手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の奇術師

昭和の奇術師

 

 私は子供のころから親父について行って演芸場や、さまざまなイベント会場に行き、舞台の袖や、客席で様々な芸人やマジシャンを見ました。小学校に入りたての頃は、漫才や落語、講談はよくわかりませんでしたが、子供が見ても面白かったのは、曲芸や、アクロバット、独楽廻し、百面相、腹話術、マジックでした。

 当時はまさか自分がマジシャンになるとは思っていませんでしたので、演技の内容はあまり細かくは覚えていませんが、昭和35年くらいのマジシャンは、片手に衣装バック、片手に道具の入ったバックを持って楽屋に入って来ます。今考えると、二つのバックはどれも小さく、道具の入ったボストンバックにしても、今日のスーツケースの半分くらいのサイズだったと思います。

 道具の中身は、譜面台の三脚を改良したテーブルが一台、あるいは二台入っていて、テーブルはビロードがかかっていて、大概そこに太い文字で名前が書かれていました。バックの中身の大半分がテーブルで、後は、ロープ、新聞紙、ハンカチ、グラス、ローラー印刷機、取りネタはタンバリンか、メリケンハット、技物のカードや四つ玉などをする人は殆どいなくて、カードでも簡単な当て物だったり、とにかくびっしり小道具が詰まっていました。

 どのマジシャンも30分くらいの演技は普通で、演技の途中で次の演者が来ないから少し伸ばしてくれ、などと主催者に言われると、平気で1時間演じたりもしました。その時は、道具を増やすわけではなく、一本のロープを使ってロープの様々な演技をひたすら演じ、紐で腕を縛って脱出して見せたり。その紐を鋏で切って繋ぐものを数種類演じたり、しまいには簡単なロープ切りの種明かしをしたり、とにかくロープ一本で楽々30分は演じていました。

 その当時の演技はどの師匠もスローで、しかもよくお客様を舞台に上げて手伝ってもらったりして、随分と長く時間をかけて演じていました。

 昭和30年代は、カセットテープや、CDなどはありませんでした。大概の演芸会にはアコーディオンの演奏者を頼んで演奏して貰っていました。時には三味線太鼓の時もありました。少し予算のあるところではサックス、ギター、ベース、トランペットなどの小さな編成のバンドが入っている時もありました。

 演奏者がいないときは、各自が用意のレコードを持ち込んで、舞台袖にある電蓄(電気蓄音機の略)と言う、小さな再生装置でレコードを流して、それをマイクで拡声して使用していました。そのためにマジシャンは常にドーナツ版(直径17センチで45回転のレコード)と言うレコードを数枚持っていて、演技に合わせて裏方さんにかけてもらっていました。

 ところが、この担当者が専門家ならばいいのですが、とりあえず舞台周辺で暇にしている親父さんを頼んだりするとこれが大変で、ドーナッツ版ですから、45回転なのですが、間違えて78回転で掛けてしまったり、78回転ではとんでもなく早回しになって、チャップリンの活動写真を見ているようになって、客席は大笑いでした。裏面と表面を間違えてかけたり、電蓄の針の扱いに慣れていない親父さんが、レコード盤の上からいきなり針を落として、ぶちッと物凄い音がしたり、音楽が途中から入ってしまって曲と演技が合わない等々、とにかくめちゃくちゃでした。

 この時代のマジシャンは一つの演技時間が長く、メリケンハットでも10分から15分は演じていましたし、リングも10分、ロープも10分は演じていました。シルクマジックも簡単な手順で演じていましたが、シルクが使い過ぎて、よれよれのシルクを拳の中に押し込んで、色変わりや、サムチップをしたり・・・。余り鮮やかな芸には見えませんでした。それでもマジックを見慣れていない私には不思議な世界でした。

 このころ見たマジシャンが誰であったか、その後にいろいろ手繰って行くと、松旭斎一門の良子、天春、天花、天静、すみえといった各師匠。この辺りは一流レベルのマジシャンでした。アダチ竜講師などは大看板でした。勿論おかしな舞台はありませんでした。そうしたマジシャン以外の、あまり知らないマジシャンが奇妙な舞台をしていました。今考えても全く思い出せないような人達でした。

 東京で伝統的な手妻を残していた一徳斎美蝶師は、一度だけ見ましたが、残念ながら私が10歳くらいでしたので、何を演じたのかは記憶にありません。積み木のバランス芸や、皿廻しと言った曲芸を演じたことは記憶しています。口上で「積み木と積み木の間には毛ほども隙間はございません」。と言ったのを記憶しています。毛ほども、という言い回しが子供にとっては面白かったので覚えています。

 私と手妻のつながりはそれだけでした。その後12歳になって松旭斎清子の弟子に入り、いろいろ習いましたが、この時にはすでにギャラを貰って一人で舞台に出ていました。そのため、あちこちの師匠と縁が出来て習いに出かけています。清子はそれに対して苦情は言いませんでした。

 清子は一人で演じる時もあり、弟子の清花を使うときもありました。私も何度もついて行って手伝いをしました。清子は常に着物を着ていて、舞台は和風でした。然し内容は手妻と言うわけではなく、パラソルチェンジ、トランプ当て、新聞と水、タンバリン。リング。毛叩きの色変わり、パン時計の変形で、三重ボックスからお客様の時計が出て来る箱、袋抜け。等、殆ど西洋マジックをしていました。私もそうしたマジックを習い、その中に連理の曲などの手妻が幾つかありました。その頃はどれが西洋マジックで、どれが手妻かの違いも分からずただ新しいことへの興味で習っていたのです。恐らく清子自身も、自分が西洋マジシャンなのか、手妻師なのか、全く認識していなかったでしょう。松旭斎の一門はそうした人が多く、少なくとも昭和の40年代半ばまでははっきり西洋マジックと手妻を区別して、演じ分けて見せる人は少なかったのです。

 当時を考えてみると、何でもありの雑多なマジックでしたが、こうした師匠連中が修行した時期と言うのは昭和初年で、当然ながら徒弟として修業をした人ばかりでした。当時はマジック教室などなく、デパートの販売などもほとんどなかった時代です。

 それだけに、マジックの種仕掛けは一般に知られておらず、演者もタネを大切にしました。演目は少なくても、どれも巧かったと思います。中には今見たらおかしなハンドリングもありましたが、それは60年前のマジックと今のマジックを比べることに無理があって、個々のマジシャンの巧拙ではなく、時代が至らなかったのです。少なくとも今のマジシャンよりは一つ一つの演技が丁寧で、細かな所作が手慣れていました。マジックからさりげない職人芸を見ることは、今ではもうあり得ないことです。

 続く