手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンとは何者

マジシャンとは何者

 

 まだ私の頭の中は昨日書いた感想文、ユージン・バーガー著「マジック&意味」の世界を彷徨っています。但しここからは私の考え。

 現代でマジシャンと言う職業を選択して、それで収入を得て生きて行くと言うことは、いろいろな意味で難しい時代になって来ています。そもそも、現代の観客は、呪いや、予言、魔法を本気に信じてはいません(全くいないわけではありませんが、かなりコアな人達でしょう)。

 いたとしてもそうした人たちが信じているのは、占い師であったり、霊媒師などの、通常マジックとは区別された世界の人達でしょう。マジシャン自身も、彼等とは違った種類の職業である。と考えています。マジシャンは、魔法使いを装ったエンターティナーと自認して、活動をしている場合が殆どです。

 つまり初めから、「自分には魔力はなく、アイディアや修練によって、不思議を作り出している」それがマジシャンであると信じているのです。マジシャンは、エンターティナーであることを公言しているわけです。

 それは結構なのですが、そうした人達が舞台に出て来て、長々ギャグを話し続けて少しもマジックが始まらなかったり。お客様を舞台に上げて、舞台に不慣れなお客様を肴に笑いを取ったり。30秒に一回ギャグを喋るのに、不思議は5分間に一度、お終いにカード一枚が当たるだけ。

 こうしたマジシャンは、「不思議」と「ギャグ」を同じ価値と考えて、どちらでも観客に受ければ観客の満足度は一緒だと思っているようです。何を隠そう、実は私も20代のころはそう考えていました。

 然し、そう言うマジシャンを世間が本当に求めているのかどうか。そもそも、マジシャン自身が、魔法使いとか、予言者とか、呪い師とか、そうした人たちの存在を信じていないのです。信じていない人が魔法使いや予言者を装っても真実味は薄く、お笑い芸人なのか、マジシャンなのか、曖昧な芸になってしまいます。

 と言って、マジシャンの存在を本気で信じて、マジシャンらしい仕草や、三角帽子をかぶって、縒れた杖を持って長い服を来て、毎日生活している人がいるとするなら、その人は、明らかに時代錯誤です。それは街中で忍者の格好で歩いて見たり、琵琶法師となって彷徨っているのと同じことです。

 私などは手妻師をしていますが、まさに手妻師となって、和服を着てマジックをすることは、昔の魔法使いや、忍者や、琵琶法師と紙一重の存在なのです。然し、ここに紙一重(紙一枚の隔たり)があることで現代でも手妻は、職業として成り立っているわけです。ここでは紙一重とは何なのかを説明しませんが、ただ手妻だと言って着物を着てマジックをしても、現実には仕事に結びつきません。

 さて、自分に魔法の力がない。そんなマジシャンが舞台に上がって何を演じるべきなのか。先日、ユージンさんの感想でも書きましたが、魔法を演じた後に、「今やったことは、マジックショップへ行って、仕掛けを買えば誰がやっても出来ますよ」。などと言って良いものか。

 そんなことをすれば、目の前で不思議をみて感動していた観客を失望させてしまいます。これではいつまで経っても支援者は増えません。現代に魔法使いで生きることは困難ではありますが、そうであるならどういう位置からマジックをアプローチして行ったらいいのでしょうか。その答えになるかどうかはわかりませんが、3つのことをお話ししてまとめとしましょう。

 

1つは、卑下せず、否定せず、本気で演じること。

 ドラマで医者の役を演じる俳優が、「自分は本当の医者ではありません」。とは言いません。当たり前です。その当たり前のことが、マジックの世界ではマジシャン自身がしばしばマジックを否定します。なぜそんな不用意なことを言うのかわかりません。どんなことでも、真剣に前向きにやり通さなければ、支持者は生まれません。人が魔法使いを信じるか、信じないかなどどうでもいいのです。

 自身が作り上げるべき魔法の世界を、しっかり創造して見せなければ、マジシャンとして存在する意味がないのです。19世紀のマジシャンはほぼ占い師や、呪い師と同業でした、そうした人たちと現代のマジシャンでは余りに生き方が違います。

 然し、根底に流れている考えは同じではないですか。いずれも人助けなのでしょう。占い師にすがって来た人に指針を示すこと。寄り添って一緒に考えてあげることは

人助けになっているのでしょう。そこに本当に魔力があるかどうかは二の次なのでしょう。

 現代のマジシャンは、人助けを、娯楽に置き換えてしまって、人の心を救う活動が失われています。予言が当たったこと、選んだカードが当たったこと、現象が段取り通りにできたことが成功なのではなくて、それが人の心を救っているかどうか、人の心に届いているかどうかが肝心なのです。もう一度魔法使いの原点に戻って考え直すことの大切さをユージンさんは語っているのです。

 

二つ目、他のジャンルをつまみ食いしない。

 舞台に出て来てギャグを連発するマジシャン、踊りを踊る、歌う、当人は人を楽しませるためにやっていることで、いわば善意なのでしょうが、本当に観客が楽しんでいるのかどうか、そこに確証を得なければいけません。その芸が時間つなぎに見えたならすべて偽物です。不思議を作り出さずにギャグを言い続ける行為がいけないのではありません。ギャグが三流だから評価されないのです。

  私が子供のころ、三味線を弾いたり、踊りを踊ったり、義太夫を語ったり、鼓を打ったりして、30分でも1時間でも舞台を務める漫才さんがいました。今考えるとその芸はすべて三流でした。いわば単なる時間つなぎでした。

 いろいろ長く演じることはできても、そうした芸人さんの地位は低いものでした。現代でも、サーカスにいるピエロが、マジックをしたり曲芸をしたり、風船を膨らませたり、いろいろ芸をしますが、どれも心に残りません。それと同じです。

 肝心なことは先ず自身のマジックを確立することなのです。先ずマジックが出来上がっていなければすべて偽物です。逆に言えば、マジックがしっかりできていれば、自分が素人芸に頼る必要はないはずです。

 

 三つ目、魔法を演じることは高貴で、知的で、愛情溢れた行為です。

 この事を心に刻み付けておいて下さい。それでないとマジックは、奇人変人、見世物レベルから抜け出ることは出来ません。マジシャンが今に生きると言うことがどういうことか、マジシャンとして自分が何をなすべきなのか。よく考えることです。

 マジシャンが、物が出た、消えた、カードが当たった、はずれたと言う、即物的な話から離れて自分の世界を考えない限り、現代のマジシャン像を創り出せません。そこに答えを出さないと、忍者が街を歩いていることが不自然なように、レストランで、バーのカウンターで、舞台で、マジックを見せているマジシャンそのものが不自然に見えてしまいます。どうしてもそこに居なければならない人になってこそマジシャンの存在が求められるのです。

続く