に豊かな心に育ったか、その時が楽しみです。

 

 実は、芸能の芽が育った子供の親御さんから先月連絡が来ました。今から10年前、私は京都の会社経営者の山本さんのお宅で、手妻の会を致しました。山本さんは、今も古い京町家にお住まいで、家は京都の文化財になっているお宅です。

 そこで、山本さんは定期的に落語会とか、クラシックの演奏会を開催しておられます。その催しに、私の手妻を使って下さいました。3年間毎年一度、都合3回、山本さんのお宅で手妻を演じました。その時、大人に混じって何人も子供さんが見に来ていました。その中の一人の子供さんが、私の手妻を喜んでくれて、その後もことあるごとに手妻の話をされるのだそうです。

 そして、今年になって、奈良県ロータリークラブでパーティーを開催することになり。役員一同、どんな催しをするかと会議をする中で、一人の役員さんが、10年前、現在大学生になった息子と子供のころ、一緒に京都で見た「手妻がもう一度見たい」。と言ったことを役員会で伝えたのだそうです。

 話は一縷の細い糸を手繰って、過去とつながって行きます。役員会は「そんなに面白い人なら、出てもらおうか」。と言う話になりました。然し、話は簡単ではありません。記憶を頼り、山本さんの連絡先を調べ、私が誰であるかを探し、住所を訪ね、私の元に連絡を下さった次第です。

 こうして、私は8月に、ロータリークラブのパーティーに出演することになりました。それもこれも、息子さんが心の中でずっと私の手妻を思い続けてくれていたのがご縁です。

 何もかもを実利に結び付けることは正しいことではありません。然し、面白かったことをしっかり子供さんが記憶していてくれていたことは、私にとっても幸いだったわけです。何万と蒔いた種から、たった一粒、花が咲いて実を結んだわけです。一粒万倍の妙術です。

続く