手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初代と三代目 1

初代と三代目 1

 

 手妻の歴史の中で、ひときわ輝いている手妻師は柳川一蝶斎(やながわいっちょうさい)です。この人は随分長命だった人で、明治元~2(1868~67)年まで生きていたようです。亡くなった時に81歳だったそうですから、生まれは天明5~6(1766~67)年、くらいかと思われます。

 「江戸時代の生まれで81歳まで生きたと言うのはサバを読み過ぎではないか」。と思う方もいらっしゃると思いますが、証拠があります。一蝶斎は、弘化4(1848)年に浅草で、自身の還暦を記念して、一蝶斎の名前を倅に譲り、自身は柳川豊後大乗掾(やながわぶんごだいじょう=官位)を襲名して、華々しく襲名興行をしています。

 還暦とは60歳のことですから、1848年に60歳であったことは間違いありません。江戸時代の手妻師としては飛び抜けて有名な人で、一蝶斎のことはたくさんの書物に残されています。

 

 生涯を通じて蝶の一曲(ちょうのいっきょく=紙で蝶を作って飛ばして見せる芸)を演じ続けました。紙をひねって蝶に見立てて、扇子で飛ばすと言う芸は、江戸の初めからあったのですが、それは演技としては、紙人形を立たせて歩かせるとか、羽織の紐が蛇のように動く、と言った、物がひとりでに動く手妻、「式神(しきがみ)」の演目一つとして演じていたものでした。(式神の歴史は古く、奈良、平安の頃より演じられています)。

 本来、ほんの一、二分の芸であったものを、蝶だけを単独に扱い、蝶にストーリーを付けて、蝶の一生を語る芸に仕立てたのは、一蝶斎の功績です。この芸によって一蝶斎は江戸中の評判になり、江戸見物に来る観光客や、江戸勤番に侍の間でその名が広まり、全国的に有名な手妻師になって行きます。

 幕末に至って、諸外国の公使などが日本に尋ねて来ると、幕府は接待として、一蝶斎を呼んで蝶を見せました。その時点で既に70歳を過ぎていたと思われますが、最晩年に至るまで求められるままに舞台を務め、多くの観客に支持されていました。

 芝居、落語、浄瑠璃、軽業、などと言った当時の芸能を全てひっくるめても、一蝶斎ほど恵まれた人生を送った人はいないと思われます。背の高い人で、恐らく175㎝くらいあったようです。顔立ちは、役者並みに鼻筋が通っていて、眉がキリッと締まっていて、文句のない二枚目だったようです。一蝶斎の顔立ちの良さは、外国の賓客が「今まで見た日本人の中で最も美しい顔立ちをしている」。と、褒めています。

 但し30代から頭が薄くなり、40代ですでに禿げ頭になっていたようです。もっとも、この剥げた頭がまた一蝶斎の個性で、強く人にアピ-ルしたようで、「あの頭の禿げた手妻師」、と言えば一蝶斎のことだったのです。

 一蝶斎は毎年、浅草で一か月から三か月興行し、他の月は、座敷に出たり、地方の興行に出ていたようです。座敷でも、当時一番の給金を取っていたようで、一蝶斎を呼べる座敷はかなりステータスな人たちの座敷だったようです。

 弟子も長い人生の中で30人以上も育てて、前述の如く、60歳で息子に名前を譲り、豊後大掾として時折舞台に立って、最晩年まで、蝶を演じ続けたようです。初代一蝶斎は死後も、その名は有名で、二代目が活動しているにもかかわらず、蝶と言えば「禿げ頭の人」というイメージがお客様から抜けなかったようです。

 先に申し上げたように、二代目は襲名以降、20年以上活躍したのですが、初代の人気が高かったため、二代目はなんとなく印象が薄く見られています。

 幕末期になると、日本に外国人がやってくるようになります。海外の興行師がやって来て、日本の芸能を買い漁ります。中でも蝶の芸は引っ張りだこで、初代の弟子はことごとく海外に出て活動をするようになります。

 

 さて、話は少し戻って、初代の最晩年に後に三代目一蝶斎となる青木治三郎が入門して来ました。治三郎は弘化4年の生まれ。弘化4年とは、一蝶斎が還暦記念に息子に代を譲った年です。治三郎は、神田の大きな青果店の息子に生まれ、子供のころから手妻が好きで、親の理解もあって一蝶斎の弟子になります。文久3(1863)年のことです。

 恐らく、この時、一蝶斎は75歳くらいになっていたでしょう。弟子を育てるのはもう無理だったと思いますが、青果店の親父がよほどに付け届けをしたのか、よほど芸質(げいたち=素質)のいい少年だったのか、とにかく一蝶斎は治三郎の才能を認め、弟子に取りました。これが後々、当人にも、柳川の流派にも大きく運命を決定します。

 治三郎は、蝶之助と名乗り、柳川の芸を習得します。折から海外の興行師が日本にやって来て、柳川の手妻師はみな買われて行きます。蝶之助も、オーストラリアからシンガポールの舞台に二年ほど出かけます。慶応2年のことです。

 更に、二代目の一蝶斎までもがアメリカに出かけて行きます。つまり柳川は家元から弟子からみんな海外に出かけてしまいます。そうした中、明治2年、初代が亡くなります。この時、二代目はアメリカに行っていたため、初代の葬式に間に合いませんでした。

 ところが弟子の中には、葬式にいなかった二代目をなじるものが出て来ます。更には、二代目は事故で命をとしたと嘘の情報を流すものも出て来ます。すると、それなら三代目を決めなければいけない、と早とちりする者が現れます。

 自分こそが初代の弟子であり、三代目の継承者だと言い出す者が出て来ます。いやいや、よくよく考えてみれば、二代目が死んだかどうかもはっきりせず、二代目と言う跡取りがありながら三代目の跡目争いをすると言う、おかしな話に発展します。

 恐らく、三代目柳川一蝶斎であると言えば、海外の興行師にも、いい給金で雇ってもらえたでしょうし、国内で襲名披露をすれば、日本中回ることが出来ると考えたのでしょう。そのため、我こそは三代目一蝶斎だと言う弟子が何人も現れて、勝手に一蝶斎を名乗り始めたのです。初代が亡くなって半年もたたないうちに、柳川一門は統制が利かなくなり、崩壊が始まったのです。

 そんな時に治三郎はシンガポールから帰国をします。明治2年のことです。帰ってみれば一門の兄弟分が骨肉の争いをしていました。治三郎は、そうした争いには全く関わらなかったようです。治三郎は、海外で稼いだギャラで西洋マジックをたくさん仕入れて来ていて、この先西洋奇術師として活動するようになります。

 初代に見込まれ、初代の後継者とみなされたほどの技量を持ちながら、治三郎はあっさりと手妻を捨てようとしたのです。それがなぜかは明日お話しします。

続く