手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リタイヤ

リタイヤ

 

  昨日(9日)、床屋さんに行こうと、いつもの店 に電話をすると、神妙な面持ちで、「藤山さん、実は店を閉めることにしました」。と言われました。「どうしてまた?」。「いや、もう年なんですよ。83ですから。ずっと立っているのもつらいし、毎日家から通うこともつらくなってきましたんで、店を閉めることにしました」。

 マスターは緒方さんと仰って、かつては六本木で店を出されていて、若くして名人と言われ、店にはたくさんのタレントが来ていて賑わっていたのです。私は中目黒に移ってから、ずっと47年通い続けました。その間他の店に行っていません。

 いや、正直困りました。よその店に行くと言っても、縁のないところでは恐ろしくていけません。思えば髪の毛のことはすべて緒方さんに任せっぱなしでした。その都度いろいろ提案してくれることにも何も反対せず、一切任せていました。パーマをかけた時もありましたし、メッシュスプレーをしたこともありました。サーファーカットにしたことも、かつらを乗せたこともありました。白髪染めも10年以上していました。そしていよいよ全体が白くなってしまって、染めることは諦めて白いままにしたのも、マスターの裁量のままに任せました。

 年齢が私よりも一回り上だとは聞いていました。それでも、いつも身ぎれいにしてらっしゃいますし、背筋も伸びていてスマートですから、年齢を感じさせることはありませんでした。

 それが気付いてみれば、今年83になろうとは、よくよく考えれば私が今年70歳ですから、83になるのは当然なのです。当然ではあっても、実際そういう年齢になったと聞くとショックです。世間で言う83歳はもう仕事はやめています。残る人生は趣味に生きる人が殆どです。

 恐らく店を人に貸すなどすれば、生きて行くことに不安はないのでしょう。それでも、長いこと縁が続いてきた人が一人去ることは寂しいものです。

 それでなくても、この数年は、仕事をやめて行く人が多くなって、寂しい思いをしています。昨年は木工製作の稲辺さんが店を閉めました。随分いろいろ作ってもらいましたが、なんせ私の注文する品物は一回に二、三点ですから、大した仕事にはなりません。もっと会社を儲けさせたら良かったのですが、私には出来ませんでした。

 合羽橋の竹細工屋さんも、昨年店を閉めました。植瓜術(しょっかじつ)の大きな笊を時々買いました。数年に一度の客ですから、これもたいしたものではありません。それでも、大きな店で、いろいろな細工が並んでいたので、出かけるたびに品物を見るのは楽しみでした。

 数年前に真田紐と、ロープを買っていた内田武雄商店も閉めてしまいました。50年以上もロープを買っていた店ですが、コロナを機に閉めました。

 今、活動をしているお店や職人も、いつなくなってしまうかわからない店がいくつもあります。替わりがあるならいいのですが、なくなる店のほとんどは替わりがないのです。需要がないから消えて行くのです。

 思えば、昭和40年代50年代は、新旧入り混じった時代でした。新しい産業がどんどん生まれて行く傍らで、古い技術を残した職人が生きて行ける時代でした。こうした時代は稀有な時代で、我々は、それをごく普通に甘受していたのです。

 職人の作った作品は手間がかかっていて、仕上がったものは、明治や江戸時代を偲ばせるような、独自の雰囲気がありました。全ては職人が見聞きしたり学んだものをそのまま作品にしていたのです。私らは、そうした作品を決して高価とは言えない金額で手に入れていたのです。

 それが一人亡くなると、慌てて同じものが作れる人を探しましたが、そういう人はいなかったのです。一人の職人が持っていた知識や、美的センスは、その人の物であって、ほかにはもう存在しないものだったのです。

 それを知ったときに、「もっともっとたくさん作品を作ってもらえばよかった」。と悔やみます。最近は、そうした職人が失われるスピードが速まっています。漆の椀や盆を販売する店に行くと、いつもの品物がありません。

 「もうあの人はやめてしまったのですよ」。と言われます。一人がやめてしまうと、二度とその作品は見られなくなります。「あれは、いい出来だったのに」。「そうなんですよ、安くて、丁寧な仕事をする人でしたよねぇ」。「日本中を探せば同じものを作る人はいるんじゃないですか」。「いや、技術がしっかりしていて、尚且つ安価で作ってくれる人なんて、どこを探したって無理です」。

 

 そう聞いて、正月の能登半島地震が、この先輪島塗を衰退させてしまうのではないかと思うと心配になります。漆塗りの椀や盆は、これまで旅館などで大量注文があるために生きて来れたのです。旅館は、使用頻度が高いために、塗り物の縁が剥がれたり、蒔絵が擦れたりして、旅館では、年に一度、傷んだ椀の塗り直しを依頼していたのです。新規で売れる分とメンテナンスで直す分があって安泰にやって来れたわけです。

 ところが、最近は安い中国製が幅を利かせていますし、プラスチック製も出て来ています。それでもいいと言うホテルや旅館が出てくると、塗り物はアウトです。中国製に価格で対抗できる職人はいません。結果、取引のある旅館が仕入れ先を変えてしまうと、漆塗りの職人は廃業してしまいます。

 そして職人の息子たちは、腕を磨いて、より高級な漆塗りを作ることになります。旅館でも高級な店はプラスチックや中国製は使わないからです。然し、そうなると、椀の単価は相当に高価なものになります。相手は高価と知って買うのですから、良いものなら売れます。

 親父の代は、たくさんの職人を雇って、大量の椀を旅館に販売していたものが、子供の代では、そんな商売に見切りをつけて一点作りの芸術作品にになって行きます。輪島塗はそうした生き方でないと生き残れないのでしょう。そうなると、私のように、いいものを安く手に入れようとする客ははじかれて行きます。消えるのも寂しいですが、はじかれるのも寂しく思います。

 何かのセリフで、「明治は遠くなりにけり」。と言うものがありましたが、職人が一人二人といなくなってゆくのを見て、あるいは漆器屋さんの棚が寂しくなって行くのを見て、そして床屋さんがリタイヤするのを知って、「昭和が遠くなって行く」のを寂しく思います。

 続く