手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 11

 私は学校と舞台で俄に忙しくなります。平日は学校がありますから、日曜日か夜なら舞台を引き受けられます。更に夏休みや春休みには地方の公演も引き受けられます。一人でどんどん会社のパーティーや、お座敷まで出演しました。出演料はそっくり私の小遣いに貰えました。子供ですから、酒も飲みませんので、金はたまるばかりです。そこで、衣装を仕立てたり、マジックの道具に投資をしました。また、その頃覚え始めたクラシック音楽のレコードを買い集めました。

 私が中学に入った時に、母は家を買う決心をします。上板橋の小さな新築建売住宅です。母にすれば、昔、堤方橋の際に立っていた三角形の家が買えずに痛恨の思いをしたのですが、ようやく状況が好転して、家が買えるまでに金が溜まってきたのです。昭和42年の秋に上板橋に引っ越しました。

 それまで家族4人で狭いアパートに暮らしていたので、ようやく解放感に浸って、実に快適な生活でした。家を持つと、母の性格にも大きな変化がありました。それまで金のことでいつもヒステリーを起こし、親父と喧嘩ばかりしていたのですが、言葉も穏やかになり、家の中で喧嘩が起こらなくなりました。月々の家賃がいかに生活を圧迫していたのか、母は全く別人のように穏やかな性格になりました。

 それにつれて、私のマジック活動にも理解を示してくれるようになり、支援をしてくれるようになります。

 

 親父は家を持つことにはまったく無関心で、家に幾らの金が溜まっているかも全く知らなかったのです。引っ越しの時には家を留守にしていて、手伝いもしませんでした。引っ越して、家のかたずけが全部住んだ数日後に親父から電話がありました。

 「どこに引っ越したんだ、迎えに来てくれよ」。私は紙板橋の駅まで迎えに行きました。新居は上板橋の駅から徒歩15分と言う、少々不便な場所にありました。親父は、

「随分遠いなぁ。毎日歩いて通うのは不便だなぁ」。と、まるで人ごとのように文句ばかり言っていました。然し新居は親父にとっても快適でした。

 毎日遊んで暮らしていた親父が家を建てたということは、浅草の仲間にとっては衝撃的なことだったようです。新居には入れ代わり立ち代わり芸人が尋ねて来るようになり、その都度酒盛りが始まりました。

 特に、相棒の条さんは複雑な思いだったと思います。同じに仕事をしていて、条さんは家が建たなかったのですから。無論、それは母の稼ぎです。母の稼ぎがなければ家は無理でした。人の三倍仕事をして、生活は切り詰めるだけ切り詰めて、出来た金はせっせと定期預金をして、とにかく金を作ったのです。

 然し、外部の人にはそんなことは分かりません。親父が親父の稼ぎで家を建てたと思っています。周囲の芸人は親父に聞きました、「どうやって金をためたんだ」、と。親父は得意になって嘘八百を話をします。それを真に受けて芸人連中は真剣に聞いています。芸人の中には、親父が競馬で当てて家を建てたと言う人もあります。ばかばかしい限りです。

 このこと以来、何となく条さんが気持ちが不安定になります。どちらかと言うと条さんのほうが地味な、まじめな生活をしていたのですから、家を買うなら条さんが先になるはずです。それができないということで条さんは悩み始めます。そして二年後コンビを解消します。直接の原因が家のことだったのかどうかは分かりません。しかし普段の話の中に家の話がよく出て来ました。条さんにすればやるせなかったのでしょう。

 然し条さんとのコンビは、私はいいコンビだったと思います。このまま続けていても十分やって行けたと思います。それがあっという間のコンビ解消です。漫才やチームはいくら実績を重ねても、コンビを変えればまた一から始めなければいけません。いくら芸歴があるとはいえ、新しく組む相手によって、芸は良くも悪くもなります。

 その後すぐに親父は友人とコンビを組みますが、余り品のいい相手ではありませんでした。母や私が見ても、場末の芸に見えました。私が、「親父は面白い人なのに、どうして、こんな古臭い漫才をするんだろう」。と母に話すと、母は、「昔からいい素質を持っている人なのに、ちっとも自分を磨かないんだよ。何時でも世の中に流されて、仕事が来ないのは世の中が悪い、売れないのは世の中が悪いと思い込んでいるんだよ。自分でどうにかしようという気持ちがないんだ」。と言っていました。2年ほどしてこれもコンビ解消します。

 

 それから先は親父はギターを持って、一人でギター漫談を始めます。その頃には私も高校生になっていましたので、芸のことも分かるようになりました。

 ある時、お祭りの仕事で、私と親父が出演しました。私は常々、「ギターをやめなよ。もう数え歌の時代じゃないよ。親父なら喋りだけで十分やって行けるよ」。と繰り返し言っていました。親父も自身の喋りにまんざらでもなかったのです。然し、親父はまだ三十年も前に作ったネタにしがみついています。ボーイズにせよ、漫才にせよ、漫談にせよ、自分のネタが変わらなければ、何も変わらないのです。そこで私は一計を案じ、お祭りの楽屋でギターを隠してしまいました。親父は必死で探しましたが私は黙っています。そして親父に、

 「親父なら出来るよ。喋りだけでやってごらんよ。何時までも人の歌を歌ったり、数え歌をしていても、世間の人は注目をしてくれないよ。試しにやってごらんよ」。

 と、突っ放しました。親父は正直困惑した顔をしていましたが、私に言われて、ギターなしで舞台に上がり20分の漫談をしました。この時くらい辛そうに舞台をした親父を見たことはありませんでした。然し、親父はとにかく喋りだけで漫談をしました。

 今考えても私のしたことは間違っていなかったと思います。そして、もっと早くに漫談へ転換していたら、親父はこの世界で話術の権威者になっていたと思います。

 親父は古いネタにこだわり続けて、いつしか世の中の流れが見えなくなっていたのです。多くのチャンスがありながら、ことごとく生かすことができずに結果、どうにもならないところにまで追い詰められていたのです。それでも、仕方がないとか、何とかなると思って古いスタイルから抜け出せずにいたのです。それを倅に諭されて、初めて話芸で勝負する気になったのです。ここから親父は漫談で生きることになります。

続く