世界一のオーケストラ
私のブログは内容が固定されてきていて、一番人気は、マジック関連。次は芸能。次は食べ物。そしてウクライナ問題。大谷選手。車。そしてクラシック音楽。クラシックは読者の人気では最下位です。でも懲りずに書いています。
このところ、youtubeでたくさんの古いレコードが聞けるため、同じ指揮者で、同じ曲で、年代順にどう解釈が変わっていったかが見えて、新たな楽しみが出来ました。
本当は早くからそうした聴き方をしたかったのですが、私が中学生高校生の頃はレコード一枚が2500円(今の8倍)くらいして、飛んでもなく高価だったため、同じ曲を何枚も買い揃えることができなかったのです。
当時、池袋のヤマハ楽器でも、銀座の山野楽器でも、レコードを買う前に視聴させてくれて、3枚くらい候補のレコードをレジに持って行って、どれを買うか、視聴して決めていました。然し、例えばベートーベンの英雄を裏表全曲視聴するなんて言うことは出来ません。せいぜい一枚5分程度しか聴けません。
その程度の視聴で、2500円のレコードを買おうと言うのですから、中学生のクラシックファンとしては真剣そのものです。私のマジックの出演料が、一回約2000円。すなわち一回の出演ではLPレコードは買えないのです。それだけに、レコードを買い求めることは月に一度の大仕事で、いい演奏に当たるとその月は、家で名演奏が存分に聞けて、これ以上ないほどの喜びでした。
同じ指揮者でも、若いころの演奏と、高齢化してからの演奏ではかなり違った演奏の仕方が見られます。かつてはそんなことはわかりませんでしたから、フルトヴェングラーはこんな風、トスカニーニはこんな風、と、たまたま買ったレコードの演奏だけで勝手に指揮者の考え方を解釈して、固定観念で聞いていましたが、最近ではそうではないことが分かって来ました。
それははむしろ当然なことで、どんな人でも、20代の考えと50代の考えではかなり違うのは当然で、会話なら話した傍から消えてしまいますが、オーケストラはレコード盤で残っているため、消えることはありません。
その断片を捉えて、1920年代に録音したレコードを、100年経って聞いた人が、「あそこの解釈は変だなぁ」。などと言ったとしても、オーケストラの演奏者も、指揮者もとっくに亡くなっているのですから、何を言っても意味のないことです。
しかしそれでもあえて聴こうとするのは、今ではそんな風には演奏しなくなった解釈の仕方であるとか、オーケストラそのものの音色が、今と昔では全く違うのが面白いのです。同じオーケストラでも戦前戦後(第二次世界大戦の前後)の音色は大きく違うことが分かります。
我々は、オーケストラと言えば、最高の音色を出す楽団は、ベルリンフィルと反射的に思っていますが、戦前(1945年まで)のオーケストラを聞いていると、必ずしも、ベルリンフィルが世界最高とは言えないのではないかと、気付きます。
第二次世界大戦まではフルトヴェングラーが指揮をしていましたが、今聞くと、よく言えば重厚、悪く言えば不揃いで暗い音色でした。私が、高校生のころ、決してフルトヴェングラーのレコードを買わなかったのも、何を聴いても陰気臭く、事大主義で、暗い演奏だったからです。
当時のクラシックファンは、その暗い演奏を喜んで聞き、「これがドイツ音楽の神髄だ」。などと言っていましたが、私は「そうかなぁ」。と怪訝に思っていました。
それに比べて、ウィーンフィルは、音色が暖かく、空から光が差してくるようなキラキラとした演奏が多かったように思います。上手さと言い、音色の個性と言い、ウィーンフィルこそが世界一のオーケストラではないかと思います。
と同時に、ウィーンフィル以上に演奏家のレベルが高かったのは、アムステルダムコンセルトヘボウオーケストラです。指揮者はメンゲルベルク。この人は個性の塊のような人で、何を聴いても、「あ、これはメンゲルベルクだ」。とすぐにわかるような演奏の仕方です。濃厚なロマンティシズムを感じさせる演奏で、今こんな演奏をする指揮者はもうどこにも存在しません。
この人が50年に渡ってアムステルダムコンセルトヘボウに君臨したお陰で、このオーケストラは世界一の音色、技術を持ったオーケストラになったのです。弦も管も金管も全体のバランスが素晴らしいのです。しかも個々の演奏家が名人芸で、ついつい聞き惚れてしまいます。
ベートーヴェンでもブラームスでも、フルトヴェングラーのべルリンフィル、や、ワルターのウィーンフィル、トスカニーニのNBC交響楽団(トスカニーニのために作ったオーケストラ)、の演奏などと比べても、断然アムステルダムの音色、アンサンブルの方が優れていると思います。
たまたま最近youtubeで、フルトヴェングラーの演奏を立て続けに聞きました。勿論演奏そのものは素晴らしいですし、曲の解釈が深いため、一曲聞くと、大きなステーキ一枚平らげたような満足感があり、もう一曲聞くのを躊躇します。
この指揮者は、ソナタ形式を、ヘーゲルの弁証法の如くに捉えていて、第一主題と第二主題を極端に際立たせ、音楽の中で戦わせます。典型的な昔のドイツの指揮者で、その中でも特に過激で極端な人です。
ベートーベンなら、それも納得出来ますが、例えばシューベルトではソナタ形式が必ずしも対立にはなっていないはずです。それをことさらドラマに仕立て上げようとして争点を強調するため、内容が事大主義になり過ぎて、聴いていて「シューベルトがこんなに誰彼関係なしに論争を吹っ掛けるだろうか」。と疑問に思います。
例えば「未完成」でも、ワルターが、ウィーンの洒落心、温かさを歌い上げるのに対して、フルトヴェングラーは、重苦しく、悲しく、怒りを周囲にぶつけまくります。貧しい、名前が売れない、社会が冷たい。そんなシューベルトの不満が心の中で渦巻いているように聴こえます。聞いているとシューベルトが早世したのは自殺が原因なのではないかとすら思えて来ます。
然し、シューベルトにはそこまでのドラマはなかったと思います。50年前のレコードファンはこれを最上と言い、私がフルトヴェングラーよりもメンゲルベルクがいい、などと言おうものなら素人扱いされたのです。
然し、私は今でも、どんな名人の演奏を聴いても、必ず締めにはメンゲルベルクを聴きます。そして、「これこれ、この巧さ、これこそが最高」。と一人悦に入ります。
周囲の人が言う、メンゲルベルクの押しつけがましいテンポの変化も、「だからいいんだ。歌舞伎がいいところに来ると、スピードを落としてゆっくり見得を切るでしょう?。思い入れたっぷりに決まりを見せるから、昔の人は弁当を食べる手をやめて拍手したのです。それと同じに、当時のクラシックファンは決め、決め、をわかりやすく聴かせたからこそ、長い音楽が理解できたのです。お定まりのパターンが音楽を聴きやすくしたのです」。と一人しかいない部屋でメンゲルベルクのために弁明をします。夜中に一人1940年のメンゲルベルクと対話して、時空を超えた世界に浸ることこそ私のささやかな幸せなのです。
続く