手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ヤルタ会談 1

ヤルタ会談

 

 時は1945年2月4日の話です。第二次世界大戦は、この少し前にイタリアが降伏し、ドイツも敗北が決定的になった頃、チャ-チル(英)、ルーズヴェルト(米)、スターリンソ連)、の三人が、ヤルタに集まって、大戦後の世界の処理を話し合いました。これは、秘密裏に話し合われ、同じ連合軍でも、中国やフランスは参加も認められなかったため、この後連合国の中でもしこりを残しました。

 そのヤルタと言う土地ですが、私は中学生のころ、ヤルタがどこにあるのかを知らずに、漠然とエジプトの近所かと思っていましたが、実はクリミア半島にあり、半島の高級リゾート地がヤルタだったのです。ロシアは冬の寒さがきつく、多くの金持ちは、温暖な黒海周辺に別荘を建てて、冬の間はそこで暮らしていました。今日でも、ソチなど黒海周辺は高級別荘地として有名です。ヤルタとはロシアの冬の別荘地だったのです。

 スターリンはそこにイギリス、アメリカの大統領を招き、戦後の世界地図をどう描き直すかを会議したのです。チャーチルにしろ、ルーズヴェルトにしろ、スターリンにしろ、これほど楽しい作業はなかったでしょう。自分の発言によって、戦後の欧州やアジアの地図が作られて行くのです。まるでローマ帝国の皇帝にでもなったような気分で欧州分割を語り始めたのでしょう。実際、今日見る世界地図はこの時作られたのです。

 ヤルタ会談の土地で今日、ロシアとウクライナによって戦争がなされていることは、人の業を思わせます。この時、ヤルタ会談を取り仕切るのは本来、アメリカのルーズヴェルト大統領のはずでした。それは第二次世界大戦の際に、イギリス、フランス、ソ連に航空機から戦車、大砲に至るまで巨額の支援をしたからです。第二次世界大戦アメリカの支援がなければドイツを倒すことは出来なかったのです。

 ところが、この日のルーズヴェルトは元気がなかったのです。ルーズヴェルトは脳溢血を患って、この会談の二か月後に亡くなっています。むしろ、その体でニューヨークからヤルタまで出て来たことの方が奇跡で、恐らく彼は自らの死期を悟っていたのでしょう。そうであっても第二次世界大戦は自らに力で終わらせなけれらないと言う使命感でヤルタ会談に臨んだのです。

 歴史は、大きな世の中の流れよりも、むしろ、個人のプライベートな問題や、指導者の意向によっていとも簡単に変えられてしまいます。その好例がヤルタ会談でした。会議の進行は徹頭徹尾にスターリン主導で進んで行きました。チャーチルルーズヴェルトはそれを押さえるのが精一杯で、強い指導力を見せられなかったのです。

 チャーチルヤルタ会談で、スターリンの言動を聞いているうちに、この先欧州で何が起こるかを予感して、再々ルーズヴェルトに進言します。つまり、ナチスは敗北しても、その次にソ連社会主義が欧州を席巻すると言うのです。東西冷戦を察知したのです。

 ところが、ルーズヴェルトは、大戦終結のためにソ連が協力してくれることはむしろ望ましいと考えていたのです。つまりルーズヴェルトにとって、自分の寿命のあるうちに世界大戦を終わらせることが第一の目的であり、自分の死後のことについては何も考えられなくなっていたのです。

 最大の悲劇はポーランドの処遇でした。ポーランド第二次世界大戦の発端になった国で、ドイツ軍がポーランドを占領したときに、ポーランドを東西に分割して、西半分はドイツ領、東半分はソ連領にしました。

 ヤルタ会談ポーランドを復活させるとなったときに、西側半分はドイツが返還したとして東側半分をソ連が返還をしなければなりません。しかしソ連は拒みました。これはそもそものルール違反でした。

 第二次世界大戦の戦後処理は、戦勝国が敗戦国の領地を奪わないことを前提として、民族自決(その土地に住む人達がその土地で政府を持つこと)を尊重すると言うのがヤルタ会談のテーマでした。然し、ソ連は冒頭からこのルールを無視したのです。

 チャーチルは激しくスターリンを非難しましたが、スターリンは返還を拒否しました。対してルーズヴェルトは、ソ連に妥協し続けます。ソ連の占領地の代わりにドイツの領土を割いて、ドイツ領とドイツが占領したポーランド領と合わせてポーランドに与えたのです。ポーランドは本来の土地からそっくり数百キロ移動して全くそれまでと違った形になったのです。ソ連は一ミリも国土を失っていません。この決定の場にポーランドの代表者が一人もいないまま、ポーランドの国の形が決まったのです。

 これは例えて言えば、もし日本が敗戦の時に、ソ連軍が来て、「日本人は、全員台湾に移住しなさい、日本の土地はソ連が治める」。と言われたらどうしますか?「そんなことはあり得ない」。と誰もが思うでしょう。そのあり得ないことをヤルタ会談で米英ソはポーランドに対して行なったのです。

 チャーチルは大反対します。反対理由は、数十年後に再度ドイツ国内で領土問題が再燃しかねないからです。それは第三次世界大戦の火種を生むことになります。

 更にソ連は、ポーランドに対して、それまでロンドンに亡命していたポーランド独立運動の活動家を、指導者として送ろうとするイギリス案を拒否します。ロンドンにいた活動家が来れば新生ポーランド自由主義国になってしまいます。それでは社会主義国になりません。スターリンは、ポーランドの地下組織を支援して、ポーランド政府の代表にしようとします。

 スターリンチャーチルは激しく対立します。然し、この時ポーランドソ連によって100%占領されています。英米が反対しても、ポーランドの解決が長引くだけです。結果、スターリンの筋書き通り事が運びます。

 そして、地下組織の活動家を認める代わりにソ連は、彼らがソ連批判をしないように、ポーランド国軍の上級士官を、集めて大量虐殺しています。これによりポーランドの活動家の力をそいで、全くソ連にいいなりの政府を作ります。

 さらに、ソ連は、ベラルーシウクライナを独立国にして、この後出来る国連に加盟させる案を出します。つまり、国連の中で、ソ連に味方する国を少しでも多く作ろうとしたのです。

 さらにソ連はアジアに参戦して日本と戦うことを希望します。その案をルーズヴェルトはあっさり認めてしまいます。スターリンにとっては日露戦争で日本に負けたことは忌まわしい事件だったのです。自分がその汚名を濯げば、スターリンの名はソ連の歴史に残ります。彼にとって、ドイツに勝利し日本に勝利することは悲願だったのです。その話はまた明日。

続く