手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初代と三代目 2

初代と三代目 2

 

 治三郎は、オーストラリアやシンガポールで舞台活動をしているうちに、海外のマジシャンとも交流をすることになります。そして、海外のマジシャンと言うものが、実にあっさりとマジックの種仕掛けを金でやり取りをするのを見て驚きます。

 柳川一門であればどんな種仕掛でも秘中の秘であるのに、彼らは金さえ払えば、教えてもくれるし、道具も打ってくれるのです。彼らは、帰国をするときに、荷物を持って帰ると運賃がかさむため、いとも簡単にアマチュアやプロ仲間に道具を売り渡します。治三郎はそんな海外のマジシャンを軽蔑しつつも、彼らから道具を仕入れて、日本に帰国をします。

 日本に帰ってみれば、徳川の時代は終わり、日本は帝(みかど)が直接治める国に代っていました。将軍は旗本を引き連れ、静岡に移封されていました。江戸の町は東京と名前が変わり、侍も旗本もいなくなったことで、一遍に景気が悪くなり、火が消えたようでした。

 正直なところ、治三郎は、日本に帰ったなら蝶や蒸籠などの日本手妻を演じて、その中に外国で買い求めた、珍しい西洋手妻を取り入れて、目先を変えつつ生きて行こうと考えていました。

 然し、日本では、国中が古い日本の芸能を嫌がり、目新しい西洋のものを求めているように見えました。そうであるなら時代を先取りして、心機一転、自らが洋服を着て、西洋で仕入れて来た奇術で西洋奇術師となって舞台に出たほうが稼げるのではないかと考えるに至ったのです。

 実際、両国や浅草では、洋服を着て、西洋奇術師と銘打って、大当たりしている奇術師もちらほらいたのです。治三郎はこの時22歳。初代からは最も筋の良い弟子と認められて将来を約束されていましたが、あっさりと手妻を捨てて西洋奇術に鞍替えします。

 治三郎が仕入れてきた奇術に「壺抜け」、と言う奇術があります。テーブルの上に大きな壺が乗っていて。中に女性を入れて、呪いをすると、中の女性は消えてしまい。一瞬で客席の奥から登場します。ミラーを応用したトリックですが、平板の大きなミラーが日本国内では珍しかった時代に、この奇術は不思議がられました。

 治三郎は西洋奇術師で売り出し、一躍興行界で人気を集めます。海外では手妻で稼ぎ、日本に帰って来ては西洋奇術で稼ぎ、治三郎は得意の絶頂でした。そんな時に、先輩連中が柳川一蝶斎の名前で争っている姿は嘆かわしいものに見えたことでしょう。

 やがて二代目がアメリカから帰国をすると、柳川の騒動は一層紛糾します。二代目一蝶斎がいながら、何人もの三代目一蝶斎が現れて名前を語って舞台に出ていたわけですから、一門が険悪な様相になっていました。

 ここで二代目が毅然とした態度を取り、家元を軽んじた弟子たちを破門にして、柳川一門を立て直すべきでした。ところが、二代目は、自分よりも年かさの上の兄弟子連中に遠慮して、三代目を名乗る連中を黙認してしまいます。これでは一蝶斎の価値は地に落ちてしまいます。

 折から江戸時代の芸能は飽きられて行き、なおかつ地方から参勤交代で来る侍がいなくなり、観客がが激減して、小屋掛けも寄席も維持できなくなり、東京の芸人は、生活して行ける状況ではなくなっていたのです。

 江戸では唯一、西洋奇術師だけが物珍しさで観客を集めていました。ところがその物珍しさもせいぜい明治5年くらいまでのことで、壺抜けも、何度も見ているうちにはあまり変化もなく、技としてのうまみが感じられないために、徐々に飽きられて来ます。

 始めは面白いように稼げた西洋奇術も、作品が目新しいものではなくなると、徐々に仕事の依頼は来なくなります。そうなると解決の道は二つしかありません。

 一つは元の手妻に戻ること。然し、手妻自体が逆境のさ中にあります。あれほど名前の争奪戦をしていた先輩芸人達は、あっという間に失業していなくなっていました。力のないものが一蝶斎を継いでも維持できないのです。手妻は明らかに陰りが見えました。

 もう一つの道は、再度海外に出て、西洋奇術の道具を仕入れて来ることです。治三郎は再度香港やシンガポールに出かけます。蝶の芸でひとしきり稼ぎ、その収入で西洋奇術を仕入れて帰国します。そして、新規の奇術で興行をしますが、明治6~7年には、西洋奇術師も増えて、西洋奇術そのものが珍しくなくなっていました。ひとしきり興行で回って見ても、かつてのような稼ぎは出来ません。治三郎は頭を抱えます。

 そして治三郎はまだ金のあるうちに、芸人を廃業しようと決断します。女房をめとり、家を借り、造幣局に勤めるようになります。いきなり造幣局と言うのは唐突ですが、元々親が大きな青果店を経営していて、治三郎は幼いころから帳簿を習っていましたし、海外に何年かいて英語もわかるため、雇ってもらえたのです。

 それでも造幣局の給金だけでは暮らして行けないために、夫婦してマッチのレッテル張りの内職を始めます。マッチのレッテルは、西洋ではまだカラー印刷が出来ず、単色のレッテルだったのですが、日本では浮世絵の版を生かして、複雑な絵柄で美しい色彩を描いたため、輸出品としてよく売れたのです。浮世絵師も明治になると、浮世絵が売れなくなり、マッチのレッテル描きで糊口を凌いでいたのです。

 治三郎は、レッテル張りをするうちに、そのレッテルがなかなかの芸術作品であることに気付き、出来の良いものを収集し始めました。レッテルを密かに5枚10枚とくすねて、マッチに張らずに、興味の人に見せると、面白いように高価な値段で買い取ってくれます。そこで内職をしつつ、せっせとレッテルを貯めて、裏でレッテルの売買を始めました。これは随分と家計を助けました。

 

 そうしてどうにか生活をしているところへ、二代目一蝶斎がやって来ます。二代目は「もう、生活して行くことが出来ない。千葉に隠居するから、ついては息子を何とか一人前の三代目にしてやってくれ」、と、頼み込んで来て、家元の倅の喜一郎を置いて行きます。

 治三郎は、自分たち夫婦が生きて行くことすらやっとなのに、家元の子供を預かって、しかも三代目として育ててくれとはあまりに虫のいい話です。家元が生きて行けない時代に、どうして、芸人をやめた自分が家元の息子を食べさせてやれるものか。明らかに無理な話であるのに、治三郎はこの二代目の話を引き受けます。それは初代の恩に報いようとする一途な思いからでした。

 結局、二代目は家元としての責任を全うすることなく廃業します。そしてすべてのことは治三郎に託されます。

続く