手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ヤルタ会談 2

ヤルタ会談 2

 

 1945年2月ヤルタ会談で、スターリンは、東ヨーロッパの国々の間接統治に執着します。ポーランドや、バルカン半島の国々、ルーマニアユーゴスラビアなど、こののちソ連衛星国となって、社会主義国が生まれて行く素地がヤルタ会議で公認されて行きます。

 第二次世界大戦がはじまった当初、ソ連は、一方的にドイツに押され、あわや首都モスクワ迄奪われ完全敗北をするところだったのです。ソ連は慌てて連合国に支援を求めます。特にアメリカはソ連の支援にことさら積極的でした。アメリカが社会主義国に支援すると言うのは本来あり得ないことですが、背景にはユダヤ人の金融業者たちがいました。彼らはナチスの人種差別によって欧州を追われ、大量にアメリカに逃げて来ていたのです。彼らは伝統的に金融業をしている人が多く、欧州各国で巨大な資本を動かしていました。

 ユダヤ人を排斥するドイツ人に反発して、アメリカに逃れたユダヤ人は積極的にソ連を支援したのです。つまり敵の敵は味方と言うことです。アメリカが大々的に軍事支援したため、押されまくっていたソ連が、奇跡的な復活をします。武器を手に入れたソ連はドイツを押し返し、その勢いで東ヨーロッパを席巻します。

 そしてヤルタ会談に挑みますが、ここでスターリンは、それまでのアメリカや連合軍への謙虚な気持ちは消え失せて、露骨な東ヨーロッパの覇権を主張します。

 東欧の国々でソ連軍が後押しして傀儡政権を作り始めます。チャーチルスターリンの本心を知り呆然とします。ドイツが攻め取った地域をすべてソ連が統治しようとしていたのです。これを認めたらナチススターリンが入れ替わっただけになってしまいます。

 社会主義嫌いのチャーチルスターリンは激しくやり合います。ところが、アメリカはスターリンの欲望を黙認します。アメリカにすれば、せっかくドイツが敗北しかけているのだから、更にこの先にソ連と紛争を起こすことに難色を示します。

 このままでは戦争はいつまで経っても終わらなくなります。アメリカの消極的な姿勢に対して、チャーチル第二次世界大戦の終了が、この先第三次世界大戦の開始につながると確信します。

 ヨーロッパの戦後の統治は不満足ながらソ連の一方的な領土欲に押し切られてしまいました。会議は議題をアジアに移します。1945年2月の時点で、もう日本の敗戦は明らかでした。日本の処遇をどうするかについては、ヤルタ会談の前、1943年のカイロ会談の時点で米英中三国共通の認識がありました。つまり、日本が明治維新を迎えた時の領土に戻して、その後に戦争で得た領土は、以前の国に返還する。朝鮮は独立を認めると言うものでした。

 これは第一次世界大戦以降に提唱された民族自決と言う考えの基に成り立っていて、現代に通じる政策です。然し、然しです。日本が明治維新以降やってきた植民地政策がいけないと言うなら、イギリスが、香港、シンガポールビルマ、インドを領有してきたことも、フランスがベトナムラオスカンボジアを植民地にしたことも、アメリカがフィリピンを植民地にしたことも民族自決の観点から見たなら間違いです。

 日本の植民地政策を批判すると言うことは、必ず矛先は連合国の植民地政策に及びます。実際戦後はその通りになります。でもこの時までは連合国は自国の植民地政策に無関心だったのです。

 ソ連は、樺太や千島列島のソ連への返還については大満足でした。更に、日本が建国した満州国を欲しがりました。満洲全土を手に入れ、大連までの鉄道権と旅順港の領有を求めたのです。結局ソ連は欧州でポーランドの領土を西にずらしたのと同じく、日本の植民地を取り上げ、ソ連満州を新たな植民地にしようと考えたのです。

 それをアメリカもイギリスも、中国の土地をあっさりとソ連に与える密約をします。

 アメリカにすれば、せっかくドイツが降伏しそうなときに、アジアで日本に粘られては、米兵はいつまで経っても帰国できません。ここはソ連兵を利用して戦争終結を早めたいと考えたのです。イギリスは、アジアの自国の植民地さえ安全であれば、別段の興味はなかったのです。このためソ連のアジアでの参戦を積極的に求めたのです。

 ところが、これを後で知った蒋介石は激怒します。自国の領土を買っての三国で決めてしまうことに憤りを感じました。そもそもカイロ会議の時には招かれていながら、終戦間際になってヤルタ会談から外されたことは不愉快でした。米英ソ連の無知無謀をなじります。但しこの時点では蒋介石はかやの外です。

 ソ連は、更に日本本国の分割統治を求めます。北海道はソ連。本州は、アメリカイギリス、九州は中国がそれぞれ分割する案を出します。これはドイツが、その後連合軍によって分割統治されたのと同じ図式です。

 この案もあっさり認められてしまいます。日本と戦ってもいないソ連が、北海道を濡れ手で粟に手に入ることになってスターリンは笑いが止まりません。この時点でルーズヴェルトはもう指導力をすっかり失っていると言えます。面倒なことはソ連任せ、それに見合う代償はソ連のいいなりです。方やイギリスは、対ドイツとの戦いで疲弊していて、強い政治力が発揮できません。

 

 私はいつも思うのですが、歴史の中で、国家が窮地に至ったときに、どうしたら最悪の事態が免れただろうか、と考えます。1945年の2月の時点で日本は実はもう敗北を認めていて、何とか戦争を終えたいと考えていたのです。

 然し、間を取り持つ国が見当たらなかったのです。最終的にソ連に仲裁を依頼しますが、これは泥棒に家の留守番を依頼するようなもので、全く見当はずれな行為でした。結局、終戦と同時に、ソ連は不可侵条約を破り、満洲樺太を侵略してきたのです。

 私は、日露戦争の時に巨大な日本の債券を買ってくれた、ユダヤの金融家、シフなどに打電して、アメリカ政府を動かすことは出来なかったかと思います。日本はドイツと同盟は結んでいましたが、ユダヤ人に対しては差別はしなかったのです。

 彼らのネットワークを利用して、アメリカイギリスの政治家に、日本の意向を伝えたなら、解決の道はあったのではないかと思います。もし、1945年の3月、4月当たりに終戦が結ばれていたなら、日本各都市の空襲は半減していたでしょうし、広島、長崎の原爆もなかったでしょう。領土も、満洲、朝鮮、台湾は失っても、樺太、千島列島は、まだソ連とは戦争していないのですから、北方領土はそのまま残ったでしょう。最悪の中でもまだかなりの希望は残っていたはずです。もう少し、何とかならなかったのかといつも思います。

続く