手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

橋本福治会長追悼

橋本福治会長追悼

 

 手妻と言う芸能の最大の理解者で、常に熱心に支援してくださった。橋本福治会長が2月19日に死去されていました。私はそのことを全く知りませんでした。それが今になってなぜ知ったのかは、一週間前に橋本会長にお手紙を出しました。私は度々、近況を報告するためにお手紙を出していました。

 それが数日して、キョードー大阪の奥田靖(恐らく部長)さんからお電話を頂きました。奥田さんは度々私の活動を助けて下さっています。そして奥田さんから橋本会長が亡くなったことを知りました。橋本会長は、裏方として徹するために、タレントよりも前に出てはいけない。というポリシーの元に、一切ご自身のことは告知せずに、葬式も親族だけで済ませることを遺言としていたそうです。

 それにしても、キョードー大阪と言う、イベント会社としても大阪で最も大きな会社で、しかも多くのタレントを育てた橋本会長が亡くなったと言うのに、全く知らなかったと言うのは何とも脳天気です。

 昨年秋、大阪でマジックセッションを開催して、その際、橋本会長からお花を頂きました。高々150人程度の小さな会場にお花を頂くのは恐縮です。勿論すぐにお礼の手紙を出しました。すると、お返事が届きました。私とすれば、もう少し大きな活動をしたかったのですが、コロナ禍にあって、いかんともしがたく、細々と活動していたのです。

 それでも、とても暖かく理解して下さり、感謝していました。ところで、今年に入ってコロナは収束を見せましたが、舞台活動はあまり活発になりません。なかなか復調しないのです。外国人は数多く観光に来ていますが、それが即日本の芸能の活動を豊かにしてはもらえません。

 私は常々、自分自身がどこか攻め口を間違えているなぁ。と感じていました。外国人は日本の芸能が見たいのです。日本でしか見られないような特殊な芸能に接したいのです。それなら、手妻が見たいのか、というと、単純にそれが繫がりません。

 私が手妻をそのまま演じるだけでいいのか、何かもう少しお客様とつながる要素が必要なのではないか。ただ演じるのではなくて、もっともっと日本の芸能の面白さを明確に伝える何かがなければなりません。何でもない所作でも仕草でも、何かお客様が喜ぶものがあるはずなのです。それが何か。そこに答えが見いだせないのです。

 実は、一週間前に橋本会長にお手紙を出したのも、そのためだったのです。何かいいアイディアをお持ちではないか。そう考えてお手紙をしました。然し、お亡くなりになっていました。奥田さんから電話を頂いたのは一昨日のことでした。

 それからは夜になっても全く寝付かれず、翌日になっても頭の中がぼぉっとして、まとまりません。人は必ず亡くなるのだ。と言うこと、そんな簡単なことがどうしても納得できません。

 

 6年前に国立文楽劇場で公演したときに、真っ先に橋本会長に相談すると、会社に呼ばれました。大阪の中之島にあるフェスティバルホールの三階にある大きな会社でした。私の知る限りにおいて大阪で最も大きなイベント会社です。出かけると会社役員が全て集まっていて、すぐに新聞社を集めてくれて、テレビやラジオ番組で公演宣伝の場を作って下さったのです。

 当初私は、文楽劇場を満席にする自信など全くなかったのです。このまま年齢を重ねて行ってもどうにもならない、何とかしなければならない。そう思う気持ちだけで文楽劇場を借りたのです。当初は、「半分もお客様が埋まればいい」。という気持ちで深い思慮もなく行動したのです。

 それが、プロデューサーの澤田隆治先生の協力や、お好み焼きの千房さんの、中井正嗣会長などなど多くのご協力者のお陰で満席になったのです。正直、800人と言う客席を満席にしたのはこの時が初めてでした。

 800人の劇場を満席にするには、切符を一枚一枚手売りしていてはらちがあきません。そもそも知り合いを頼って切符を売っていては満席にはなりません。プロは知らないお客様を集めるからプロなのです。顔見知りの前だけで活動しているのはプロの仕事ではないのです。

 とは言うものの、「どうやったら文楽劇場が一杯になるのか」、という命題に私は答えが見いだせません。そこで、以前、私の活動に興味を示してくださった、橋本会長を思い出し、お手紙を書いて相談をしました。すると橋本会長は、「それをするのが私の仕事なのです」。と言いました。

 「いや、そうは言っても私の活動などとても小さなものです。キョードー大阪さんがするような仕事じゃありませんよ」。「違います。どんな仕事でも初めは小さなものです。でもいいものなら必ず大きくなります」。橋本会長の行動は素早く、的確でした。その仕事の仕方を見て、大きく生きようとするには、それなりの活動の仕方をしなければだめなのだと気付かされました。

 

 さて一回目の文楽劇場は満席になりました。翌年、吉本のイエスシアターで2日間公演をし、秋には再度文楽劇場の公演をしました。そこまではよく入ったのです。

 さて、この先どうするか。もう水芸と蝶は三度見せています。次に何を見せるかということでハタと止まりました。企画はあります。「呑馬術(どんばじつ)」です。馬を丸々一頭呑み込むと言う芸は、元禄時代に塩屋長次郎と言う手妻師が、道頓堀でロングランで興行しています。

 呑馬術をすればきっと話題になるでしょうし、この先多くの舞台チャンスも生まれるでしょう。然し、ここで私は止まってしまいました。生きた馬を出せる舞台がないのです。困っていると橋本会長が劇場を紹介してくれました。然し、その劇場は、道頓堀から離れていて、今まで支援してくれていた商店街や、千房さんからの支援が受けにくい場所でした。「どうしたらいいのか」。解決策が見当たりません。

 私の出した答えは、極めて消極的なものでした。「私をもっと大阪のお客様に知ってもらおう。そのため、毎年小さな会でも開催して、大阪のお客様と仲良くなろう」。そう考えて、小さな劇場で、マジックセッションの開催を始めたのです。それから数年、活動の道半ばで支援者の橋本会長が亡くなりました。

 コツコツやっていればどうにかなるだろう。そう考えていました。然し、時は待ってはくれないのです。人は亡くなるのです。分かっています。分かっていながらどうにもなりません。自身の非力を恥じるばかりです。

 この二日間。ずっと自分の人生を考え続けました。どう生きて行ったらいいか。その答えはまだ見つかっていません。とにかく頭を整理するためにブログを書きました。

 橋本福治会長の生まれは丹波篠山だと伺いました。篠山から大阪に出て来て、大阪一番のイベント会社を興し、100人の社員を育て、多くのタレントの活動を支援しました。享年89。人を引き付ける力のある、誠実な人でした。大変お世話になりました。

合掌。