手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

67歳

67歳

 

 今日は私の誕生日です。1954年、12月1日、東京池上で生まれました。石田天海師が同じ誕生日だと聞きました。だからどうというものではありません。単なる偶然です。

 11歳でマジックを始め、12歳にはもう舞台に立っていました。以来今日までずっとマジックを職業として生活をしてきました。

 舞台歴55年と言うことになりますが、別段どうという感慨もありません。ただ続けて来ただけのことです。特別才能があったわけではありませんし、自分自身がマジシャンに向いていたかと問われても、はっきり天職だと言えるほどの能力はなかったように思います。

 

 ただ、私は子供のころから話が面白いとはよく言われました。私の話はずっと聞いていても飽きない。と大人に言われました。私の喋りは、親父がお笑い芸人で漫談をしていたことに大きな関係がありました。

 子供のころから親父の喋りの影響を受け、いつも舞台袖で見ていました。そして親父の面白さに常に嫉妬していました。親父の捨て身の喋りには、どう逆立ちしても子供だった私は真似できないのです。

 親父の才能は、言葉のちょっとしたひねりとか、芸人の常套手段のネタで笑わせるような平凡なものではなく、心底、自身をさらけ出して笑いを考える人でした。

 元々親父は面白い人でした。家にいても常に家族を笑わせ続けました。楽屋も同様で、芸人仲間を相手に常に笑わせていたのです。それは自らをさらけ出して捨て身で作る笑いでした。到底子供の思い付きなどで勝てるものではありません。

 それを目の当たりに見ていると、「自分はお笑いでは絶対生きてはいけないなぁ」。と諦めるほかはありませんでした。

 そんな中で見つけたマジックは、その時の私にとっては一番向いていた芸能だったのだと思います。きれいごとの世界ですし、うまく見せるとお客様が納得をしてくれます。笑いの人たちに入って演じるとひときわ目立つ存在でしたし。当時は可愛い少年でしたから、お客様が随分良くしてくれました。

 すっかりその気になって、自分の才能も考えず、マジックに没頭していました。演技はロープやリングやカードを、喋りを交えながら演じるスタイルで、誰から習ったわけでもなく、自然にできて行ったスタイルでした。

 当時、喋りのマジックで人気だった、アダチ龍光先生や、ダーク大和先生にはずいぶんお世話になりました。親父からの紹介もあってか、二人の先生は親身になって私を育ててくれました。その甲斐あって私は喋りの達者な若手として結構忙しく舞台活動をしていました。

 10代から20代は、スライハンドを学び、鳩出しやカードを随分向きになってやりました。幸い仕事は忙しかったのですが、私のスライハンドはどうも自分自身で演じていても満足のゆくものではありませんでした。

 その後、20代後半になってイリュージョンを始め、東京イリュージョンと言うチームを起こし、株式会社にして、大勢人を雇って、バブルの時期にはずいぶん大きな仕事をしました。

 33歳で文化庁の芸術祭賞を受賞したときに、イリュージョンの演技とともに、これまで習い覚えて来た手妻をひとまとめにしてアレンジや、創作をして一つの型を作り上げました。この辺りから、イリュージョンと、手妻の二本立てで私の活動は活発化して行きました。

 30代の私は絶頂を迎えていました。それが平成5年を境に、バブルが弾け、あっという間に収入が下がりました。

 仕事が減る中。チームと会社を何とか維持しなければならず、毎日悩みました。ある時、スケジュール表を見ていると、イリュージョンの仕事は激減していましたが、水芸などの手妻の仕事は減っていないことに気付きました。平成5年、6年の時点で既に手妻の演じ手はほとんどいなかったのです。そのため和のマジックは、私のところがほぼ独占をしていました。

 そうなら子供のころに習い覚えた手妻に特化したなら生きて行けると考え、以後手妻に専念するに至ります。そしてその後幾つかの受賞を経て、40歳を過ぎてからは手妻が私のイメージとして定着しました。

 私のところに弟子入りしてくる人たちも、多くは私の手妻の技を学ぶために入門してきます。

 こうして、マジックを55年間続けて来ましたが、マジックと一言で言っても、喋りのマジック、スライハンド、イリュージョン、更には手妻と、形を変えて生きて来ました。

 幸いに他の仕事をしないで、常にかかってくる電話だけで生活できたのです。その時は別段それを普通のことだと考えていましたが、今から思えば幸運だったと思います。

 

 私はまったく世界大会のコンテストなどには興味がなく、20代前半に数回コンテストに出た(メーカーに頼まれて、数合わせで出ただけ)以外はまったくコンテストのチャレンジなど考えたこともありませんでした。

 にもかかわらず、SAM、IBM、PCAM、FISMのゲスト出演をたびたび引き受け。随分世界中で公演をしてきました。有難いことでした。それもこれも和のマジックを習得していたから招かれたのだと考えています。

 40代以降、私は少しずつ、これまで私を良くしてくれたマジックの世界に、お返しをしようと、ささやかながら人を育てるための活動を始めています。弟子を育てることは勿論です。他に東京、名古屋、大阪で洋物、和物の両方のマジックを指導しています。

 また、舞台に出たい、プロと一緒に活動して見たいという人のために、ショウをする場を作っています。マジックセッションなどはその活動の中心です。

 どんどん少なくなって行く日本の舞台芸術の世界を、少しでも、ショウの面白さを伝えるべく活動しています。何となく生きて来た55年間でしたが、どうやら正道な道を歩んできたようです。確実に言えることは、私は常に、何らかの見えない力に引っ張られて今日まで来たように感じます。

 喋りのマジックをしていた時から、スライハンドも、イリュージョンも、手妻も、そして今若い人たちと舞台活動をしているときでも、どこからかの見えない力が私を引っ張ってくれていると常に感じます。困ったときには必ず協力者が現れて助けてくれました。有難いことだと思っています。67年間、私をこうして生かせてくれたことに今改めて感謝しています。

続く