手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

NHKラジオ深夜便 3

NHKラジオ深夜便 3

 

 話は前後しますが、10年前に私が京都でどこか定期的に手妻がしたいと言う話をした時に、知人から、京都で和装グッズメーカー山仁の経営者、山本さんを紹介していただきました。山本さんは演芸好きで、年に数度、山本さんのお宅で、地域の人を集めて寄席を催していました。山本さんのお宅は大変古い町家で、京都市文化財に指定されています。その家の大広間のふすまを取り払って、50人ほど人を集めて落語会を開いていました。

 その企画に私も入れていただいて、年に一回、合計3年ほど手妻をいたしました。お家も雰囲気も申し分ありません。山本さんは人集めから、食事まで献身的にご支援下さいました。とても有り難いことでした。然し、ご自宅で、善意で寄席をしているのですから、私が毎月一回公演することは無理です。

 そこで、何とか毎月一回の公演が出来るようなの座敷はないかと、山本さんにお世話になりつつも、あちこち売り込みを続けました。然し、うまく行きません。歌舞練場での開催も、場所を借りる段取りをして、国から補助金が下りるところまで話が進みましたが、余りに接待費や、謝礼などに費用が掛かりすぎるために急遽取りやめました。

 東京に戻って.対策を練り直しました。まず、文化庁に問い合わせると、会場は京都でなくてもいいと言うことでした。そこで京都を諦めて大阪国立文楽劇場を予約しました。座席数は800です。ここは以前から出てみたいと思っていた劇場です。

 実は、大阪では何年か前にリサイタル公演をしていました。場所は、なんばグランド花月の向かいの、ワッハ上方と言う劇場で、席数350人。小さいですが素晴らしいつくりの劇場でした。3年間定期的に公演しましたが、その後、大阪市の経営難から劇場自体が閉鎖されてしまいました。

 以来、大阪での公演はなくなってしまったのです。でも、その時に私の公演に通ってくれたお客様の名簿があります。大阪で公演するなら、100人や200人は愛好家が集まるでしょう。そこで思い切って文楽劇場を借りてみることにしました。

 然し、借りてみたものの、文楽劇場を満席にする自信がありません。そこで、大阪で抜群の知名度のあるTVプロデューサーの澤田隆治先生に相談をしました。すると先生は、まず国立文楽劇場を借りたことをほめてくれました。

 「国立劇場で公演するとは随分思い切った企画だね。文楽劇場ならばみんな注目してくれる。いい宣伝になる」。

と言って、すぐに地元の有力者を何人か紹介してくれました。南の商店会の会長さんの千田さんや、お好み焼きのチェーン店の社長の中井さんなどに話をしてくれました。翌月。私は大阪の手妻の指導の後、ラフなチラシを作成して、大阪市内にある会社の挨拶回りをしました。京都の閉鎖的な対応とは打って変わり、大阪は話が早く、たちまち協力が得られました。

 無論、澤田先生の応援ばかりに頼っていてはいけません。自分自身でも何とかお客様を開拓しなければいけません。マジックショップや、マジッククラブの会長さんに声をかけて、ポスターを張ってもらったり、チラシを配ってもらうように話をしました。マジックリン古林さんと仰るマジックショップのオーナさんは、積極的に支援して下さいました。真田豊実さんは、ワッハ上方の公演以来、度々切符を引き受けてくれました。然し、殆どは訪ねて行ってもうまく行きません。

 指導の合間に、こまめにマジックショップを訪ねて、ポスターを張らせてもらい、チラシを置き、さて、「チケットを10枚預かってくれますか」。と話をすると、ショップのオーナーは下を向いて考え込んでしまいます。「10枚ですかぁ」。「いや、買ってくださいと言うのではありません。置かせてくれますかと申し上げているのです」。「10枚ねぇ」。しかたなく「じゃぁ5枚」。「5枚ねぇ」。と下を向いてしまいます。

 この時私は、自分の置かれている立場を理解しました。頼ってはいけない人たちをひたすら訪ね歩いていたのです。多くは自分の店を維持するのに精一杯の人たちです。そこを頼ること自体が無理なのです。大阪の路地裏にあるマジックショップを訪ね歩きながら私は考えました。

 「60歳を過ぎて、自分のリサイタルのチケットを自分で売り歩かなければならない。結局これまで生きてきた実績など何もないに等しいんだなぁ」。

 と、悟りました、と同時に、諦めているばかりではいけません。こうした時に、どうしたら人生を好転できるだろうか。とひたすら考えました。

「もし、私の人生をスティーブ・ジョブズが歩んだとしたなら、彼ならどんな風に生きるだろう。彼も大阪の細い路地を切符を持って売り歩くだろうか」。

自分はどこか自分が間違った生き方をしているのではないかと思いました。

 

 その時、ふと、キョードー大阪の橋本福治社長のことが思い出されました。相談すれば協力していただけるかもしれません。いやいや、私のような、大した技量もない手妻師など応援してくれるわけがない。お願いするだけ無駄だ。そう思いましたが、でも、もしやと思い、東京に戻ってすぐに手紙を書きました。

 するとすぐに橋本社長さんから直筆で、丁寧なご返事が来たのです。内容は、「支援をしたいから、来月会社に来てください」。と書いてあります。

 翌月、キョードー大阪の本社に行って驚きました。会議室に通されると、そこには社長から専務から部長から、営業部長から、役員の皆さんが並んで待っていてくれたのです。何事かわかりませんが、橋本社長さんが仰るには、

「支援します。さっそく宣伝活動をしましょう。先ず新聞社5社を集めて、プレス会見をします、場所はここでいいですか。そしてテレビ局に声をかけて、宣伝のできる番組に出演してもらって文楽劇場の宣伝をかけます。朝日放送系列でいいですか。来月から本番までの、大阪に来る日を知らせてください。その間にテレビやラジオのスケジュールを作って宣伝をかけますから」。

 あまりの突然な話に、ただただ驚くばかりです。私は、

 「いや、それほど大きく宣伝していただかなくても、あの、私の方でできるお礼はわずかしかできませんが」。「結構です。そんなことはどうでもいいのです。とにかく劇場がいっぱいになるように私の方でも動いてみます」。

 なんと言うことでしょう。一か月前までは、自分で大阪の路地裏をチケットとポスターを持って売り歩いて、5枚のチケットすら断られて、どうしていいか悩んでいたのに、この日は、大きな本社の会議室で、役員全員を集めてマスコミを使っての大々的な広報の話です。人生が180度ひっくり返った瞬間でした。

続く