手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

信濃

信濃

 

 このところ、週に一回駅前の歯医者に通っています。奥歯の詰め物が取れてしまい。新たに奥歯を作り直しています。長く使っているうちに奥歯の周辺が欠けてしまい、詰め物がポロリと取れたのです。奥歯は毎日使用しますので、放置するわけにも行きません。10日の午前中に歯科に行きました。その後、昼をどこかで食べようと思い、久しぶりに南口の信濃に行こうと考えました。

 以前にもお話ししたように、高円寺でそばを食べるなら、北口なら「くら屋」で、南口なら「信濃」です。種ものが多いのはくら屋で、純粋に蕎麦の味を楽しむなら信濃でしょう。つまり蕎麦で一番旨いのが信濃です。但し、私の家からは少し離れているため、信濃に行くのは年に数回です。今年は初めて伺います。

 

 南口にパル商店街と言うアーケード街があり、アーケードが途切れる所で大久保通りと交差します。大久保通りは東西に延びる道で、そこそこに広い大通りなのですが、パルの交差点まで来るとそこから西側の通りは道幅が思いっきり細くなります。元々大久保通りはこんな道幅だったのでしょう。

 但し、駅前の商店街とは明らかに異質で、昭和の賑やかさがあります。恐らく昔からこの近辺はけっこう賑わっていた通りだったろうと推測できます。この道を右に曲がって、阿佐ヶ谷方向に進みます。すぐ右側に西友ストアがあります。かなり大きな店で、けっこう流行っています。細い道だし、路地を少し入ったところに突然、西友ストアがあることが少し意外に感じますが、この通りが昔から繁華だったとしたら納得できます。

 この細い大久保通り沿いに、寿司屋、 天ぷら屋、カレー屋、と飲食店がずっと並んでいます。少し歩いて行くと左手に信濃があります。店は先ず先ず大きいのですが、見かけは地味な店です。

 玄関口に蕎麦打ちの作業場があり、中は広くテーブルが並んでいます。ここの親父さんの方針だろうと思いますが、メニューは数種類。ざる、かけ、十割蕎麦、卵、とろろ、野菜天ぷら。これが全てです。蕎麦とうどんは選べます。天ぷらはやっていますが、海老は使わず、野菜の天ぷらだけです。「蕎麦屋が天ぷらで客を呼んではいけない」。と考えているのでしょうか。

 立派な心掛けではありますが、矢張り、お客様は立派な海老天と蕎麦を一緒に食べたいのではないでしょうか。それをあえてしないところがこの店の矜持なのでしょう。然し、同時に、その偏屈さがお客様を遠ざけているようにも思えます。

 とは言え、蕎麦そのものは立派です。しっかり腰のあるそばで、噛むと香りが口中に広がります。そばつゆは辛目で、並木の藪に匹敵するくらい濃い味です。旨味がしっかり出ていて、蕎麦好きにはたまりません。

 いつもは天ざるを頼んでいたのですが、この日は冷たいとろろそばを頼みました。このところ、どこの蕎麦屋に行ってもとろろそばを頼むことが多くなりました。なるべく脂物を取らないようにしています。

 出てきたとろろは、他の店とは異質でした、多分秋田産と思われる、弾力のあるげんこつ芋と言われるもので、摺り下ろしても団子のように固まっています。つゆをかけると、つゆに交わることなくがっしりとスクラムを組んで、つゆに浮かんでいます。

 「いいとろろだなぁ」。と思い、箸でとろろを崩し、つゆに馴染ませようとかき混ぜました。ところがこのとろろがまるで餅のように、固まっていて、簡単に箸で崩れません。格闘すること5分。ようやくつゆに溶け合い、とろろそばの形状になりました。こんなとろろを出すところが、ここの親父さんらしいと思います。

 

 蕎麦はしっかり練られていて、見た目の蕎麦の量からは信じられないほど食べ応えがあります。蕎麦を三筋ほど箸で掬って、とろろに泳がせて口に運びます。太めの蕎麦がしっかり歯ごたえがあって、簡単には呑み込めません。蕎麦が自己主張しています。歯で噛むとすぐに青みのある香りが鼻に上って来ます。蕎麦好きはこの香りが好きなのです。

 とろろは辛目のそばつゆを薄めてしまいますので、マイルドに蕎麦の味が味わえます。蕎麦を三割ほど残して、とろろのつゆがなくなりました。そこで猪口から残ったつゆを小鉢に開けて、せいろとして食べます。

 これが驚くほどつゆの味が締まっていていい味です。この店に蕎麦好きが集まる理由が分かります。およそ愛想もこもないような店ですが、純粋にせいろそばの味でお客様を引っ張り込んでいます。

 お終いの蕎麦湯でつゆを薄めて飲み干します。これで満足です。代金は1100円。ちょっとした店ならこれくらいは普通です。野菜天ざるで1450円だそうですから、そう高くもないと思います。然し、サラリーマンにとって、とろろと蒸籠蕎麦で1100円のランチは少し高めでしょう。この辺のメニューの工夫がないと、昼時のお客さんは寄っては来ないでしょう。

 かつてはよく賑わっていたそば屋さんですが、コロナの影響で人の流れも変わって来ているようです。この3年間のコロナは、日本人全体の生活を大きく変えました。所得も少し下がったように思います。特にランチは熾烈です。配達する定食屋も増え、又店の店頭で販売する店も増え、コンビニで安価な弁当が増えて、お客様の選択肢が増えました。飲食店にとっては逆風が続いているのでしょう。

 

 親父さんとすれば、この値段は特にぼったくっているわけではないのでしょう。真面目に仕事をした結果の値段なのです。

 分かります。よくわかります。でも、コロナ以降は周辺の飲食店がめげてしまって、この店だけが高く見えるのです。それは私の手妻も同じです。他のマジシャンから比べたら高く思えるのでしょう。「紙の蝶を飛ばすだけでこの値段は高い」。と思われているのでしょう。

 洗練された末にこうなったと言う状況が理解されないのでしょう。私も考えなければいけません。ここはバラエティーを持たすために、蝶だけでなく、セミやトンボも飛ばさなければいけないのかも知れません。信濃の親父さんの苦悩を思うにつけ、私と同じ立場に立つ人の苦悩を察します。

続く