手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人の行かぬ所に花あり 1

人の行かぬ所に花あり

 

 ブログにも度々書いていますが、私はかれこれ60年近くマジックを続けています。その間ずっと同じマジックを続けていたわけではありません。初めのうちは簡単なネタ物のマジックを喋りながら演じていました。十代前半のころです。

 それからスライハンドを始めました。カード、鳩、ゾンビボール、ロープ、リングなどです。十代の末から二十代の中頃まで続きました。

 その後はイリュージョンを始めました。二十代から30代の半ばまでです。折からのバブル景気で、イリュージョンショウは大忙しになりました。

 バブルが弾けて以降は、手妻を始めました。以降ずっと今日まで手妻で活動をしていて、多分、このまま手妻師として一生を終えるものと考えていました。

 ところが、ここへ来て、私のスライハンドの演技を求める人がかなりいて、半信半疑ながら、演じるようになりました。もう一度昔の手順を組みなおしてみようと思うようになりました。今は少しずつ昔の手順を稽古をしたり、新しいアイディアを加えるなどして自身の演技を考えています。

 

 十代のころは、何もわからないままマジックの面白さだけで手当たり次第にマジックをしていました。元々マジックの才能があってしていたわけではありません。芸人だった親父が面白がって私を舞台に上げてくれたのです。

 初めは子供でしたから、下手なマジックでも、周囲が面白がってパッと仕事が来ましたが、十代も半ばを過ぎると、なかなか買ってもらえなくなりました。そこでこれではいけないと、スライハンドを始めるようになったのです。その時にあちこち訪ね歩いて、人のやらないハンドリングや、テクニックをいろいろ学びました。

 多くのマジシャンは、道具を買い求めることはしても、ハンドリング一つに授業料を支払おうとはしません。私は、自分自身のスライハンドの才能に自信がありませんでしたので、随分と人を訪ね歩いて授業料を支払ってマジックを習いました。

 結果として、それが今になって役に立っています。師匠の松旭斎清子からは蒸籠や連理の曲などの手妻を習いました。松旭斎千恵先生からは12本リングを習いました。二代目松浦天海師から初代天海師の様々なハンドリングを習いました。高木重朗先生から、陳徳山の中華蒸籠や、ロープやシルクのマジックを習いました。渚先生からは鳩や、カードを習いました。お陰でどうにか格好のつくマジシャンになれて、結構忙しく活動するようになりました。

 その時に、なるべく人のやらないものを多く学びました。例えば、リングは、当時はみんなが3本リングを演じていたのです。スローな演技で、静かに演じる3本リングが当時のマジック愛好家には、見た目に高尚で高貴に見えたのでしょう。

 私も無論3本リングは学びました。然し、実際舞台で演じたものは、当時のマジシャンが演じることのない12本リングでした。12本リングは造形づくりが入るため、当時の奇術家の多くは、「つなぎ外しの本質とは何ら関係のない造形などやる意味がない」。と真っ向から否定していたのです。

 然し、12本リングの素晴らしさは、初めに全部改めて見せることの不思議さ。途中のハンドリングが今では世界中の手順の中のどこにもない極めて個性的なこと。更に、6本リングにない派手な造形など。見るべきものが満載です。

 しかも、旧来の手順を私がスピードアップして、後半はセリフを省いて、音だけで進行するようにしましたので、演じた後にカタルシスを感じさせるほどの小気味よさを体感します。これが面白いのです。

  昭和40年代は12本リングにとっては逆境の時代でした。そんな中、私は50年間ずっと演じて来ました。幸い今では私の12本リングの支持者はプロの中にも増えました。無論、多くの一般のお客様にも支持されています。

 同様にサムタイです。これも天洋師が演じて名人と呼ばれていましたが、若いマジシャンで演じる人が少なく、昭和40年代にはすでに埋もれているような芸でした。これに自分の工夫を加えて、得意芸として演じるようになりました。

 考えてみると、私は、人のあまりやらないマイナーな芸ばかりを狙って演技してきました。それが結果として、私のやることが個性的で物まねでない芸能に見えて、私を買ってくれる仕事先が多かったのです。実際、20代30代の私は、サムタイと12本リングを演じない日はありませんでした。

 

 その後にチームを作ってイリュージョンに移行しました。昭和50年代の日本では、イリュージョンと言う仕事は、ほぼ東京、大阪と言った大都市に住むのマジシャンが独占していました。地方都市ではイリュージョンチームと言うほどのものは育っていなくて、夫婦でマジックをしていて、スライハンドのお終いに、ヒンズーバスケットや、竹の棒の浮揚などを演じる程度のイリュージョンが殆どで、大きなチームはなかったのです。その東京ですら、4~5組のチームしかなく、かなりこのジャンルはねらい目ではあったのです。

 ところが、そうであるなら、みんなが大きく稼いでいたのかと言うと、必ずしもそうではなかったのです。なぜかと言うなら、その内容が類似していたのです。

 演じる道具がどのマジシャンも、人体交換箱、ジグザグボックス、竹の棒の浮揚。ヒンズーバスケット、とお決まりの4点ばかりを演じていて、例えば、毎週日曜日に客寄せでスーパーの吹き抜けで演じているショウにマジックを頼むと、人は変わっても演じるイリュージョンは誰も同じ。と言う状況だったのです。ショウを入れている事務所の人からは、「藤山さん、竹の棒の浮揚や、ジグザクボックスでないイリュージョンを持ってきてください」。とわざわざ念を押される始末でした。

 そこで、私は、イリュージョンをやるからには人と違う内容をしなければ意味がない。と思い、自ら図面を引いて、オリジナルイリュージョンの製作を始めました。これは大変に費用と時間のかかることで苦労しましたが、結果、後発でイリュージョンに乗り出しながらも、大きな仕事を手に入れて、バブル期には随分いい仕事をしました。バブル期にイリュージョンをしたから稼げたのではなく、人のやらない作品を作ったことが成功したのです。

続く