手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

王子様プロマジシャンになる 3

王子様プロマジシャンになる 3

 

 私は、20代半ばでコンテストに見切りをつけて、別の成功の種を探していました。具体的には、昔のマジシャンを訪ね、古い作品を習いに行って、ひたすら古典作品の改案を続けていました。当時、昭和50年代ですら既に誰もやらなくなっていた作品を集めてはアレンジして舞台にかけていたのです。

 と同時に、お笑い芸人とひたすら付き合っていました。当時のツービートの北野たけしさんや、星セントルイスさんなどと、しょっちゅう喫茶店で話をしたり、一杯飲みに出かけては話を聞き、影響を受けていました。

 今、そんな話をすると、みんなうらやましいと言いますが、昭和50年代のお笑い芸人の世間の評価は、信じられないくらい低かったのです。私は北野たけしさんを天才だと思っていましたが、世間の評価はさんざんで、ネタの内容が、「ブス、ばばぁ、やくざ、うんこ、おしっこ」ですから、お笑いの中でも最低の扱いを受けていたのです。

 当時のたけしさんは、仕事も少なかったので、飲みに誘えばいつでも一緒に酒を飲むことが出来ました。私はどれだけたけしさんに影響を受けたか知れません。たけしさんの笑いの発想、社会の見方、ネタの作り方。現実に、一つのネタを毎日演芸場で繰り返し演じている過程で、笑いの厚みが毎日変化して行くのが分かりました。「あぁ、笑いとはこうして作って行くのか」。と、実際、傍で見ていて彼らの思考の過程が見えたのです。

 これが私の喋りにどれだけ役に立ったか知れません。無論、私の親父や、親父の仲間の昔の芸人さんたちの影響も随分受けました。そうした中で揉まれて行くうちに、自分自身で笑いを作り出すことが出来るようになって行きました。

 

 25歳の頃には舞台活動が忙しくなり、私はマジックコンテストからは完全に離れていました。離れてコンテストを見ると、如何にマジックの世界が狭く、多くのマジシャンが、仕事としての成功とは無縁なところにこだわって生きているのかが見えました。 

 FISMの大会も、私の友人たちは必死になって追いかけていましたが、私の興味の対象にはなりませんでした。

 むしろ、私が古い作品をまとめて作り上げた手妻(和妻)をアメリカのマジックキャッスルに持って行き演じると、たちまち、IBMアメリカのローカルコンベンションからの出演が相次ぎ、私はコンテストに出なくても既に海外のゲスト出演の依頼が舞い込んで、結構忙しく仕事をしていました。

 

 然しそれも、ひとしきり回った後、もう海外に出ることはなくなりました。それは、コンベンションの限界が見えたからです。奇術関係者の評価を当てにするよりも、国内でもっといい仕事がしたかったのです。 

 手妻をもっともっと大きく一つのジャンルに作り上げたいと思っていましたし、イリュージョンを手掛け始めていましたので、人の手配や、道具の製作に莫大な費用が掛かりました。それらをまかなうために大きな仕事を手に入れたかったのです。

「もっと高い位置に立って活動がしたい」。いつもそう考えていました。

 27歳の時に、文化庁の芸術祭に初めて参加しました。およそ芸術祭はマジシャンが参加することのない催しでした。然し、アメリカやヨーロッパの世界大会のコンテストに出るよりは地方公共団体などとのつながりが深くなって、仕事の可能性は高くなり、いい仕事が手に入ります。

 但し、芸術祭は、マジックの内容を詳しく理解して評価してくれるわけではありません。そもそも審査員の中にマジックに詳しい人はほとんどいないのです。

 そうなら入賞は楽化と言うとまったく逆で、審査員は芸能全般にはとても詳しいのです。審査員の中には、演劇評論家や、劇作家、新聞の芸能欄の評論家、古典芸能の研究家などがいます。そうした人たちが見て、マジックがどこまで芸術性があるかを評価します。

 つまり、マジックの世界の価値観など、天から通用しないのです。全くマジックコンテストの審査員とは真逆な評価をするのです。無論プロとして何十年かの実績を持って活動している人でなければ参加はできません。 

 審査対象は、落語や講談、漫才や、演劇、ミュージカルなど、あらゆるジャンルの中から優秀な人が選ばれます。つまり、マジシャンの中で誰がいいか悪いかではなく、日本のあらゆるジャンルの中の芸能人の一人として選ばれるのです。日本国内で舞台活動して行くためには、マジックコンテストよりも絶対価値があります。

 

 私は、昭和57年に、芸術祭参加公演で「百年前のマジックショウ」という副題を付けて、手妻のを公演しました。当時の私にとっては、五月雨(さみだれ)式に集めたマジックで、手妻だけで、2時間のショウが出来るかどうか、チャレンジしてみたかったのです。

 昭和50年代で既に手妻は崩壊寸前でした。演じ手は少なく、古い手妻師は20分、30分の演技は出来ても、2時間のショウが出来るような人は一人もいなかったのです。それをひとまとめにして、蝋燭(ろうそく)明かりで、生演奏を使って、明治15年の芝居小屋を再現して手妻をしてみました。

 この公演は、芸術祭賞の受賞は逃しましたが、その後、多くの審査員の先生方が私の活動を応援してくれることになりました。結果として、私の人生の道筋が出来ることになったのです。

 今だから申し上げますが、芸術祭賞を取るためにはいくつか勝利の法則があります。たまたま私はその法則を偶然に掴んでいたのです。法則は三つあります。

 

 1、古典の作品の復活など、地道な活動を続けていること。

 2、喋りがうまいこと。

 3、テーマがはっきりしていること。

 

1、に関しては、マジシャンの中には多彩なゲストを呼んで華々しく公演する人がいますが、そうした公演はあまり歓迎されません。むしろ、当人がしっかりコツコツ一つの活動を続けて来たかどうかが大切で、その成果が見たいのです。

2、マジシャンが、テレビや、芸能活動で成功しないのは、喋りがうまくないことです。そもそもマジシャンの喋りのまずさは悲劇的です。マジックの世界で、8分間の手順の評価だけ受けていたなら気付かないことでも、1時間以上の公演をすれば、喋りの技術はまるわかりになります。全ての芸能家の中での評価としてみると、マジシャンの喋りは技法を無視していますし、センスが感じられません。審査員の評価は厳しいのです。

3, 一つ,、二つのハンドリングの巧い拙いなどと言うのは、評価の対象にはなりません。マジシャンが人生をかけてしたいことは何なのか、この先どうして生きて行きたいのかが明確に伝わらないと芸術としての評価の対象にはなりません。

 明日はもう少しそのあたりを詳しくお話ししましょう。

続く