手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ルーキー新一さん 2

ルーキー新一さん 2

 

晦日

 事務所は29日の大掃除で終わり、30日から正月2日まで4日間休みです。今日はさすがに尋ねて来る人もなく静かな大晦日です。

 いつもなら、正月のイベントの用意で、大道具を出して、修理などをしている時です。場合によっては大晦日の晩に現場に入って、水芸の装置を組み立てていたりします。つまり年末も正月もないような状態なのですが、今年はコロナのお陰で何とも穏やかな大晦日です。

 

除夜の鐘

 大晦日の深夜零時から各地のお寺では除夜の鐘を撞きます。私は池上の生まれでしたから、本門寺さんの除夜の鐘を聞いて育ちました。高円寺に越してからは除夜の鐘も聞けないかなぁ、と思っていたら、高円寺さんが毎年除夜の鐘を撞いています。環7通りを隔てて反対側にお寺があるため、普段は高円寺さんの鐘は聞こえません。幸い大晦日はよく聞こえます。

 除夜の鐘は深夜12時から鐘を撞きますので、実際は新年の鐘になります。鐘は108回撞きます。108は煩悩の数だと言われています。煩悩とは、人の心に巣を食う役に立たないものです。欲望、怒り、嫉妬、そうしたどうでもいいものをすべて払って、新しい年を迎えようとするものです。因みの鐘の周りについている鋲も108つあるそうです。除夜の鐘をききながら、日頃意味のないことに煩わされている自分を知るだけでも鐘の音は価値があるのでしょう。

 ブログを書いた後に、「マキシマムエンターテインメント2.0」を読んでみます。

 

ルーキー新一さん 2

 

 ルーキーさんは、突然、昭和50年に東京に現れて、浅草松竹演芸場に出演します。7年前まではテレビに出まくっていて、昭和43年に恐喝事件で有罪になり、芸能界を締め出されたことは多くのお客様は知っています。

 背が低く、目がクリっとしていて、腹話術の人形のような顔をした、愛嬌のある芸人です。まだまだルーキー新一を覚えている人も多かったのです。そして、テレビ局のプロデューサーの中にも、ルーキーさんの芸を認めている人は多かったのです。

ところがテレビ局は、事件の噂を恐れてルーキーさんを使おうとしません。やむなく、ルーキーさんは漫才コンビを組んで、松竹演芸場に出演します。初めは白羽大介さんと言う人と組んだと思います。白羽さんは達初な人でした。一年くらいでコンビが変わり、二人目が弟子のミッキー修さんでした。ミッキーさんは全く素人から出てきた人で、弟子を使って漫才をしても遜色がなく、ルーキーさんの舞台は見事なものでした。

 演芸場は、ルーキーさんの出演を快く迎えました。前科があろうとなかろうと、面白ければそれでいいのです。実際演芸場のお客様の評判は上々で、東京の芸人とは格の違いをみせました。テレビのコメディ番組で一世を風靡し、やがて座長となって劇団を維持し、千人も入るような劇場を連日、自身の看板で満席にするような芸人が、松竹演芸場の数ある漫才の一本になって出るのは全く以て勿体ない話でした。

 

 昭和52(1977)年、東京と名古屋で、親父の芸能生活35周年記念と私の藤山新太郎改名披露をいたしました。その時、ゲストでルーキーさんに出演していただきました。この催しは、親父の自主公演でしたので、普通の演芸をしただけでは面白くありません。出演者が演芸をした後に、私の手妻あり、口上あり、お終いは、出演者全員で歌謡ショウをやることになりました。親父も私も歌を歌いました。

 ルーキーさんは初め、漫才以外で舞台に出るのは嫌だと言って断っていたのですが、余りに歌謡ショウが受けるのを見て、自身もやりたくなってきたのでしょう。急遽出ることになり、タキシード姿で、白粉を塗って、歌を歌ったのですが、これが、股旅物の歌謡曲をメドレーにして、間に浪曲が入り、それをきっちりバンドが演奏して構成のできているカセットテープを持っていて、それは見事な歌でした。無論お客様は大喝采です。ルーキーさんのお陰で分厚いショウになりました。漫才ももちろんでしたが、歌謡ショウの受け方を見ると、ルーキーさんと言う人の才能を嫌と言うほど見せつけられました。

 私は、この時期付き合っていたツービートの北野たけしさんと、ルーキー新一さんは、全く性格の違う人ではありましたが、笑いの天才としてこの二人は、私の人生で知り得た最高の人だと思っています。

 そのルーキーさんは、漫才では結構仕事も忙しかったのですが、やはり元のコメディアンとしての立場に戻りたかったのでしょう、松竹演芸場で芝居の一座を立ち上げます。澤田先生に協力をしてもらい、座員を募集し、芝居を地方に売り込み、興行して回るようになります。

 当時、若い娘や息子が芝居に凝って劇団に入り、親がそれを支援すると言うパターンは多かったのです。そうした座員を集め、親に切符を売ってもらい、座員も切符を売り、芝居を維持していました。地方公演などは、親の地元に座員である娘が錦を飾ると言う触れ込みで、芝居を書き換えて、娘の出番を多くして、喜劇を作り直します。

 喜劇は1時間程度しかありませんから、演芸も何組か頼んで、演芸と喜劇のショウの二本立てで地方の市民会館で公演します。その演芸の一本として、私の親父がりルーキー劇団と一緒に出掛けます。親父は屋久島まで出かけて漫談をしたようです。日本各地で公演をしますが、言ってみれば人の褌で相撲を取っているわけですから、地元の親父さんが巧く切符を売ってくれればいいのですが、さほど売れなかったとなると、なん十人もの座員裏方ゲストが、経費をかけてやってきて、身動き取れなくなります。そうなると、たちまち劇団内部の雰囲気が悪くなります。

 一座の払いが出来なくなり、ゲストのギャラも半分に減らされたりします。それでも支払いができたならまだましです。帰りの費用もないとなると、地元の親父さんに頼み込んで借金をして帰ってくるようになります。然し、その借金は返す当てがありません。次々と地方公演を取って興行しますが、借金を返すほどには稼げません。借金は大きくなります。やがてルーキーさんは身動きできなくなって行きます。

 それまでルーキーさんの奥さんがマネージメントをしていましたが、マネージメントとは名ばかりで、口先だけで嘘八百を言って、スポンサーから金を引き出させるようなことばかりしていました。それがあっちに言い訳、こっちに言い訳で、にっちもさっちも行かなくなり、奥さんが詐欺罪で捕まります。

 私が見ていても奥さんは決して根の悪い人ではなかったのです。ルーキーさんを再び世に出してやりたい一心で一座を売り込んでいたのですが、喜劇と言う世界が既に下火になっていたのに、ルーキー新一と言うレッドカードを持った人がその看板で興行することが土台無理な話だったのです。おとなしく漫才だけしていれば天才芸人として全うできたのです。私は奥さんは主人想いな人だったと思います。奥さんは罪をすべて自分がかぶったのです。

 奥さんが逮捕されてからはルーキーさんは身動きが取れず、ほどなくルーキーさんは病でなくなります。昭和55(1980)年、享年44歳。あれほど才能があって、あれほど客席を沸かせた人が、なぜこうも寂しい一生を終えるのでしょうか。

 亡くなった時は、私の親父も、演芸場の澄田課長も、澤田先生も、「あんなうまい芸人はいなかった」。と、その才能を惜しみました。今、澤田先生はそのルーキーさんの伝記を書いています。完成したならぜひ拝読したいと願っています。

続く