手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 10

 私がマジックを覚えてみたいと親父に話すと、何人かの奇術師から種を貰って来てくれました。その奇術師の名前はよく覚えていないのですが、間違いのない人は、松旭斎小天花さんのお父さんで天遊さんでした。ミリオンフラワー(紙の花が咲く手品)、サムチップ(ハンカチが出たり消えたり、但しギミックは紙製で、肌色の塗料を塗ったものでした)、そうした基本的なものでした。それを楽屋で習って、そのあとは学校に持って行って、仲間に見せました。やがて、デパートでマジック道具が販売されていることを知り、出かけて行っては随分買い集めました。

 私の様子を見ていた親父は、自分の舞台の合間に私を出してくれたのです。まだ何も知りません。ただ、できるマジックをいくつか並べて見せただけです。それなのに、前にいたお年寄りが私に小遣いをくれました。四つに畳んだ百円札だったと思います。私にとって百円は当時一か月の小遣いでした。

 私は愛想のいい子で、舞台に出て来るときに、ニコッと笑って出て来ます。それだけでお客様が喜びます。マジックを一つ演じた時にもニコッと笑って挨拶をします。これが大変に受けが良かったのです。実際にマジックの内容は大したものではなかったと思います。この私の演技を見て、すぐに余興の依頼がきます。然し、いくら仕事を頼まれても、まだまともに見せられる演目が4,5点しかありません。衣装もないのです。親父は、まだ時期尚早とお断りました。

 ある時、相撲部屋の千秋楽に親父と井筒部屋に行きます。そこで親父が芸をした後に私が出てマジックをしました。すると、座敷の正面から私を呼ぶ女性がいます。立派な黒い着物を着ています。髪型は左右に大きく膨らませた日本髪でした。私に小さな祝儀袋をくれました。私は頭を下げて礼を言い、楽屋に戻りました。 後で聞くと八幡製鉄(後の新日鉄)の社長夫人だそうです。井筒部屋の後援会会長でしょう。

 私は道具をかたずけて、親父とタクシーに乗り、帰り道に親父が、「お前、さっきご祝儀貰ったろ。いくらもらった」。と聞かれました。私は多分百円だろうと思って、中を見てもいませんでした。然し、親父に催促をされて開けてみると、5000円が入っていました。びっくりです。私が生まれて初めて手にした5000円札でした。昭和40年です。今の価値なら確実に10倍です。

 親父は、「よかったなぁ、これで上着が買えるな」。と言いました。このことを家に帰って母親に話すと、母は、前々から親父がなし崩しに私を舞台に出すことに反対していました。このままでは芸人になってしまう。親父一人でも持て余しているのに、このうえ、一家にもう一人芸人が育ったならとてもやって行けない。明らかに反対でした。

 ところが、実際私が舞台に出るようになると、必ずしも反対はしませんでした。ジャケットを買いに行くときも、付いてきて、色々選んでくれました。蝶ネクタイも、下のズボンも、見立ててくれて、色々予算オーバーしても払ってくれたのです。

 この時私は、母が、毎日のように親父と口げんかしながらもなぜ別れないのかがわかったような気がしました。母は芸能が好きなのです。かつて自分自身も舞台に立ちながら、思い半ばにして歌手を諦めたことを全く忘れ去ったわけでもなかったのです。そして、自分が舞台に立てなかった分、親父を支援をしたかったのです。支援をしながらも、成功のつかめない親父が腹立たしかったのでしょう。

 そこへ私が舞台に立つようになります。本当なら絶対反対です。ところが、私が舞台に出ることに母はまんざらでもない様子です。そうなら私はもう大っぴらに舞台に出られます。衣装もできて、ブロマイド写真も撮りました。名前もジュニア南と勝手に親父が決めてしまいます。南は親父の南けんじからとったものです。ジュニアは二代目ですからジュニアです。小学校6年生の時にはすでにジュニア南で仕事を取っていました。

 この時代に小学生で舞台に立ってマジックをしている子供なんて一人もいませんでした。ここで両親がしっかりマネージメントをしたら、私は相当に早く売り出して、かなりのタレントになっていたでしょう。しかし親父にも母にもそうした才覚はなかったのです。全く残念でした。

 

 親父の仲間に、当時NETテレビ(今のテレビ朝日)のプロデューサーの谷さんと言う人がいました。この人が、「南さんねぇ、子供さんをあのまま仕事に出していたら、あの子はだめになるよ。何にも基礎を学ばないで勝手にマジックをしているんだもの、今は子供だからかわいいでいいけども、大きくなったら誰からも相手にされなくなるよ」。言われて親父も、それもそうだと思い、何とかしようと考え、松旭斎清子の所に勉強に行かせるようにします。この清子と言う人は親父の麻雀仲間です。親父は軽い気持ちで清子に依頼したのです。

しかしこれが私の人生を大きく決定づけたのです。

 清子と言う人は痩せた小さな女性でした。年齢はその時で50代後半でした。然し、見た目はきれいな人でした。この人はいつでも着物を着ていました。普段も着物、舞台の上も着物でした。演じるマジックは、6枚ハンカチや、タンバリン、三重ボックス(お客様から借りた時計が消えて、三重の小箱から出て来るもの)。パラソルチェンジ、(パラソルが骨だけになって、また元に戻る)。いわゆる松旭斎の女流マジシャンがよく演じる内容のものをしていました。

 清子は女性同士で組んで、コンビで回るときもありましたが、私が知っているのは、清花さんというお弟子さんとよく一緒に演じていました。小さな仕事は一人で演じていました。そんな時には私もくっついて行って随分手伝いました。

 この師匠にいろいろ習ったのですが、習ったものは、リングや、トランプ当て、6枚ハンカチなどでした。その中で、やたらに手の所作にうるさい作品があったのです。初めはよく知らないで習っていましたが、後になって、それが手妻であることを知りました。これが私と手妻の出会いです。

続く