手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初代と三代目 3

初代と三代目 3

 

 名人初代柳川一蝶斎と、三代目一蝶斎(青木治三郎)の話を書いています。輝かしき出世話に彩られた初代に対して、三代目の人生は手妻そのものが急坂を転がり落ちるかのように下って行く時代で、初代から将来を約束された技量を持ちながらも、こんなはずではなかったと言う人生の連続で、しかも手妻の負の責任を一身に背負って生きて行くことになります。

 私自身も、手妻が評価されていなかった時代に手妻を習い、散々日の目を見ない時代を経験しているために、治三郎の気持ちはよくわかります。但し、治三郎が不運であったのは、時代がそうだったから、とも言い切れないものがあります。そのことを、ここでは角度を変えて、初代帰天斎正一(きてんさいしょういち)の人生と絡めてお話ししましょう。

 

 造幣局に勤めて、家ではマッチのラベル張りを内職にして、カスカスの生活をしている治三郎は、ある日、いきなり訪ねて来た、二代目家元から息子喜一郎を押し付けられて、生活は一層火の車になります。

 そんな折、顔見知りの寄席の席亭(劇場経営者)が訪ねて来て、もう一度芸人になって、寄席に出て見ないか、と持ち掛けられます。明治15年頃のことです。

 治三郎はもう芸に対する未練はなく、むしろこのまま勤め人で終わりたいと願っていたようで、席亭の申し出を再三断ります。が、少し考えてみると、預かっている家元の倅、喜一郎を何とか世に出してやらねばなりません。

 無論、喜一郎一人を寄席に出すのは無理です。さほど修行もしていない喜一郎を、まず自らが一緒に出て、舞台に慣れさせてから、一人で活動させ行くのが良いだろうと判断します。

 そこで、造幣局には内緒で、再び寄席に出ることにします。もう5年近くも寄席に出ていなかったにもかかわらず、まだお客様は蝶之助の名前を憶えていて、温かく迎え入れてくれました。当時の寄席は夜公演のみのところが多く、日中は造幣局に勤め、夜だけ寄席を務めるようにしました。

 喜一郎はそこで蝶之助(治三郎)の舞台を手伝いつつ、少しずつ初代の芸を学んで行きます。然し、二代目が甘やかして育てた喜一郎は、舞台に欲がなく、なかなか気持ちの入った舞台をしません。結局、一、二年もすると嫌気がさして廃業してしまいます。

 残された治三郎はやむなく一人で舞台を続けていると、始末の悪いことに造幣局の仲間が治三郎の舞台を見ていて、上役に告げ口をします。結局、治三郎は造幣局を首になり、以後は寄席の稼ぎのみで生きて行くことになります。ここからが治三郎の生活の苦労が始まります。

 

 ひとまず、話を7年前に戻します。ここに林家正楽と言う噺家がいます。本名、波済粂太郎(なみずみくめたろう)。天保14(1843)年9月生まれ。治三郎よりも5歳歳上です。噺家林家正蔵の弟子になり、正楽と言う名で噺家になります。然し幕末から明治にかけては江戸の人口は激減し、しかも明治になってやってきた薩摩、長州出身の軍人や警官は、江戸の粋な芸には無理解で、落語は全く振るわない時代が続いたのです。

 その日に食べる金にも困っていた正楽は、落語の後の余興で見様見真似の西洋奇術を演じると、これが好評で、そうならいっそ噺家をやめて奇術師になった方がいいのでは、と考え、名前を帰天斎正一と改め、奇術に鞍替えします。明治9年のことです。

 帰天斎は、奇術の技はそう大したものではなかったのですが、何しろ喋りが面白く、その喋りも、西洋奇術師のたどたどしい口調を真似して、「あなたよく見る宜しい」。とか、「私、日本語わからないあるよ」。などと言ったいい加減な話し方をしたために観客は爆笑します。

 忽ち東京中の話題を集め、一座を起こし、「元祖、西洋奇術」と看板を上げ、日本中の大きな劇場で興行するに至ります。これがちょうど治三郎が廃業したころ、明治10年頃と重なっています。

 

 ここで治三郎と帰天斎の人生を見比べてみると、帰天斎が噺家だった江戸時代の慶応のころ、治三郎は、初代一蝶斎の弟子になり、順風な活動をし、海外にまで出て大きな稼ぎを上げていました。帰国の時の治三郎は、スーツを着て、金時計を胸ポケットに入れて、大金持ちのような出で立ちで現れます。それを帰天斎は恐らく、憧れの眼差しで見ていたと思います。やがて日本国内で西洋奇術を始め、大当りをした姿は、帰天斎が近寄ることもできないくらいのまぶしい芸人だったはずです。

 ところがその後、治三郎が廃業してしまいます。なぜなのか。私が思うに、治三郎は、自分がなぜ海外に招かれたのかに気付いていなかったのでしょう。蝶と言う芸があったからこそ海外に出られたのに、それを帰国後あっさり捨ててしまって、西洋奇術に走ったことがまず間違いの始まりだったのでしょう。

 然し、それは当時の日本の芸能が国内で不人気だったためにやむを得ない手段だった、と言うこともできます。仮にそうだったとして、その後、西洋奇術を始めて、数年であっさり飽きられてしまったのはなぜか、それは目新しい種に頼るばかりで、奇術を芸として昇華させなかったからではないでしょうか。タネを買って来てそれを見せるだけではこの道で長く生きて行くことはできないのです。

 この事は今の時代にもつながる、マジシャンの生き方の負のスポイラルではないでしょうか。逆に、帰天斎は喋りの面白さで奇術を自分なりに咀嚼(そしゃく)して、インチキ手品師という役柄をこしらえて、自らのポジションを作り上げたのです。

 そして、明治15年以降、治三郎は蝶の芸に戻ります。思えば二人は奇妙なめぐりあわせです。明治が始まったころは、帰天斎は着物を着て落語をしていたわけで、治三郎は洋服で西洋奇術をしていたわけです。それが明治15年以降は、帰天斎が洋服で西洋奇術をし、治三郎が和服で手妻をするようになります。元々生真面目で口の重たい治三郎は、喋りがあまり得意ではなく、きっちりとした芸で生きて行くのが本来だったのでしょう。一方、帰天才は、大きな舞台の出番は少なくなりましたが、その喋りを生かして、その後も寄席に出続け、喋りで人気を維持して行きます。元々二人は仲が良く、互いが相談に乗り合って、助け合って行く関係だったようです。然し明暗は明らかになってしまい、これ以降も治三郎は地味な活動を続けて行きます。

続く