手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本奇術 西洋奇術 2

日本奇術 西洋奇術 2

 

 私は、一つの世界の発展は、多分に世の中の大きな流れに合致している。と見ています。

 昭和40年代、日本奇術が西洋奇術に取り込まれて行き、辛うじて種仕掛けだけが残り、あわや継承部分が消え去ろうとしていた時期。実は日本全体の文化や仕組みが同じように伝統を否定され、日本の文化が失われようとし、その後の生活様式が変わろうとしていたのです。

 日本奇術、西洋奇術と書くと、マジックに馴染みのない人には、何のことかさっぱりわからないと思います。それを建築の世界を例にとって、和室、洋室で比較してみると、話はよくわかると思います。

 

 少なくとも私の子供のころ、昭和30年代までは和室と洋室ははっきり違う作りをしていました。当時の家は軒並み日本建築でした。どの部屋も畳み敷きでしたし、全ての部屋は障子か襖で仕切られていました。

 無論、洋間のある家もありましたが、それは町内でも豊かな生活をしている人の家で、その家は、総体が日本建築で作られている中で、玄関わきに張り出した西洋建築が付いていました。その部屋だけが建物の作りが違っていて、屋根がとがっていたり、壁が板壁でなく、石が貼ってあったり、窓が出窓になっていて、外見からして既に洋風になっていました。

 中に入るには、ドアがあって、その先は床張りで、壁は漆喰か布張りで、長押(なげし)に漆喰などで唐草の模様が浮き出されていました。天井には小さなシャンデリアが吊ってありました。

 当時の日本人がどういう価値感で洋間を考えていたのかはわかりませんが、洋間とは単なる板の間ではなく、床から壁から天井から日本建築とは全く違った造りになっていたのです。

 

 それが、昭和40年代に入ると、洋間はどんどん日本人の生活に普及してきました。当時盛んに作られた、団地や、マンションが洋間を後押ししました。アパートや建売住宅の間取りを見ると、「和6、洋6、キッチン、風呂トイレ付」などと書かれていて、図面には、和室と洋室が隣同士で並んでいたりします。和室と洋室は襖(ふすま)で仕切られていて、襖を開ければ簡単に出入りできるようになっています。

 然し、鍵のかからない部屋は洋室とは言えません。西洋の考えでは部屋とは個人のものです。個人のプライバシーが守られない部屋は部屋ではありません。襖に鍵はかかりませんから、洋室とは呼べません。然し、そんなことは関係なく、板の間イコール洋間と言う考えになって行き、洋間が普及し始めます。

 和室の方も、畳が敷いてあるためにかろうじて和室と呼ばれるようになり、床の間もなく、時に、押入れもなく、廊下もなく、ただ6畳のスペースに畳が6枚敷いてあるだけのものが和室になって行きます。

 あらゆる日本建築の文化や工夫がはぎ取られてしまい。畳だけが残されて、それを和室と見られるようになります。仮にこうした部屋で育った子供が、「あぁ、和室はいい」。と思うかどうか。つまりこの時代の和室と洋室の違いは、板の間なのか畳敷きなのかの区別だけになって行きました。

 

 それが昭和60年代から平成に入ると、新築マンションなどの図面の上では和、洋の区別もなくなって来ます。フローリングの部屋と畳の部屋に分かれるようになり、すでにフローリングが当たり前の時代になって行ったのです。

 つまり、多くの家では、ベッドや机を置きやすいフローリングの部屋を好むようになり、どんどん和室は特殊なものになり、和の文化の愛好家のための部屋になって行きました。

 

 そんな状況の中、昭和の末頃から、贅沢な日本建築が作られるようになります。旅館や、高所得者の個人宅などで、日本建築の中にうまく洋間を取り込んで融合させたモダンな日本建築の家が出て来ます。

 日本建築はいい。と考えている人でも、そっくりそのまま旧家に暮らすことはとても生活しにくいことは分かります。ベッドやソファーの生活に慣れ、広いリビングを求める現代の人たちには、間仕切りの多い、古い日本建築は生活しにくいものになって行ったのです。

 このころから、和の何を残し、何を変えて行くか、取捨択一をした上で、日本文化を見直して、日本人が住む家を考えるようになります。平成以降、ようやく日本人は、新たな日本文化を考え始めたと言えます。

 

 と、日本建築の話が長くなりましたが、ここまでの話の流れをご記憶の上、この先をお読みください。

 

 さて昭和40年代になると、東京の一徳斎美蝶師は亡くなり、関西の帰天斎正一師は亡くなり、急激に手妻の演者はいなくなります。そうした中で、新しい手妻を演じるアマチュアさんや、プロが出て来ます。

 それは旧来の手妻の演技とは関係なく、和服を着て、和風の演技をする人たちで、時折、海外のマジシャンが着物を着て日本風のマジックをするのと同じような感覚で、伝統とは無縁の日本風マジックをするようになります。

 かく言う私も例外ではなく、自分なりに工夫した手順を作って、和服を着て演じていました。それは、子供のころに習った、連理の曲や、蒸籠だけでは手順が足らないため、手順に前づけ、後付けをしないと今の時代の演技にならなかったためです。今思えばそれはへんてこなマジックでした。

 他の人たちも似たり寄ったりで、手妻ではない内容で、西洋マジックを置き換えて手妻を演じていました。ゾンビボールや四つ玉を毬にして演じたり、ロープマジックや、リングをそのまま和服で演じたりする人が出て来ました。

 それらは一見創作マジックのようではありますが、手妻ではありません。

 

 そのうち、アメリカで活躍している島田晴夫師が日本に来て、和服で傘をたくさん出す演技をしました。昭和40年代末のことです。この演技が見事だったために、その後、傘出しをする人が増え、傘イコール和妻(手妻)だと認識する人が増えて、旧来の手妻の演技に関係なく、傘出しが持て囃されるようになりました。

 島田師の傘出しは師のオリジナルであり、手妻とは何ら関係のない演技です。従って、この手順が普及することが手妻の普及にはなりません。これはあくまで島田師の演技であり、それを真似る人は島田師の模倣なのです。無論、島田師から直接習っているなら問題はありません。但し何度も言うように、これは手妻ではないのです。

 こうした演技が流行るようになると、私のように子供のころから手妻を覚えて来た者は、一体手妻の何を残し、どう演じて行っていいのか、そして誰を対象に手妻を演じて行ったらいいのか、苦悩することになります。次回はそのことからお話ししましょう。

続く