手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時流を読む 3

時流を読む 3

 

 以前にあるマジシャンと話をしていた時に、「藤山さんは昔、宇宙服着て鳩出し

をしていましたよねぇ。それがある日突然着物を着て、和妻をやりだしたのはなんでなんですか」。

 この時私は、人から見たら私はそう見えるのかなぁ。と改めて認識しました。確かに40代半ばまではスペースイリュージョンと称して銀色の燕尾服を着て鳩を出していました。そして今は手妻を演じています。知らない人が見たならある日突然、100%生き方を変えたように見えるでしょう。

 私とすれば、手妻は子供のころからしていましたし、舞踊も、長唄も十代から稽古をしていました。イリュージョンはその時代のマジシャンとして、ベストの活動だと考えてやっていたのでした。イリュージョンのお陰でチームも持てましたし、事務所も家も持てたのですから、有難いことでした。そしてそこから手妻に移行したことも、突然変身したわけではなく、以前からの活動をより充実させて行った結果だったのです。

 つまり、「今まではイリュージョンの時代だった。これからは手妻だ」。と言って素早く乗り換えたわけではありません。私としては理路整然と、なるべくしてそうなって行ったのですが、ここでご理解いただきたいことは、洋服を着物に着替えて、小道具を取り換えたなら、イリュージョ二ストが手妻師に変われるというものではないのです。

 

 今、和妻を演じる人が増えていますが、鳩の代わりに傘に置き換えて、シルクやセンスをどんどんテンポよく出すことが和妻だ、と考えて和妻をしている人がいます。果たしてそうした演技に多くの支持者がいるかどうか。お客様は和妻からそうしたスタイルを求めているのかどうか。

 その発想は、小道具を和の素材に置き換えただけで、西洋マジックの手法で西洋マジックを演じているのと同じことなのです。なぜ西洋マジックが飽きられてきたのか、そのことの答えを出していないように思います。そしてなぜ和妻を人が見たがるようになったのか。そこを突き詰めていないまま、西洋奇術を小道具の置き換えだけで和妻にしてしまうと言うのは安易です。それでは大して仕事は取れないように思います。無論、どんな考えで和妻をする人がいてもいいのですが。

 どうも多くのマジシャンは、流行で和妻を捉えようとします。そのことはかつて、超魔術が流行ったときに、みんなサングラスをして、袖まくりをしてESPカードのあて物をしていたのと同じことで、真似ることが何となく流行に乗っているように見えて、新しく感じるからそうしているのでしょう。然し、そうした人たちは流れが去れば自然に手妻の世界から去って行く人なのだと思います。

 ある意味それはそれでいいのです。但し、彼らの考える流行と、私が言う、「平成の時代は、伝統芸能の回帰に時代であり、日本人が立ち止まって物を真剣に考えるようになった時代だ」。ということとは大きく違います。これはファッション(流行)を言っているのではなく、人の進歩を言っているのです。

 多くのお客様が、マジックにもう一つ深みのある芸はないかと探したときに、そこに手妻があったわけです。その手妻がどんなものであるか、手妻の目指していたものがなんであるかをわからなければ、いくら着物を着て手妻を演じても報われないでしょう。私の仕事は実際の演技を演じながら、手妻とは何かを語って行くことです。それは宇宙服から着物に着かえたと言うのとはずいぶん違う考え方なのです。

 

 その後、50代になって、私の手妻研究は、新潮選書から「手妻のはなし」という本を出して、一つにまとめました。これは資料集めに5年をかけ、書き上げるのに1年を要した大作でした。今もう一度こんな本を出してくれと言われても、もう体力が持ちません。いいときに大きな仕事をしたと思っています。

 この本はその後の講演活動などで随分役に立ちました。著作を持っているということは、講演依頼には有利ですので、効果は絶大でした。いずれにしても、30代まではイベントに出演するタレントとして活動を続けてきましたが、その後は講演と手妻で活動をしています。そうした私のスタイルが、平成の時代にはぴったりはまったのでしょうか。今日まで比較的に安泰に生きてゆくことができました。

 

 さて、時代は平成を終え令和になりました。令和は平成とは大きく変わらない時代だろうと考えていたら、突然コロナ騒動があり、世界中が大きく転換せざるを得ない時代に至りました。

 それは。ちょうど昭和から平成になったときに、すぐバブルがはじけて、拡大してきた経済に急ブレーキがかかったように、令和になった途端、世界中の人がコロナウイルスによって交流や、経済活動が壊滅的な打撃をこうむってしまいました。コロナが騒がれる1年3か月前までは観光業界は業績が上り調子で、飛行機会社も新幹線もホテルも活況を呈していたのです。

 マジシャンも例外ではなく、アメリカでもヨーロッパでもアジアも日本も、マジシャンの舞台はほぼ全滅の状況です。人集めのために成り立っていた仕事が、人を集めてはいけないというのでは何もできません。こんな時代にどういう活動をして生き残りを考えたらいいのでしょうか。

 実は今と同じような状況が、江戸の末期にもあったのです。その時手妻師はどう生きたのか、それはまた明日お話ししましょう。

続く