手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ご近所の話 5 明治通り 2

 昨日は倉持賢一さんが来て、youtubeに私の映像を載せようと言う話になり、取りあえず2本動画を撮りました。私がブログを書いているのを見て、「最近の若い人は長い文章を読みたがりません。今ブログでしていることを映像で語ったほうが効果があります」。というのです。私は文章を読む楽しみを伝えたいと思って書いているのですが、読まないのでは致し方ありません。そうなら言われるままに映像を撮って見ました。さてどんなことになるか、編集の仕上がりが楽しみです。

 

明治通り 2 

 ご近所の話を書こうと環7を書いているうちに話は明治通りに発展し、だんだん、ご近所から遠ざかって行きました。そうなるとこのタイトルは一体何なのかと思いますが、とにかくこのまま明治通りを書きます。

 明治通りは、荒川の機械部品店の並ぶ通りを抜け、三ノ輪に到達します。大関横丁などがあって、そこが都電の終点になります。明治通りは都電とは何度も遭遇しますが、この路線だけが東京で唯一残った荒川線です。なぜ荒川線だけが残ったのかと言えば、荒川線は、殆ど一般度道路を通らずに、都電専用の道を持っていたから、トラックや乗用車などの通行を妨げにならなかったのです。

 三ノ輪には都電の操車場があって、都電の本拠地になっています。ここで見る都電は堂々としています。駅舎も適度にレトロで、町も昔の昭和を残しています。渋谷の宇宙都市のようなターミナルとは対照で、これはこれで雰囲気があって私は好きです。

 明治通り都電荒川線は、付かず離れず、明治通りの北側半周を都電の始発点と終点を結んでいます。元々都電は東京中を網羅していて、私の子供の頃は広い通りには必ず電車が走っていたのです。都電のいい所は、遠くのほうから電車が走って来るのが見えることです。見える電車を安全地帯で待っていれば間違いなく乗れました。乗り遅れても遠くのほうに次の電車が来るのが見えました。しかも料金が10円です。乗り換えをしても10円で乗れました。従って、例えば、新宿から浅草までも、乗り継いで10円で行けたのです。子供にとっては、東京の景色を眺めながら、長い距離を電車で行けましたので、便利で楽しい乗り物でした。

 然しながら自動車が増えて来ると、都電は邪魔者扱いをされました。先ず道路の真ん中にある安全地帯(駅)が邪魔扱いされ、都電のスピードのトロさが嫌われ、道の上に網の目のように走る都電の電線が嫌われ、やがて、都電無用の大合唱となり、町から都電は消えて行きました。然し今にして思えば便利な乗り物です。通りの交差点からすぐに乗れます。最近の地下鉄のように、はるか地下の底まで歩いて行かずに済みます。都電をなくしてしまうのは勿体ない話です。

 

 私が清子の舞台を手伝う時に、上野の寄席に出演して、そのあと浅草の余興をしに行くときなどは、上野で使った道具を持って都電に乗り込み、電車の中で、タンバリン(小さな筒に新聞紙を張って、中からハンカチや紙テープが出て来ます)、で使った紙テープを巻かされます。師匠が舞台で派手に空中で円を描いて取り出した紙テープを、次の浅草の会場までの間に、弟子は全部巻き取らなければいけません。紙袋の中に手を突っ込んで、丸めて入っているテープを巻き取るのですが、がさつに詰め込んでいますから、なかなかもつれてうまく巻けません。浅草までの時間はわずかですから、とにかく手早くやらなければいけません。ひやひやでした。私はその時中学1年生でした。

 紙袋の作業に夢中になっているときに、バッグの中からビール瓶の交換が飛び出てしまいました。ビール瓶の交換というのは、片方のビール瓶に新聞紙を巻き、片方は空の新聞紙の筒を置いておきます。それが、右のビール瓶が消えて、左の空の新聞紙の筒からビール瓶が出て来ます。これはビール瓶に似せた鉄で作った瓶があって、それを事前にビール瓶にかぶせておくのですが、このビール瓶にかぶさった種とビール瓶が、バッグから飛び出してしまいました。ビール瓶は電車の床をころころと転がり、途中でビール瓶がいきなり二つに増えて、左右に転がりました。それを見ていた乗客が、「あっ」。という歓声を上げました。私はあわててビール瓶を拾いましたが、驚いて見ている観客の前で、師匠からずいぶん怒られました。

 

 三ノ輪を過ぎると、昨日話した泪橋があり、さらにその先が隅田川です。白髭橋を渡って、向島です。隅田川沿いに料亭が並んでいて、向島花柳界があります。検番なども残されていて、古い建物の中で今も芸者衆が三味線や舞踊の稽古をしています。私も何度か向島の検番の舞台で手妻をしています。古い東京の風情を残したいい場所です。

 この一帯は町工場の多い所で、私は、ここの大宮屋さんという木工所で随分幾つもの道具を作ってもらいました。水芸の欄干などはここで作ったのです。道具を作り始めると、私は毎日向島と王子を往ったり来たりしました。鉄工の部分と木工の部分を少し作ってははめ込んで調子を見るのです。職人に任せていると、それぞれ自分にとって都合のいいように作ってしまいますので、ほとんど毎日チェックに出かけます。

 毎日昼は、王子と向島を往ったり来たりして、道具の打ち合わせをします。夕方になると向島から浅草松竹演芸場に行きます。するとそこに親父がいたり、ツービートのたけちゃんがいたりします。そこで、たけちゃんと酒を飲んだり、食事をしたりして、帰りは車で親父を家まで連れて行きます。当時は少々酒を飲んで運転しても、警察は何も言わなかったのです。昭和52年頃の話です、私は23歳でした。

 

 明治通りはまだまだ続きます。向島から東南に下って、今は、スカイツリーのある曳舟、そこから直線で南下して、亀戸、更に南下して東京湾に出ます。明治通りはここで終点ですが、東京湾の湾岸道路を通れば、古川橋ともつながり、明治通りは環状道路として完成します。但し東側の道と、湾岸道路は環状にするために無理無理はめ込んだような気がします。やはり明治通りのレトロ感覚は、王子の飛鳥山から南端の古川橋までの西側半分でしょう。

 今、明治通りをぐるり一周しようと言う人はいないでしょう。渋滞の多い道ですから、時間がかかりすぎます。私も断片的に利用するだけで、半周も回ったことはありません。但し魅力的な場所が多々あります。廻ってみれば東京とはこんなに変化にとんだ町だったのかと思いを新たにするでしょう。

 渋谷の駅前の宇宙基地、明治神宮と表参道。伊勢丹と新宿通りの交差点、都電の始発から出てきた電車と目白通りまで並列して走る早稲田近辺。昭和の初年を思わせる風景です。目白通りとの交差、池袋のロータリー、飛鳥山と急坂を降りて行く風景。右が飛鳥山の桜の名所で、左が音なしの瀧で料亭が並びます。隅田川にかかる白髭橋、曳舟スカイツリー亀戸天神東京湾と湾岸道路、レインボーブリッジ、実に変化に富んだ道です。レンタカーを借りるなどして、丸一日かけてじっくり回ってみたなら、東京と言う町の認識を新たにするでしょう。見るべきところが満載です。

 今はあまり車でドライブするのが趣味と言う人の話を聞かなくなりましたが、私は免許を取るとすぐにぼろのブルーバードを買い、毎日ドライブしていました。何もかも楽しい思い出ばかりです。

続く