手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本奇術 西洋奇術 4

日本奇術 西洋奇術 4

 

 こう書くと、私が手妻のことを何でも知っていて、唯我独尊。自分以外は何も知らない人たちだと言っているように聞こえるかもしれません。

 そうではありません。私がやっていた日本奇術は失敗の連続でした。22歳で初めて手掛けた日本奇術はお粗末なものでした。毛花をテーマにして、舞台一面、たくさんの毛花を咲かせる手順で、まったく学生や、素人の発想であり、およそ手妻の要素のない我儘なものでした

 但し、相当に費用をかけて作ったものでしたので、派手なことは間違いなく、これはこれであちこちで買い手がありました。自分自身ではそれを喜んでいたのです。

 NHKの歌の番組でもゲストで使ってくれました。放送後、視聴者から送られて来た手紙がNHKから届きました。内容は、「若くして日本奇術を目指す人がいることに感動した」。と言うものでした。名前は薮下隆男とありました。

 それから1年後、日本テレビのマジック番組でコンテストがありました。私はコンテストに出場しました。そこに薮下隆夫さんがいました。彼は高校を出たばかりでプロを目指していました。のちのマーカテンドーでした。初めて会いました。

 彼は私に会うと、「前にNHKに手紙を送ったんですが、届きましたか」。と言って来ました。無論、届いたことを伝えました。「なぜ私に手紙を書いたの」。と尋ねると、「自分の考えを形にして世間に発表するマジシャンがほとんどいないから、すごいと思いました」。

 当時は既製品のマジック道具で手順を組んでそれで生活するマジシャンがたくさんいたため、珍しく思ったようです。然し、手紙をくれた人が高校生だったとは知りませんでした。

 

 高校生だった薮下さんには褒められましたが、その後、私は自分勝手に作り上げた日本奇術を恥じるようになりました。これでは外国人がエキゾチズムを狙って演じるジャパニーズマジックと何も変わっていないと知ったのです。

 もっともっと昔の型や振りを尊重して、古典を柱として、それをアレンジして現代に通用するような手妻を作らなければ、駄目だと思いました。然し、同時に、古い物をそのまま演じることに後ろめたさがありました。

 それは、昔の手順と言うものが時として未熟に感じられたからです。蒸籠のネタどりであるとか、引き出しの玉を懐に隠すところとか、お椀と玉の第3段、4段のハンドリングとか、

 どう考えても今のお客様が納得する手順ではない。と思う部分がいくつもあったのです。それゆえに、ついつい古い手順を嫌って、やらずにいたのです。また昔の師匠は、手順を変えることをとても嫌がりました。勝手に直すと怒られたのです。ある意味、手妻は因循姑息な社会だったのです。

 然し、そうであるにしろ、古い手順を尊重しない限り、手妻は演じられません。

 そこで、ひとまず変なオリジナルは引っ込めて、アレンジも最小限にして、あちこちに出掛けては習い覚えた作品をひとまとめにして、形式も、演技そのものも古い形に戻して、手妻を手妻として演じて見ようと考えたのです。

 1983(昭和58)年、初めて芸術祭参加公演をして、古い形で手妻を再現してみました。タイトルは、「文明開化新旧手妻眺(ぶんめいかいか、しんきゅう、てづまのながめ)」

 

 これは全編蝋燭(ろうそく)灯りを使って、生演奏を使い、口上を交え、明治15年を想定して、昔の形式のままに手妻の興行を再現してみたのです。

 なぜ手妻の公演を明治15年に想定したのかと言えば、明治15年以降、急激に手妻師の数が減り、西洋奇術が台頭して行ったためです。

 一度明治15年に戻って、なぜ手妻が廃れて行ったのか、手妻は何もかも古臭くてつまらないものだったのか、手妻から今に生かせる作品はなかったのか。それをテーマとして再現してみました。

 この中には当時としては珍しい、一里四方取り寄せ、や、つづら抜け、などを復活させ、こんな風に演じていたのではないかと想像して、あくまで昔風に演じて見ました。

 

 審査結果は受賞に至りませんでしたが、思わぬことに、審査員の中から相当数の方々が熱烈に支持してくれました。そうなら受賞しそうなものですが、審査員いわく、「藤山さんはまだ若いから、年長者に賞を譲ったんだ」。と言いました。

 当時私は28歳でした。当時の考え方として、芸術祭と言うのは、功成り名を上げた芸人さんがもらう賞であって、20代の若手が取る賞ではなかったのです。

 但し、審査員の方々からその後いろいろな公演の依頼をいただくようになりました。何とはなしに私の芸を温かく迎えてくれる人たちが集まるようになってきたのです。まったく理解者もなく、仕事場も少ない状態での手妻の活動でしたので、有難いことでした。ようやく光が差してきたように感じました。

 

 ここで私が、ブログの初めから、手妻、和妻をあえて日本奇術と書いていたことについてお話ししましょう。日本奇術とは、西洋奇術の対語であり、和妻も洋妻の対語です。洋妻と言う言葉が消え、西洋奇術と言う呼び名も消えた今、日本奇術、和妻と言う呼び名は浮浪(はぐれ)雲のように空を漂っていて、何に対して日本なのか、和なのか見当が付きません。

 本来手妻と言う呼び名があるなら、名称を手妻に戻し、手妻は、マジックに対して、もっと内容の濃い、コクのある芸能にして行かなければ生き残りは不可能です。

 そうなら日本奇術を手妻と呼ぶようにしよう。そのため、「新旧手妻の眺め」と、手妻と言う名称をタイトルに使ったのです。日本奇術は手妻であるべきだ、と気付いたのはこの28歳の公演からでした。

ここからその先の私の活動は目的が決まったのです。

続く