手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

浅草寿町

浅草寿町

 

 昨日(7日)、久々に踊りの稽古に出かけました。実は去年の暮れあたりから腰痛が出ていたため、しばらく踊りを休んでいたのです。然し、稽古を休むと、体を動かすことをしなくなり、一層腰痛が出る可能性もあります。そこで痛みがなくなったのを幸いに、4月からまた、稽古を始めた次第です。

 三か月も踊りをしないと、前に習っていた振りはすっかり忘れ、しかも、体はなかなかいうことを聞かず、何度も立ったり座ったりする所作がけっこうきつく感じました。何とも年を取ったと思います。

 稽古を終えて、白山上の蕎麦屋で昼食を済ませ、このあと浅草に買い物に行きます。普通なら地下鉄に乗って行くのですが、ここから浅草に行くのは少し不便です。タクシーで行けばそう遠くないところなのですが、2500円くらいかかります。電車だと、本駒込から駒込に出て、山手線に乗って、上野、上野から地下鉄銀座線で浅草。三つ電車を乗らなければなりません。時間がかかる上に費用も600円くらいかかります。

 何かいい方法はないかと考えていると、目の前にバス停があります。そこには浅草寿町行きと言う路線があります。しかも、ちょうどバスがやって来ました。「これはいい」、早速乗ってみました。

 このバスは初めて乗ります。東の地域の繁華な場所を縫って行きますから、結構乗る人も多いのだと思います。この地域は本郷に近く、本郷から、東に進めば浅草は10分もあればいけます。ところがバスはひたすら北を進みます。千駄木を通って、道灌山通に入り、西日暮里まで行きます。随分浅草から離れています。

 

 時刻は昼の一時、乗ってくる人は高齢者が多く、みな定期のようなものを見せながら乗っています。「あれ、ひょっとして、高齢者用のパスポートかな」。そこではたと自分の年齢を考えました。今のところ68歳です。たぶん高齢者パスポートは70歳以上でしょう。

 高齢者パスポートがあれば、都営地下鉄線とバスが無料になるそうです。私に取っては高齢者パスポートなんて生涯無用のものと思っていましたが、そろそろ利用する年齢が来るんだなぁ、と知りました。然し、東京都は、この先もこうしたバラマキ福祉をするのでしょうか。高齢者がどんどん増えれば、その分福祉の負担も増えます。たくさんの若者が少数の老人を支えていた時代はもう終わっています。

 せめてバス代は、学割程度の割引額でいいんじゃないかと思いますが、どうでしょう。でも乗ってくるおじさんおばさんたちは楽しそうにパスポートを見せてバスに乗って来ます。バスで移動が出来て、買い物などできることが楽しいのでしょう。高齢者パスポートがあるお陰で外に出て、遊びに行けるならそれもいいことではあります。

 でも、きっと私が高齢者になったころに、一部負担になるのではないかと思います。バラマキ福祉はやがて破綻します。この先、国も、都も、にっちもさっちも行かなくなる時代が来ます。案外私らには恩恵は行き渡らないのだろうと思います。

 

 さてバスは、西日暮里駅のガードを超え、さらに北に行って、明治通りに入ります。おやおや、とんでもなく北を走っています。荒川区役所を通り、この当たりは機械部品の店が並びます。昔、私がイリュージョンなどを作っていた時に、この通りのばね屋さんとか、ゴム屋さんから素材を買っていた通りです。

 明治通りと言うと、原宿あたりの、ブティックや、アパレル産業が並ぶお洒落な地域を想像しますが、明治通りは円を描いて東京を一周します。原宿は西に当たり、北の頂点がこのへん、王子から荒川当たりです。ここらは製造業が多く、表通りは部品屋さんが並びます。もう今では小さな町工場は跡継ぎもなく、閉めてしまうところが多いようですが、でも町工場は実はとても重要な産業なのです。町工場のお陰でどれだけ日本が潤ったか知れません。

 私がアメリカで舞台をしていた時に、鉄製のピラミッドというマジック道具が、半田が外れてしまい、近所の町工場を探して、はんだ付けをしてもらおうと、ロサンゼルスの町中を車で回りましたが、町工場そのものがなかったのです。僅かなはんだ付けをするだけのことが、40年前のアメリカでも、すでにそうした業種が絶えていたのです。

 確かに、つぶさに見れば、アメリカには漆塗りの職人もいませんし、飾り金具を作る職人もいません。あらゆる職人が絶えてしまっているのです。

 今でも少数のコレクターによって、オキトと言うマジシャンの道具が、コレクションとして残っていますが、百数十年前には、マジシャンのオキトの依頼で、精緻な道具を手作りできる職人がアメリカにもいたのです。それは丁番一つ一つ、飾り金具までハンドメイドで、漆に蒔絵が施されていて、まさに芸術品でした。それが1970年代には絶えてしまっていたのです。

 結局アメリカで生活すると言うことは既製品を使うほかはなく、何か創造をしようとすると、日本以上に困難を体験します。実はこの時のアメリカの体験が元となって、私は帰国後、日本の職人を訪ね、手妻の道具を作るようになったのです。

 今まさに日本は製造業が廃れて来ています。実はこれほど危険なことはありません。原宿のようなきれいな街並みは、荒川や王子のような製造業が支えていたのです。これら両方の町があって一つの産業を作っていたのです。この事は数日後にブログに書いて詳しくお話ししますが、物は両面があって一つなのに、日本が片面だけを評価するような国になると衰退がはじまります。

 

 話は街の景色と共に変わって行きますが、明治通りから大関横丁を通り、三ノ輪に出ます。三ノ輪は今も都電の終点駅があります。独特の下町で結構にぎやかです。そこから千束に抜け、いよいよ浅草です。いやはや30分かけて随分遠廻りをして都内見学をしました。でもとても楽しいバスツアーでした。滅多に通らない道を通って、いろいろなことを思い出しました。

 

 浅草に着いて、仲見世の宝扇堂に行きました。センスを10本買いました。以前から頼んでおいたものです。なにも10本も扇子はいらないのですが、このところ、日本舞踊の小道具類がどんどんなくなっています。傘や、扇子は勿論のこと、何もかも足らなくなっています。日本舞踊をする人が急激に減っているようなのです。そうだとすると、表通りで扇子を商う商売もこの先は見られなくなる可能性があります。

 私の力で何とかすると言うことは到底出来ません。せいぜい扇子10本買うくらいのことです。でも昨日まで何でもなく買えたものが、ある日全く買えなくなる時代がすぐそこまで来ています。何とかしなければと思いますが、どうにもなりません。コロナを境に日本の文化が一気に壊れて行くように感じます。今、目に見えている日常の世界は実は虚構なのです。

続く