手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

チャイコフスキー五番

チャイコフスキー五番

 

 この数日は、チャイコフスキーの第五交響曲を何人かの指揮者の録音を聴き比べて楽しみました。私がチャイコフスキーを聞くことはめったにありません。十代のころはよく聞いていましたが、長く聴いてゆくうちにどうにもフラストレーションがたまって行くようになりました。

 五番は奇麗な曲ですし。面白い曲ではあるのですが、深みに欠けます。曲は重たく暗く始まります。初めから憂鬱です。そして全編悩み続けます。第二楽章なども、のどかで平和な曲なのですが、突然脅迫されたかのような激しいドラムの強打が襲って来ます。一体何に怯えているのかが分かりません。悩みは最終楽章まで続きます。得体の知れない不安感に苛(さいな)まれます。ところがお終いに至るとそれまでの悩みがどこかに消えてしまいます。一体いつ悩みを解決したのか、何を悩んでいたのかさっぱりわからないまま勝利の凱旋が高らかに鳴って終わります。

 全体が夢の世界に紛れ込んだかのような甘い楽しい曲なので、クラシックの中でも人気曲で良く演奏されますが、聞けば聞くほど何を言いたいのかが分からない音楽です。

 例えるならば、平安時代の貴族が、道端で飢えて餓死しようとしている庶民の前を牛車で通る時には御簾を降ろして汚い庶民を見ないようにして、大きな屋敷の垣根からはみ出して見える、桃の花や、桜の花を見た時には、その花が盛りであることを愛でて、車を停めて「静心なく花の散るらん」、とか何とか一首読んで涙するような、美しきものにしか興味を示さない貴族を見ているかのような曲で、少しも共感を覚えないのです。

 チャイコフスキーが悲劇を語る時には、その悲劇を語っている自分自身に酔いしれているように感じます。何度も何度も嗚咽を漏らし、声をしゃくりあげながら悲劇を語りつつも、語っている自分自身を美しいと感じているのです。語っている悲劇に少しも現実を感じないのです。

 そうならなぜチャイコフスキーを聞くのか、と問われれば、チャイコフスキーとほぼ同時代に生きた、フルトヴェングラーや、メンゲルベルクストコフスキーがこの曲をどう思って指揮をしていたのか、気になって、聴いて見たくなったのです。

 

 先ずフルトヴェングラーは、五番の録音は一つだけです。1952年のトリノ交響楽団(イタリア)での客演が残されているのみです。聴いて見ると細かなミスが多く、ずいぶん気になる演奏をします。と同時に、フルトヴェングラーのわかりにくい指揮がオーケストラを一層混乱させているのでしょう。互いが慣れていないのです。

 しかも、観客も、この曲に慣れていないのか、最終楽章のコーダーの前で、曲が終わったかと早合点して拍手が起こります(日本でもこの部分はよく間違えて拍手が来ます)。何にしても、ローカルな演奏会のあまり出来の良くないライブ録音です。

 それでも、フルトヴェングラーの気持ちはよく伝わって来ます。第一楽章後半の人生を暗澹と自問するところは丁寧にチャイコフスキーの苦悩を語っています。総体にあまりドラマチックに演奏せずに、きりっとまとまっています。これがベルリンフィルだったならもう少し面白くなっていただろうにと惜しまれます。

 

 ストコフスキーは戦前から戦後にかけての大指揮者で、アメリカで活躍し、タレントとして人気のあった人で95歳で亡くなりました。私が20代の時にはまだ活動していて、ディズニーのファンタジアと言う映画で田園を演奏したことで、世界中に知れ渡り、超有名人として尊敬された人です。

 五番の演奏は、思い入れたっぷりで、颯爽としています。アメリカ人向きなクラシックでしょうか。然し根本はロマン派スタイルで、思い入れが強く、ポルタメントが強烈で、19世紀風な演奏です。ディズニー映画の時には気付かなかったのですが、テンポが速く、たっぷりとしたロマン的な演奏を、すっきりと快速に演奏して、「あぁ、なるほどこれなら人気が出るわけだ」。と納得しました。今この指揮者を語る人が殆どいないのは残念です。 

 

 そしてメンゲルベルクです。チャイコフスキーメンゲルベルクが最も得意にした演目で、当時チャイコフスキー演奏の大家として尊敬されていた理由が良くわかります。4番5番6番全て名演です。1939年のアムステルダムコンセルトヘボウを聴きましたが、オーケストラも、メンゲルベルクの指揮を心得ていて、全く意のままに強弱、テンポアップ、リタルダンドをこなします。

 第一楽章の自問するところは、誰よりも思い入れが濃くて、テンポの切り返しが極端です。これをくどいとみる人もあるでしょうし、余りに形式的にテンポを変えるので嫌う人もいるでしょうが、好きな人にはこの型通りの演奏が古風でたまりません。

 ポルタメントが効いていて、ケーキに乗ったホワイトクリームを口いっぱいに頬張ったかのような極上の甘さが病みつきです。と言ってフルトヴェングラーほどにはドラマチックには語らず、明治時代の貴族社会を濃厚に聴かせます。

 フィナーレの物足りない部分も、メンゲルベルクで聞くと、これはこれで納得させられてしまいます。理屈よりも情感に訴えて、夢の世界を作り上げています。

 また、コンセルトヘボウのアンサンブルが素晴らしく、弦も管も生き生きとして艶があります。こんな演奏を当時生で聞いたなら、すっかり虜になってしまうでしょう。1939年のオランダ人が羨ましいと思いました。

 

 もう一人、レニングラードフィルとムラヴィンスキーの演奏を聴きました。この人は、チャイコフスキーショスタコーヴィッチの大家として知られ、生涯を通じて、同じ曲を演奏し続けました。50年間にわたってレニングラードフィル(現サンクトペテルブルグフィル)の常任指揮者として君臨し続け、絶対的な権力を持ち続けた指揮者でした。

 その指揮ぶりは、厳しく恐ろしく、一糸乱れずと言う言葉通りで、何十人ものヴァイオリンが全く同じ音で同じ長さで演奏します。フルトヴェングラーはえらい違いです。

 そのお家芸ともいえる五番ですから。オーケストラも、指揮者も自分達こそ世界一のチャイコフスキー演奏家であると自負しています。物凄く巧いですし、音が氷のように透明でひんやりしています。テンポも速めで、先の三人のロマン派の指揮者とはかなり違います。でもそうは言っても、細かなところにいろいろ思入れが入っていて、「あぁ、矢張りチャイコフスキーを愛しているんだなぁ」。と良くわかります。

 こうした演奏を聴くと、いくら私がチャイコフスキーに疑問を感じるとか言っても、ついつい聴き惚れてしまいます。理屈を考えず、ボヤっと甘美な音楽に浸るのも悪くないなと思いました。どうぞ80年前の聴衆が、何を極上の夢と考えていたかを知りたい方は1940年代のチャイコフスキーを聴いて見て下さい。

続く