手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

クラシックマジック

クラシックマジック

 

 以前ブログに書きましたが、今私は、スライハンドマジック(指先の技巧マジック)を手順を作りつつ練習しています。それらはかつて、10代20代のころやっていたものがベースになっていますが、その後にイリュージョンを演じるようになったり、手妻(日本の古典奇術)を演じるようになると、スライハンドは演じなくなりました。

 演じなくなったのは、昭和60年代ですから、もう40年近くなります。その頃は、スライハンドマジシャンも大勢いましたので、そうした人たちと私が競っても私に成功はないな。と思ってやめたのです。すなわち私は大して巧くなかったのです。

 さて、それが、どうして今になってスライハンドの練習を始めたのか。と言えば、数年前から、マジック関係者から、「リングを見せて下さい」。とか「シンブルが見たい」。とか「カードの手順をやってほしい」。とか、頻繁にリクエストを頂くのです。

 つまり、少数ながら私の手わざを見たいと思っている人がいるのです。それは有り難いことですが、今更私がなぜ、どうしてスライハンドをしなければならないか。と考えると、そこに戻る理由がないと思っていたのです。

 然し、半年くらい前に考えがひらめきました。これも既にブログに書いたことですが、「スライハンドを古典と考えて、古典として演じたなら、私のやるべきことがあるのではないか」、と。それなら私は以前自身のリサイタルで実験をしています。

 それは松旭斎天一の生誕120年記念か何かで、私が天一になって、明治時代のマジックを演じたのです。内容は、スライハンドだけではありませんでしたが、ビヤダル。12本リング、トランク抜け(人体交換の原型)、などなどをまとめて演じてみたのです。この間私は天一先生になり切って、2時間の間、ずっと口髭を付けていました。

 この、役になり切って明治時代のマジックを演じる。と言うところが、古いマジックを古典として肯定して演じる手段だ、と考えてそうしたわけです。120年前のマジシャン(人物を特定する必要はありません)を想定して、その時代を表現して行く。と言うのは演劇を演じることと同じです。

 単純にカードを出すことが巧いか不味いかという、テクニックだけを見せようとするマジックとは違います。多くのマジシャンは不思議に拘り過ぎるのです。誰しも不思議なことには興味はありますが、でものべつ不思議だけを追い求めているわけではありません。不思議はストーリーのアクセントでいいのです。そんなことよりももっともっとお客様に伝えなければならないことはたくさんあるのです。スライハンドマジックはそのことの気づかなかったのです。それゆえ時代から取り残されてしまったのです。

 客観的にスライハンドを見直せば、演技に背景を作ることもできますし、観客にストーリーを提供することもできます。不思議を超えた感動も作り出せるのです。これならまさに私の仕事ではないかと考えたわけです。

 但し、その考え通りにマジックを演じてしまうと、使い古されたマジックを工夫もなく演じることが許されてしまいます。演劇とマジックの違いはここにあります。時代設定をして、昔のマジックを演じつつも、マジックは常に前進していなければならず、不思議は斬新でなければならないのです。

 

 ジェームス・ディメール(アメリカの現役マジシャン)が、1920年代のスタイルを演じつつ、フレッド・アステアのような動きをしながら、ダンスを取り入れ、スライハンドを演じる姿は、まさにそれで、スタイルは古いのですが、決して1920年代の特定のマジシャンの真似をしているわけではなく、やっていることは現代の彼が考えたアイディアなのです。彼のやっているマジックは1920年代のマジシャンではできない内容を演じているのです。

 つまり、古典の形を借りて、現代のマジックを演じているわけです。これは、例えば、落語の世界も似ています。形式は100年も200年も前のスタイルを守りながら、その時代の話、「文七元結」だの「船徳」だのを演じて、ストーリーは昔をなぞっていても、必ず演者の考えが加味されて、どこかで現代を語っています。

 それはあえて私がここで言うことではなく、古典と称するものは歌舞伎でも能狂言でもすべてそうしたものです。マジックでも、手妻でも、そこに時代背景を考えて、古典として演じつつ現代の自分の考えで語って行く、という手法が根付いて行けば、マジックと言う芸能は、一段も二段も内容が深まります。

 ところが、ここを、多くのマジシャンは深く考えずに、勘違いの演技を繰り返しています。そもそも古典という意識がないままにマジックをしてしまうと、今のスライハンドは内容が中途半端です。スタイルが古いですし、今に伝える内容が希薄です。

 古典を演じるなら、古典のルールを守って演じなければならず。そこから現代を考える方法はかなり限定されたものになります。手妻で言うなら、ただ着物を着て、やりたいようにやっていては古典ではありませんし、ましてや現代に語り掛けるメッセージは聞こえてきません。

 と言って、余り逸脱しては、古典になり得ないのです。その点を、私は既に手妻でいろいろ実験して来ましたので、一見古い芸に見立てて、その実新作であったり、古いマジックをアレンジして、今のマジックにない考え方を提供してきたわけです。

 それをそっくり西洋マジック(言い方が古いですが)の中で、スライハンドを古典と位置付けて、スライハンドの持つ考え方の面白さを見直してみよう。併せて、時代背景を語って行けば、それは立派な古典になり得るのではないかと考えました。

 

 と、余りまだできてもいない演技を先々語ってしまうと、後で自分で自分を苦しめる結果になりますので、この先は秘密にしておきましょう。それよりも、私が40年も前に演じていたスライハンドを今演じて、それがマジック関係者に認められるものかどうか。私は少々自分自身に懐疑的でした。

 然し、先日大阪の公演で演じてみたところ、大多数のお客様は面白がって受け入れてくれました。有難いですねぇ。そうなら、この先折に触れて、スライハンドを演じて行こうと考えています。さしあたっては、今月13日の高橋司さんと、中島さんが主催するレクチュアー、エクセレントコース、インマジック。がありますので、そこで、私がレクチュアーをする内容を織り込んで、カードマニュピレーション手順を演じてみようと考えています。

 13日、6時45分から、秋葉原の音頭会館と言うところで致します。高橋司さんをネットで調べてみて下さい。分からない場合は東京イリュージョンまで。03-5378-2882。完全予約制ですので、必ず申し込みをしてからお越しください。レクチュアーの内容は、基礎をじっくりと指導します。

続く