手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと5

 親父の稼ぎがまったく当てにならないことを知った母は、何とか自分自身で身を立てなければならないと考えます。然し、子供が二人もいて、しかも私はまだ生まれたばかりですから、手がかかります。外に働きに出ることが出来ません。

 そこで昔覚えた編み物の機械を使って、セーターや、マフラーを編んで洋品店に収めることを思いつきます。これなら一日部屋にいて仕事ができます。まさに芸は身を助く、です。ちなみに芸は身を助くと言うのは間違って知られた慣用句で、これは元々、川柳の一句で、「芸が身を助くるほどの不幸者」と言うのが正解の句だそうです。

 若いころに遊びで覚えた芸事が、その後になって生活の種になるという人は、決して恵まれた人ではないと言う意味です。そんなことを言われるまでもなく、母は一縷の思いで編み物を始めます。生きるためです。

 当時、既製品もなかなか手に入らず、ましてや特別注文などと言うものが贅沢品だった時代に、セーターでも、チョッキでも、色柄、デザインが自由に選べて、花柄やポケット、イニシャルなども注文で自由に付けられるとあって、依頼は殺到します。しかし問題は値段です。注文品ですから、そこそこいい値で取引されますが、親子4人が母が編むセーターで暮らさなければなりません。手間のかかる分、何日もかけて作っていては生活ができないのです。そのため母は一日一枚セーターを編んでは駅前の洋品屋さんに届けたのです。これは人間業を超えた作業だったようです。

 朝早くから編み物をはじめ、お客様の注文にこたえて、斬新な柄のセーターをこしらえ、夕方には用品店に納めます。そして現金を貰い、その現金で、翌日に編むセーターの毛糸を買い、更におかずを買って帰るのです。その間私はずっと背中におぶられていたと思います。

 母はいつも編み物の機械をがーがーと動かしながら、小さな声で呟いていました。それは、網目の数を数えていたのです。途中で毛糸の色を変えるときなど、目の数を記憶していないと間違いが起きます。そのためいつも、口でカウントしながら編み機を動かしていました。

 私は、幼くて、脇で色々母に話しかけますが、母は一切話を聞こうとしません。そのうち、泣き出しますが、そうすると、母は編み物をやめ、口で唱えていた数字を紙に移してから、私を抱いてあやしてくれます。然し、5分もするとまた作業を始めます。母には辛い日々だったと思います。

 母のセーターは評判で、中には直接注文して来る人もありました。その時は洋品店の利益分が余分に手に入りますので、随分助かったと言っていました。

 池上に連月と言う、古い日本蕎麦屋さんがあります。そこのお婆さんが、時々セーターや膝掛けを注文してくれたそうです。品物が出来上がって、蕎麦屋さんに届けると、店の奥に離れがあって、日当たりのいい廊下に椅子を置いて、品のいいお婆さんが日向ぼっこをしていたそうです。自分の生活とあまりにかけ離れた生活をしているおばあさんを見て、「私の人生にこんな幸せな晩年が来るだろうか」。と思ったそうです。

 この言葉は幼い私の心に残りました。世話になった母親に何とかして、そうした生活をさせてやりたいと早くから考えていたのです。

 母の仕事は順調でした。注文は先々までも予約が付いていて、編み上げるとすぐに現金になりました。少しですが貯金も貯まって行きました。然しその金を狙う輩がいます。一人は親父です。親父は、このころテレビ局に出入りしていて、プロデューサーなどとしきりに呑みに行ったり、マージャンをしたりしていました。こうしたときの交際費が必要です。親父は母に、「プロデューサーと打ち合わせするのに金が要るんだ」。と言うと、母はすぐ必要な金を出したそうです。親父の出世のために必要な金は無条件だったそうです。親父はそれを持って、飲みに出かけます。母親のセーターの何枚かの利益が親父の飲み代で一瞬に消えます。

 さらには祖母でした。祖母の家は家族が多く、しかも、親父の下の兄は大学に行っていて何かと金がかかり、何時でも金が足らなかったようです。祖母は、頻繁にやって来ては金の無心をしました。これも、頼まれるとすぐに金を出しました。我が家に金を借りに来るということは、あちこち尋ねてどうにもならなくなったから来るのでしょうから、貸さないわけにはいかないのです。

 母は生活の仕方が固く、当時家で使っていた、炭や練炭なども、一か月分をまとめて買っていました。炭や練炭は置き場がないため、縁側に積んであります。米も袋ごと積んであります。はたから見たなら金持ちです。然し金持ちでも何でもないのです。まとめて買うと、炭でも米でも運んでくれる上に、小分けで買うよりも、一割くらい余計に呉れるのです。一割は、一年で言えば一か月分の炭が只になるわけす。そのため生活は苦しくてもまとめ買いしていたのです。

 ところが、それを祖母が目をつけて、金を借りに来た帰りに、「あらまぁ、ここにこんなにたくさん練炭が、少し貰っていっていいかしら」。と言言うと、母は黙って練炭をを3つ縄で縛って、祖母に渡します。祖母は練炭を手に下げて帰っていきます。これでおまけの3個は消えます。母の思惑は脆くも崩れたわけです。祖母が帰ると母はいつも泣いていました。幼い私にはなぜ母が泣いているのかよくわかりませんでした。

 

 親父はテレビ局のプロデューサーと、仕事の後に徹夜マージャンをし、その晩は仲間の家に泊まり、昼まで寝ています。それからまたビリヤードをして、さて夕方になって、プロデューサーが帰ろうとしたときに、徹夜マージャンで煙草の匂いが体についていますので、風呂屋で体を洗ってから帰りたいと言います。そこで親父とプロデューサーは近所の風呂屋に行きます。

 体を洗っているうちに、たまたま祖父が仕事を終えて風呂に入ってきます。祖父は職人で、体中に千本桜の刺青が入っています。こんな祖父をプロデューサーに見られたら、やくざ者と思われるので拙いと思い、親父は知らん顔をして体を洗っていると、祖父が近づいてきて、「なんだ、どうしたんだ、顔を隠して、俺だよ、お前の親父だ、なんだこの野郎、他人行儀に、とぼけやがって」。としきりに話しかけて来ます。この時くらい親父は恥ずかしと思ったことはなかったようです。後でプロデューサーに、「君のお父さんは随分カラフルな体をしていますねぇ」。と褒められたそうです。

続く