手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 9

 さて親父は条さんと言う相棒を得て漫才を始めます。昭和38年のことです。その時に、条さんは、「キャバレーの仕事をしませんか」。と尋ねてきたそうです。初め親父は、「キャバレーは・・」、としり込みをしました。キャバレーと言うのは、お客様がアルコールを飲んで遊びますので、ショウが始まっても、なかなか真剣に見ようとはしません。特に話を主体とする芸能は、なかなか真剣に聞きませんから不向きです。

 親父が難色を示すと、条さんが、「いま日本中でものすごくキャバレーが増えています。ここを仕事場にすれば、十分生きて行けます。逆に、昔のような演芸の余興と言う仕事はどんどん減っています。キャバレーのギャラは余興並みに支払ってくれます。毎月10本以上は決まって行くでしょう。どうですか、やりますか」。

 言われて親父は、仕事のない現実を考えると、キャバレーもやむを得ないのではないかと思うようになります。結局、条さんとコンビを組んで、キャバレーに出演するようになります。この条さんと言う人は名参謀で、親父にいろいろアドバイスをします。

 考えてみれば、親父のコンビは常に親父がリーダーで、その中で親父の芸を批判する人などはいなかったのです。その代り、他のメンバーは親父におんぶにだっこで、仕事のことも台本作りも、全て受け身だったのです。それがうまく行かないと、責任はすべて親父にかかります。しかし親父は、受けても、受けなくても、いつも、「まぁ、こんなもんだ」。と高を括っていたのです。

 然し、条さんと言う人はそういう人ではありませんでした。キャバレーを数回こなすと、親父は自分自身が結構受けていると思い込んでいたようです。ところが、条さんは、「こんな受けでは帰り(再依頼)は来ませんよ。もっと爆発的な笑いを取らないと仕事は来なくなりますよ」。「でも飲んでいる客じゃぁ、聞きゃぁしないから、話ようがないじゃないか」。「そこを聞かせるように工夫するんです。もう一度台本を書き直しませんか」。

 それまでの親父のネタは、まるで落語のように、初めに話を振っておいて、後でそこをなぞってばかばかしく落としてゆく。と言うパターンが多かったのです。それを、話の繰り返しをやめて、セリフもどれも一言で言えるように詰めて、短く短くまとめたのです。つまり、話を起、承、転、結、でまとめていたものを、起、からいきなり結、に持って行ったのです。すると、酔って頭がマヒしているお客様でも、わかりやすくなり、がぜん受け方が変わって行ったのです。

 条さんと言う人は舞台では簡単な受け答えだけしかしない、およそ目立たない芸人だったのですが、人を生かす才能があるのです。お陰で親父の芸が以前よりテンポが出て来て、笑いの数が増え、面白くなって行きました。

 

 親父はようやく家に収入を入れることが出来るようになります。同時に母親も、外に出て仕事をするようになりましたので、一家は人並み以上の収入が稼げるようになります。但し、母は三か所の仕事を掛け持ちしていましたが、二人の働きで、生活はみるみるよくなってゆきます。

 親父は自分の喋りに自信を持ち、NHK漫才コンクールに出場します。NHK初出場でしたが、いきなり準優勝を果たします。この時、なぜ優勝できなかったかを審査員に尋ねると、「漫才コンクールは、喋りの技術を一番評価します。前半のネタはテンポがあって、ネタも斬新で面白かったのですが、後半が、ギターを使って数え歌で、数え歌と言うのが新鮮味がなく、また、歌で終わってしまうのが、漫才コンクールには不向きです」。と言われたのです。

 つまり親父はまだボーイズを引きずっていたのです。ボーイズ時代の取りネタを漫才でもそのまま使っていたのです。「一つとせー、ひねた子供が多すぎる、テレビの影響じゃないでしょか。こいつぁ豪儀だねー」、と一節歌って、ませた子供の話をして笑いを取り、二つ三つと話を進めて、五つになると、「五つとせー、いつまでやってもきりがない。それでは皆さんさようなら、また会う日まで―、また会う日まで―」、と言って終わっていました。

 数え歌は昔の漫才さんが散々使い古した古典的なパターンです。古いのです。型にはまって動かしようがないのです。他の漫才が、取りネタに爆発的な笑いを作ろうと苦心している中で、親父は、「いつまでやってもきりがないー」、と言って終わるのですから、下げを期待しているお客様はがっかりです。それを昭和40年の時点で、まだやっている親父の芸には限界があったのです。それでもよく入賞させてくれたと思います。

 この先、親父が、楽器をやめて、喋りに専念して、喋りの技術を磨いたなら、親父は笑いの世界で大きなポジションを得ていたでしょう。然し、親父は数え歌をやめることをしなかったのです。なまじキャバレーで安定して稼げたことも、後で考えたならマイナス要因だったのかもしれません。条さんも、親父の型を崩してまで喋りの改革をしようとは考えなかったのです。ある程度食べて行けるだけの成功を収めたなら、そこに満足をしていたのでしょう。結果として、親父は生活はキャバレーに安住して、またぞろ、マージャンと競馬に明け暮れるようになります。その先の一手を考えると言う人ではなかったのです。

 

 そのころ私は、学校の休みの時期や、日曜日などには親父にくっついて行って、楽屋に入り浸っていました。そのうち、小学校5年生くらいになると、舞台に上がって見たくなりました。しかし子供に喋りは難しく、親父のような天然の面白さは私にはありません。何か舞台に上がれる方法はないものか、と考えていると、どうもマジックは面白そうだと気付きます。あれを覚えたなら舞台に立てるのではないか、そう考えると急にマジックに興味が湧いて来ました。

続く