5枚カード
一昨日(11月13日)は富士に指導に行き、昨日(14日)は、午前中は高校生の朗磨君の指導。午後はザッキーさん、早稲田康平さん、小林拓馬さんの指導をしました。このところ舞台が少ないため、私の活動は指導が主になりました。一か月の内10日間くらいは指導をしています。
これまでの人生が殆ど舞台出演することで生きてきたのですが、コロナ以降、これほどマジックの指導ばかりすることになるとは想像もしませんでした。こうして、私のところに若い人たちが習いに来るのも、私がこれまでいろいろな人からマジックを習ってきたお陰です。私が10代20代に覚えたことが今になって役立っているわけです。
私が覚えて演じて来たマジックや手妻は、今となっては誰も知らないことがたくさんあります。弟子にしろ、生徒さんにしろ、それが貴重であることを知って習いに来るわけです。
毎月一回習いに来る朗磨君は群馬に住んでいて、ロシア人のお母さんと日本人のお父さんとのハーフです。高校生ですが、手妻が好きで、お父さんに着物や袴を買ってもらい、もう一年以上私のところで手妻の稽古を続けています。
彼の希望は手妻の指導だけなのですが、基礎指導も必要だと思い、マジックと手妻の両方を指導しています。そのため、個人レッスンで毎回2時間指導しています。
「マジックと手妻のどっちが面白い?」と尋ねると、断然手妻の方が面白いそうです。私が中学高校時代に手妻をしていると、周囲のマジシャンはみんな「そんな古臭いことをしていては売れないよ」。と言いました。
今、こうしてマジックより手妻の方が面白いと言われる時代が来るとは想像もしていませんでした。ロシア人の血の流れる高校生がこの先どんな風に育って行くのか、楽しみです。
午後は、ザッキーさん早稲田さん、小林さんのプロ、セミプロの皆さんに指導しました。ここはファンカードから5枚カードの稽古をしました。
日本では普通、ファンカード、5枚カード、ミリオンカードの3種目を組み合わせてカードマニュピレーション(技巧的なカードマジック)の手順を作ります。
ところが欧米では、ファンカードと言う種目がありません。ファンの技法は断片的なものばかりで、手順と言うほどに形になっていません。多くはカードの連続出し(ミリオンカード)か、5枚カードに限られます。
しかもアメリカ人は不器用な人が多く、地味な5枚カードの演技は敬遠されて、演じる人がほとんどいません。私が世界大会のロビーなどで稀に天海の5枚カードを演じたりすると、マジシャンが山ほど集まって来て、何度も所望されたりします。そのため彼らがカードを演じる時は思いっきり狭い内容になります。
カードを扇状に広げることで様々な変化を表現するファンカードのアクトは今では日本にしか残っていない可能性があります。然し、カードを学ぶために、スタイリッシュなファンカードはとても大切なのです。もともとカードの縁具はスタイリッシュなものだからです。
私のファンカードの技法は、初代天海師のものを、松浦天海氏から学んだものが元になっています。天海師のものは難しい技法が多いのですが、どれも美しく、演じていて気持ちのいいものばかりです。私の弟子は、マジックは基礎学問として学んではいますが、舞台で生かすことはほとんどありません。みんな手妻のみを演じる人が多いためです。然し、できることなら、タキシードを着る機会を作って、少しでも先人の技法を舞台で演じてほしいと思います。
さて、5枚カードですが、これは全く天海師の技法です。相当に難しい技で、10代の頃から随分稽古をしてきました。実際のショウでも随分演じました。
もう私が舞台でカードを演じなくなって30年以上経ちますが、最近また稽古をするようになって演じて見ると、かつて10代20代の時に向きになって演じていたころとは違い、ゆとりを持ってできるようになりました。
そうなると「これも芸能としていいものだなぁ」と感じ、どこかで演じて見たいと言う気持ちになって来ました。
5枚カードと言うのはスライハンドの中では随分古いマジックで、スライハンドの歴史とほぼ同時に、150年くらいの歴史があると考えられます。
5枚のカードを空中から、一枚ずつ出し、また、一枚ずつ消して行く。単純な現象を組み合わせたものから始まり、徐々に技法が加味されて、5枚カードと言うジャンルが生まれました。
かつてはどんな5枚カードを演じるのか、と言うことが、マジシャンの技量を測る物差しと見られた時代があったのです。
日本で初めて5枚カードを演じたのは、松旭斎天二です。彼は天一の芸養子で、天一天勝と共に明治34年にアメリカに渡り、4年近くも海外公演を続けました、その時見たスライハンドに魅せられ、天一帰国後もアメリカに残り、アメリカ人から指導を受け、スライハンドを学びました。
欧米も、この時期がスライハンドの隆盛期だったのかも知れません。丁番でつながった四つ玉から丁番が取れて、ボールのテクニックで増減するマジックになって行ったのもこのころです。
天一がアメリカで四つ玉を買ってきたときにはボールに丁番が付いていて、一個のボールが自動的に四個になる単純な道具だったのです。然し、天二が明治42年に帰国をした時に、一座の前で見せた四つ玉はまったく技法のみでボールが増減するマジックになっていました。
それを見た天一は、「俺の知っている四つ玉とは違う」。と言いました。その通りで、この間、四つ玉の技法が発達したのです。天二の技法は、四つ玉も、5枚カードも、コインも、どれも天一一座の座員には全くタネの糸口すらつかめませんでした。
帰国後、天二は天一一座に戻って日本全国を回りますが、たちまち人気を博します。座員の中には天二からスライハンドを学びたく天二に接近しますが、天二はそうした座員を冷たくあしらい、仕掛けのセットも布で囲って誰にも見せません。舞台の横から見ようとすることも嫌がりました。
一座にいた天海、天洋はそのことを怒り、やがて、天一の死後、天二が一座を引き継いだ時に、みんな天勝の方に寄って行きます。
天二は後に二代目天一になりますが、幾つかの興行で赤字を出し、その都度一座の規模が小さくなって行きます。そして大正10年に40代で亡くなってしまいます。
せっかくの技量を持ちながら、大一座を維持できなかったことが、後継者を作れず、天二の名前は今は消えてしまいました。日本のスライハンドは、その後の天海師に寄るところが大きいのですが、そのことを認めつつも、天二さんの功績を何とか評価し、その技がどこかに残っていないかと探しています。
続く