手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

NHKラジオ深夜便 2

NHKラジオ深夜便 2

 

 この時私は、神田の家で独演会を催していて良かったと思いました。私は若いころから、私の芸に興味を持ってくださった方から、「どこに出ていますか」。と聞かれて、「どこと言って決まったところには出ていないんです」。と答えることに恥ずかしさを感じていました。

 多くのマジシャンは、企業のプライベートパーティーのような仕事ばかりしているために、仕事先に別のお客様を紹介できないのです。多くのマジシャンは、いつでも入場券を買って見に行ける舞台を持っていません。このため、お客様との個別の接点を持ちずらく、結果としてファンを作り出せずにいます。

 私はそれではいけないと考え、毎月必ず一日、神田の家で自主公演を続けていました。この公演はおよそ5年間続きました。その後、コレド室町という日本橋の大きな商業施設のビルの中にある座敷で2年。そして、神田明神に新しくできた江戸っ子スタジオで2年、更に人形町玉ひでに移ったわけです。

 考え方は終始一貫していて、人に尋ねられた時に、紹介できる舞台があることが貴重なのです。こうした場を持つことで、お客様と私の芸がつながるのです。無論そこでは若いものを育てることが出来ます。こうした場はとても大切なのです。

 

 ところで、キョードー大阪の橋本社長は、その後、大阪セントレナホテルでのディナーショウの仕事を紹介してくださいました。高級なホテルで、多くの大阪の著名人が集まり、私の手妻を見てくださいました。その後、ここにいらしたお客様とのご縁により、様々な舞台の依頼が来るようになりました。

 こうして年に一日、二日と大阪で出演依頼が来るようになりました。できることならこのご縁をより深めるために、東京と同様、月に一回大阪で舞台活動が出来たら有り難いと思い、東京のコレド室町のような、座敷を探し始めました。然し、大阪で座敷文化と言うものは東京以上に衰退していて、適当な場所が見つかりません。

 そこで考えを変えて、京都で探してみてはどうかと思い、京都に詳しい、経営コンサルタントをしている、Aさんにお願いして、京都の座敷の女将さんを紹介してもらうことにしました。幸い、私は毎月一回、大阪で手妻の指導をしていますので、その翌日、京都に行って、あちこちの座敷を回り、売り込みをかけることにしました。

 そして、手見せに何か所かの座敷で、手妻をして見せたのですが、正直言って、これは失敗でした。押しかけて行って交渉をして、ただで手妻を見せると言うのでは値打ちがありません。相手も本気で見ようとはしないのです。

 京都の座敷は明日にも消えるかも知れない境遇にありながら、自分の現状にに気付いていないのです。いや、気づいてはいてもどうしていいのかわからないのです。ただなんとなく、ポツンポツンと座敷の依頼が来るのを幸いと、消極的な商売を続けているわけです。

 ここへ東京者の芸人がやってきて、お客様を集めましょう、話題を作りましょうと言っても警戒するばかりです。京都では仕事の話をするのに、した手に持っていっては何も決まらないところのようです。

 また、経営コンサルタントに仕事の拡大をお願いすると言うこと自体が間違いでした。芸能は健康器具のセールスとは違うのです。売り込んで売れるものではありません。買い手がほれ込んで使ってくれない限り、お付き合いは続きません。

 やむなく、小さな座敷はあきらめて、京都の歌舞練場を借り切って、1000人の会場で、手妻の興行をして、マスコミを利用して、話題を作ろうと考えました。文化庁補助金などもいただいて、大きく会を開いたらマスコミなども注目してくれるのではないかと考えたのです。

 この時、Aさんは、京都の俳優や、演出家、舞台方、ダンサー。琴や尺八の演奏家、京都NHKのアナウンサーなどを紹介してくれて、この人たちに出てもらえば、皆さん京都で知られた人たちですから、お客様も来てくれるでしょう。と言いました。そして実際、多くの芸能人やアナウンサーが集まりました。

 ここで私は不安になりました。先ず、二時間の枠の中で、琴の演奏家や、ダンサーに時間を割いたとして、さて実際、私はどれほど手妻が出来るのかと考えたなら、半分もありません。しかも、そこに集まった人たちは、私の芸とは縁もゆかりもない人たちばかりです。手妻の演技とは全く関係ない人ばかりが集まって、ワイワイガヤガヤにぎやかな会議が始まります。

 私は少々不安になって、Aさんに、この人たちに幾ら謝礼を支払うのかと尋ねると、とても支払えないような高額な金額を提示されたのです。Aさんは、私が文化庁の支援金がもらえることを過大に考えているようでした。しかも、歌舞練場と言う京都の有名な劇場に出られると言うことで出席者は勝手に話が盛り上がっています。

 然し、まず支援金は私の手妻に支払われるものですし、歌舞練場は、私の手妻を見せるために借りる場所なのです。私は、Aさんに「この人たちは、一人何枚くらい切符を負担してくれますか」。と尋ねると、「皆さんゲスト出演するわけですから、切符負担はありません」。と言います。「でも、皆さん京都で有名人なのですよね、そうなら、それぞれお客様がついていて、お一人30枚や50枚は切符が売れるのではないですか」。「いや、そんな失礼なことはできません。あくまでゲストとして出演してもらいます」。「はぁ、なるほど、そうなら、1000人入る劇場で公演したとして、私が売れるチケットはせいぜい100枚と言うところでしょう。あと少なくとも500人分のチケットは売らなければいけませんが、どこで売ったらいいのでしょうか」。

 言われてA さんは絶句します。「それはみんなで手分けして売ります」。「その皆さんは始めからチケットを売る気はないのですよね。誰が売りますか」。ここで話が止まります。

 結局のところ、A さんが仲間にいい顔をするために、毎回私が食事を提供して、彼らがやりたいことをやろうとする企画に私が費用を出して、舞台を借り、切符を私が売ると言う構図が見えました。

 この三年間は、経営コンサルタントの言いなりになって金を使いましたが、結果は私の夢にたかられていたのです。人を頼れば結果はこうした結末なのです。私は帰り際、京都駅の喫茶店で再度Aさんと話をして、京都の公演を中止にしました。合わせて、コンサルタントの契約も終了を伝えました。

 これで話は振り出しに戻りました。然し、関西での公演をやめることはできません。文化庁の支援金は許可が下りています。急ぎどこかの大きな舞台を探さなければなりません。私は帰りの新幹線の中で考えました。「この最悪の状況からどうしたら最高の効果を作り出せるか。自分ならきっとできる、いやなんとか、最良の結論を考え出さなければどうにもならない」と。

続く