手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の職人

昭和の職人

 

 あれは私が5歳の頃だったと思います。祖父の家の近所に竹皮職人がいて、そこは、玄関先の間口が広く、床式になった作業場があって、その家の親父さんが朝から夕方まで、戸をあけ放って、床の上で、竹の皮(筍の外側の皮)を鞣(なめ)していました。

 子供だった私には、なぜかこの作業が面白く、通りがかると、30分も1時間も親父さんのする作業を眺めていました。この事は以前にもブログで書きました。私にとって忘れられない風景なのです。親父さんは床に座り込んで、山のような竹の皮を一枚一枚鞣して行きます。

 親父さんは常に一人でした。手伝う若い職人もいません。部屋には山のように積まれた竹皮があるだけです。親父さんは寡黙で、決して私に話しかけません。勿論私も声をかけません。3mほど距離を取って子供の私が道端にしゃがみ込んでじっと見ています。奇妙な空間がそのまま維持されて、時間が過ぎて行きます。

 竹皮は独特の作業台の上で何かヘラのような器具を使って、裏と表をしごいて鞣して行きます。鞣した竹皮は、隅を裁断機で切って、三つに折り畳んでサイズを揃えます。そこに経木(きょうぎ=紙のように薄い木製の板)を縒(よ)って作った細い紐を縛りつけ、これで一つ完成します。

 道具らしい道具はありません。作業台とヘラ、紙を切るような裁断機が全てです。作業は単純です。私はじっと黙って作業を見つめていました。職人の仕事には無駄がありません。そして独特のリズムがあります。また普通しないような指先や腕のひねりが入ります。そんな動作が面白くて、飽きずに見ていたのだと思います。

 今思えば、竹皮と言うのは、肉や佃煮を買った時について来るサービス品です。それを一日ひたすら作り続けて、一体いくらの稼ぎになったのか、他人事ながら心配になります。まぁ、家を構えて家族を養うことが出来たのですから、それなりに生きて行けたのでしょうが、いいときはなかったと思います。毎日が地味な作業の繰り返しです。

 竹皮は百とか二百とかまとめて、経木の紐で縛ります。これを卸業者さんが、肉屋さんや、佃煮屋さんなどに持って行ったのでしょう。昭和の頃は、肉は竹皮に包んで売られていました。ビニールやプラスチックケースのない時代です。今でもまれに握り飯を販売する店で竹皮にくるんで売っているのを見ます。

 京都の「いずう」と言う鯖寿司屋さんは、いまだに鯖寿司を竹皮にくるんで売っています。何百年も歴史のある店ですから、それなりに竹皮にくるまれた鯖寿司は雰囲気を作り出しています。

 竹皮は殺菌作用があると聞きます。食品などは竹皮にくるんでおくと半日や一日くらいは腐らないのです。私の家では、母親は竹皮は使った後、洗って乾かして、再度、握り飯などを持って行くときに使っていました。

 

 竹皮屋の親父さんがいつ作業場を畳んだのかは知りません。私が中学生になるころにはもうなかったように思います。昭和35年の頃、親父さんは幾つだったのでしょうか。私よりも50年は年が離れていたと思います。そうなら親父さんの生まれは明治でしょう。

 小学校を卒業して、竹皮職人のところに奉公に出て、その後池上に工房を出して、あとはひたすら竹皮を鞣していたのでしょうか、そして55になったときに、もの好きな5歳の私と遭遇したのです。

 

 長々竹皮職人のことを書きましたが、何が言いたかったのかと言うと、私が子供の頃に眺めていた職人の仕事と言うのは、みんな明治時代の仕事だったのです。明治生まれの職人の親方から仕事を習い、それをずっと守って昭和30年代。40年代まで続けて来たのです。そんな職人が町内にたくさんいたのです。ところが、昭和40年代に至って、大きな断層が生じます。

 昭和39年の東京オリンピック以降、日本人の生活様式がガラッと変わって行ったのです。団地が増えて、自動車が増えて、家で着物を着て生活をする女性が急に減りました。すると、それまで普通に使っていた生活用品が使われなくなって行きます。

 炭、火鉢、下駄、浴衣、染め物屋、洗い張り、掘りごたつ、行火(あんか)、習字指導所、そろばん塾、生け花指導所、踊りの稽古処、長唄、清元の稽古処、芸者、芸者の検番、のこぎりの目立屋、研屋(とぎや)、桶屋、風呂桶屋、竹細工屋、街の商店街や、裏路地のどこにでもあった職業がどんどんなくなって行きました。

 浅草の方に行くと、今でも少数ですが、鼈甲職人、象牙職人、金銀細工師、などが活動しています。ある時、桐箱屋さんで、桐箱を注文していると、やせた小さなお爺さんがやって来て、桐箱を5つ注文して行きました。

 随分少ない数の注文だと思い、後で箱屋さんに、「あのお爺さんは何を作っている人なんですか」。と尋ねると、「根付の職人です」、と応えました。根付と言うのは、印籠の紐の先に付ける3㎝ほどの玉のことで、玉に龍や、虎や、恵比寿、大黒などを彫って、装飾にするものです。今日で言うストラップです。江戸から明治のころは、根付の職人で名だたる人がたくさんいて、その作品は今も国立博物館などに収蔵されています。良いものはまさにため息が出るほどで、芸術作品と言えます。

 彫る素材は象牙や、柘植などの木に彫って、それを漆を塗って仕上げますが、肝心の印籠と言うものが今の時代に使われることがありませんから、仮に彫の技術が日本で何番目と言うくらいの名人だとしても、仕事の数はそうはないでしょう。このお爺さんも、恐らく、大正時代に、明治生まれの師匠から彫を習い、根付職人として生きてきたのでしょう。それにしても、遠慮がちにやって来て、箱を5つ頼んで去って行く姿には哀愁が感じられました。ひょっとすると、私の代で、根付職人を見るのが最後なのかもしれません。

 何にしても何百年と続いた職人の技術がこの先生かされないのは文化の損失です。と言っても消えて行く者には誰も見向きもしないのです。

 私は今、子供のころに見た竹皮職人の親父さんと同じくらいの年になっています。あの時、竹皮職人の親父さんが、日向(ひなた)の作業場から外に向かって、何を見ていたのか、この先の自分をどう考えていたのか、残そうにも残り得ない、技術と文化をどうしようと考えていたのか。幼い子供が何度も見に来ていても、ついぞ一言も声を掛けることがなかった親父さんは、もう既に諦めていたのか、興味は尽きません。

続く