手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

原宿と荒川

原宿と荒川

 

 8日のブログで、「明治通りは東京を環状に走っていて、アパレル産業の多い原宿が西の端、町工場が多い王子、荒川は北の端、どちらも同じ通りにある」。と書きました。そして、「この両方の町が東京にあることで東京は発展した」。と述べました。

 すると、ブログの読者から、「どうして二つの町が必要なのか」。と尋ねられましたので、そのことをお話しします。

 

 子供のころから私は職人の仕事を見るのが好きだったことは、度々ブログに書いています。家の近所に竹皮屋さんがあって、毎日何百枚もの竹皮を鞣(なめ)していました。無駄なく手が動くさまが面白く、幼かった私は何時間も見続けていました。

 私の生まれた池上(東京都大田区)と言う町は、静かな住宅地でしたが、昭和30年代、40年代は、ところどころ、小さな町工場があって、毎日プレスの音がして、何かの部品を作っていました。つまり住宅街と町工場が混在していたのです。

 友達の家に遊びに行くと、玄関先の土間にプレスの機械があって、友達の両親が夫婦してガチャン、ガチャンとプレス機械で部品を作っていたのです。

 時は高度成長の時代で、友達の家は、やがて、ビルを建てて、従業員を雇いました。

 そのうち、その工場も手狭になって、工場も友達も引っ越して行きました。つまり私は日本の高度成長をはっきりとビジュアルに体験したことになります。

 まだ昭和の時代は住居と職人の仕事が混在していました。商店街の風呂桶屋さんは実際店の土間で風呂桶を作っていました。今は木製の風呂桶は珍しいですが、私が子供のころは風呂は桶が普通でした。平板を削って湾曲させて、何十枚もまとめて、箍(たが)で束ねて人の入る大きな桶を作ります。職人仕事の好きな私にとっては見飽きのしないものでした。

 

 私が浅草松竹演芸場に出演するようになると、舞台と舞台の間の休み時間に、よく合羽橋や、寿町の仏壇屋さんの通りを歩いていました。そのあたりは、表の店から一歩路地に入ると、職人がたくさん暮らしていました。木工職人、旋盤職人。塗装屋。仏師。彫師。鉄鋼屋。あらゆる職人が住んでいました。

 やがて20代でイリュージョンショウを始めると、向島の木工所や、王子の鉄工所を毎日車で移動するようになりました。この時、明治通りを頻繁に利用して、王子から荒川界隈のばね屋、ネジ屋、キャスター屋、ゴム屋、アクリル屋、と言う商店を知るようになります。

 私はマジックのメーカーから既成の大道具を買うと言うことはしませんでした。どんな道具でも自分でデザインをして、アイディアを加えたり、削除したりして、自分で考えたイリュージョン作品を作っていました。

 私が考えたアイディアを形にするのはそれぞれの職人ですが、簡単な絵を渡しただけで道具が出来るわけではありません。絵に描いたり、模型にしただけでは、とんでもないものが出来てしまいます。

 木工職人と鉄鋼職人は全く考え方が違います。彼らはそれぞれ自分が作りやすいものを作ろうとしますので、出来上がった鉄鋼が木工仕事を邪魔するようなことが頻繁に起こります。上手く両方の長所を生かすことは至難なのです。常に私が見ていて指示しなければいいものが出来ません。

 しかも職人と付き合っていると、だんだん職人と言うものの性格が分かって来ます。彼らはちょっとした部品一つでも、探し回ると言うことを嫌います。工房にある、有りものの丁番や、ネジで間に合わせようとします。然し、人に見せるような道具でごつい蝶板など使われてはデザインが台無しです。

 「もう少し品のいい部品を使って下さい」。と頼んでも、職人は、一つ二つの部品のために半日つぶして買い物には行きません。彼らは手間賃で生活しているために、買い物に時間をかける余裕がないのです。「あぁ、職人と言うのは、技はあってもセンスを磨くことをしないんだなぁ」。と気付きます。

 そこで、「3時間待っていて下さい、私が今、金具を探して買って来ます」。と言って、車を飛ばして蔵前あたりの飾り金具を見てまわり、急ぎ職人のところに持って行きます。あるいは、壁紙でも、クロス屋さんを訪ねて、色柄を見て買って来ます。自分の足を軽くして、すぐに仕事に間に合わせる。こうしないと理想の作品と言うものは出来ないのです。

 

 物作りをするときに、10代20代で何気に歩いて、職人仕事を見ていた時のことが役立ちました。記憶があったからこそ、必要な部品がどこに売っているのかを記憶から引き出すことが出来たのです。それもこれも、王子、荒川、向島、浅草、蔵前、と言った職人や、町工場などを見知っていたからできたことです。

 でも、現実に私が仕事場としていた場所は、銀座や、新宿、赤坂などと言ったところにあるホテルでのパーティーや、デパートのイベント等でした。

 つまり、道具が出来たら、それをマジックとして披露する場所は、製造する場所の反対側にある地域だったわけです。

 

 もう、私の話していることがお分かりいただけると思いますが、東京に、原宿や、青山や赤坂のような、華麗なショッピング街があると同時に、王子や、荒川や向島のような町工場や、職人町がある。両方があることが大切なのです。そして私のような、人のやらないものを考えようとする者は、その両方の町を飛び歩いて、一見つながらない業種の人たちをつなげて、作品を作るのが私の仕事なのです。

 案外こんな活動をしている人は大勢いると思います。世の中は作る人だけではどうにもなりません。また、販売する人だけでも駄目です。私のようにふらりふらりと飛び歩いて物と物をつなげる。得体の知れない者が、閃き一つで案外物作りに役立ちます。

 そもそも、指物師や、漆塗り職人が、マジックの道具を作ることになるとは考えもしなかったでしょう。ある日マジシャンが訪ねてきて、次々と大道具の依頼をしてゆくと言うストーリーは全く予測不可能です。

 水芸の装置も、木工と鉄鋼、水道配管、飾り金具職人の合作によってできています。それぞれの職人がいくら考えても、水芸の装置は思いつかなかったでしょう。全く偶然の産物なのです。製作して40年経ちましたが、今も現役で生きています。しかしもう一台作ってくれと言われても、もう不可能でしょう。亡くなった職人もいます。今となっては貴重な装置です。

 創作をする者にとっては製造業や職人はまさに宝の山です。職人がいなければどんな想像も作品にはなりません。多くの職人を知合えたことは幸せだったと思います。

 然し、今どんどん職人が廃業して行っています。勿体ないことだと思います。かつて多様だった東京の町が、平面の、ありふれた町になりつつあります。変化に富んだ魅力のあった東京がつまらなくなってゆきます。何とも残念です。

続く