手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

クロネコの都築さん

 クロネコヤマトの元社長(その後会長)、都築幹彦さんが8月16日に亡くなりました。享年91。私はどれほど都築さんにお世話になったか知れません。

 都築さんはクロネコヤマトの社長時代からマジックを趣味にしておられて、会長職を2年務めた後、さっとすべての役職を退かれて、趣味の人生に生きることを決断します。東京アマチュアマジシャンズクラブに所属されて、毎年一回盛大な発表会をされて、派手なステージをするのが楽しみでした。特に手妻に興味があり、和服を着て華々しい手妻を見せるのが生きがいのようでした。

 初めは全くの独学でなさっていたのですが、手妻には細かな約束事があり、それを基礎から学ばなければこの先の発展がないことを知り、私の門を叩きます。

 それが平成10年の1月のことでした。

 当時私は、前年の12月に父を亡くし、大きな葬儀をしましたが、父に全く財産のなかったことを知り、結局私の支出になって、のしかかってきました。それは致し方ないことと諦めましたが、肝心なのはこの先のことでした。

 それまで五月雨式に覚えて来た手妻を、本物にまとめようと考えていました。つまり、道具一つにしても、マジックショップが合板で作ったの箱モノをやめて、指物職人に組み込み式に作ってもらい、そこに漆を塗り、金蒔絵を施して本物の道具で演じようと考えました。然しそれをどの作品もそのようにして、衣装から、道具から一式コーディネートをすると、数千万円かかります。その費用をどこから出すか、構想ばかりが先に立ち、現実には全く前に進んでいなかったのです。

 翌年1月に、私は、構想が前に進まないまま頭を悩ましていると、突然都築さんがやってきて、手妻を習いたいと申し出てくれました。それも必ず月に2回稽古をつけてもらい、少なくとも5年間は習いたいという話です。願ってもないことですぐに了解しました。すると、3月になって、多胡輝(千葉大学名誉教授、頭の体操の著者)先生が都築さんの噂を聞きつけて、訪ねて来て、都築さんと同じく習いたいという話になりました。このお二人が私についてくれたことは私の活動を大きくしました。

 お二人とも70歳を過ぎてはいましたが、講演活動が忙しく、随分大きな所得を得ています。そうした方々が私を支えてくれたのですから、一遍に私の活動に火が付きました。リサイタルをするとなれば、チケットを何十枚も買ってくれますし、道具を新規注文するときは必ずお二人も注文してくれました、衣装もどんどん作ってくれます。

 また仕事を随分紹介してくれました。公私ともに随分親身になって協力してくれました。私の活動の幅が大きく変わっていったのは言うまでもありません。

 お二人とも、東京アマチュアマジシャンズクラブの発表会では華々しく派手な舞台を競われますので、そのご指導で随分いろいろご協力をしました。この15年間くらいの活動はお二人の指導をしつつも、手妻のあらゆる部分をレベルアップすることに大いに役立ちました。全く私の人生にどうしてこんなに願ってもない展開が来るのか、何か、大きな運命すら感じました。今、考えても有難い時代でした。

 

 都築さんの従弟さんに榎本健一さんがいます。喜劇王と呼ばれ、大正末期から戦前戦後にかけての大スターです。エノケンさんの名前で親しまれ、三尺佐五平などと言う映画では、体の小さな武士の役をして、体よりも長い刀を差していて、刀のさやの先が地面に着くためにそこに滑車が付いていました。小さな体で、滑車の付いた刀をころころ引きずって動き回るのが面白く、子供だった私は夢中で見ていました。

 このエノケンさんがまだ若いころ、仕事がない時に都築さんの実家の煎餅屋さんを時々手伝っていたそうです。実家は愛知屋と言う大きな煎餅屋で、小売りではなく、全国のお菓子屋さんに卸していたそうです。その恩義を感じて、エノケンさんは、有名になってから、日劇公演などの際には、都築さんを車に乗せて、楽屋に連れて行き、一日遊ばせていたそうです。

 戦時中は米が仕入れられず、愛知屋は店を閉めます。戦後、無一文になって、都築さんは慶応大学に入り、その後就職先を探します。そこでエノケンさんを訪ね、映画会社を紹介してもらいたいと相談しますが、エノケンさんいわく、「もう映画はだめだよ。この先テレビジョンと言うものが出来て、各家庭で映画や芝居が見られるようになる」。と言ったそうです。昭和23年ならば映画会社は全盛期です。然し、その時期にエノケンさんは既に映画の斜陽を見ていたことになります。

 言われて映画会社はあきらめてどこか仕事斎はないかなとみると、ヤマト運輸と言う会社が募集をしていたそうです。ヤマト運輸の名前は知りませんでしたが、面接の練習に受けてみようと考えて出かけて見ると、うまく合格します。そのまま入社したのですが、実はヤマト運輸の初代社長は、運輸会社もこれからは体力のある若者だけでなく、頭脳の明晰な社員を入れなければいけないと言って、たまたま慶応大学に張り紙を出して10人だけ大卒を募集したのだそうです。

 その10人の中に都築さんがいたわけで、全く偶然の入社だったわけです。然し、入社してみると、配送と言う仕事は面白みのない仕事で、すでに契約している会社の製品を決まった場所に届けるだけのことで、変化もなく発展もない会社に見えたそうです。そのため2年の内に9人の慶応の仲間が辞めてしまったそうです。残された都築さんも、やめる時期を狙っていたそうですが、ある時、上司に飲みに誘われて言われたことが、

 「世の中で成功する人は、縁を生かせる人だ。君は縁あって、この会社に入ったのだから、その縁を生かすべきだ」。と言われたそうです。言われてしばらく会社にいると、二代目になる社長の息子さん(小倉さん)が、「企業の製品を輸送するのはやめて、いまアメリカで当たり始めている、小口の配送に切り替えたらどうか」、と言う提案を役員会議でします。当時一番末席の役員だった都築さんはその提案に賛成。他の役員は全員反対だったそうです。

 どんな地域でも翌日配達、どんな荷物も一つ1000円、それを達成させるというのですから、誰が聞いても無謀です。高速道路も満足に出来ていない時代に、陸送で、地方の輸送会社と連携を取って、小口の荷物を運んで、しかも収入が一つ1000円と言うのでは会社は成り立たない。と誰もが思います。然し、大手の運輸会社に押されて、シェアを失いつつあったヤマト運輸に選択の余地はなかったそうです。

 それから二代目の小倉社長と都築さんの涙ぐましい活動が始まります。小口の宅配をするということは真っ向から郵政省(郵便局)と対立することになりますので、反発が大きく、困難を極めたそうです。それが今は75000人の社員を抱える大企業ですから、大変に大きな成果を残されたことになります。二代目の小倉さんの後は都築さんが社長になりました。更に会長になり、そのあと職を退いても、講演活動で大忙しでした。

 都築さんはいつでも陽気ないい顔をしていました。大きな仕事を成し得た人は人相までよくなるのだなとしみじみ思いました。と都築さんを思い、合掌。

続く