手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本奇術 西洋奇術 3

日本奇術 西洋奇術 3

 

 さて、12月30日に、「日本奇術、西洋奇術」の話を書き始め、間に元旦2日目を挟んだために完全に話が途切れてしまいました。ここから先をお読みになる方は、もう一度、12月30日、31日のブログからお読みの上ご覧下さい。

 

 幕末、明治期に西洋奇術が入って来た時に、ある作品は、手妻に取り込まれてしまい、そのまま手妻の演目になって行きました。サムタイ、真田紐、卵の袋、等々。

 それとは逆に、西洋のマジックを演じるために、洋服を着て、なるべく西洋風の演出をして、西洋奇術師と名乗って演じる「洋妻師」も出て来ました。その人たちの演目には、首切り美人、ダラー棒、メリケンハット、等々(明治以降、日本に入って来た西洋奇術のすべて)があります。

 明治の中頃を境に、手妻が西洋奇術を取り込んで変化してゆく傾向は薄れて行き、手妻は演者を激減させ、衰退して行きます。変わって、洋服を着て西洋奇術をする「洋妻師」が増えて行きやがてそれが主流となって行きます。

 戦後(1945年)以降に至って、西洋奇術は、あえて西洋奇術と名乗る必要もなくなり、タキシードを着てマジックをすることがグローバルスタンダードになって行きます。

 それと並行して、手妻が隅に追いやられて行き、かつて、和妻、洋妻と言う区別をしていたことが嘘であるかのように、グローバルスタンダードの大量のマジックを前に、手妻の力は衰えて行きます。

 この流れは、例えて言えば、私がかつて10代のころ、建売住宅のチラシを見たときに、「和室6畳、洋室6畳」などと書かれていた時代があったのですが、いつの間にか、洋室と言う言葉が無くなり、フローリング10㎡、とか、ダイニング20㎡、などと書かれ、フローリングがスタンダードになり、逆に和室が特異な位置づけになって行った傾向と、手妻がよく似た発展の仕方をしているように思います。

 

 戦後の手妻が、手妻の演目だけで維持できず、仕事の場も失われ、洋服を着て演じるマジシャンの演目の中に紛れ込んで、ラテンの音楽を使って、タキシードなどを着て、蒸籠をしたり、蝶を飛ばしていたと言う話をしました。私はそれを目の当たりに見て育った年代でした。

 昭和40年代50年代と言うのはそんな時代でした。手妻の演目自体がこの先生き延びられるかどうかも分からず、残ったとしても、古い演出、型、口伝は失われて行き、種仕掛けの演じ方のみが残されて形骸化して行く傾向にあったのです。

 然し、この時期、私は手妻を習い、型や口伝を習いつつ、やがて、手妻の価値に気付いて来ます。型、口伝こそが価値で、そこにこそ手妻ん本質があるとし気付くようになりました。

 そして、手妻が失われつつある、昭和40年代に、少しでも多くの口伝や型などを習っておきたいと思う気持ちが強くなりました。私の10代以降の手妻の研究は、数少なくなった手妻の演じ手や研究科を訪ねて、少しでも古い型や口伝を掘り起こして、先人の工夫を聞き出すことでした。

 昭和40年代に残された手妻で、型や口伝が残っていたものは、水芸、蝶、蒸籠、引き出し、夕涼み、サムタイ(柱抜け)、袋卵、袖卵、お椀と玉、真田紐の焼き継ぎ、若狭通いの術、紐抜け、連理の曲、金魚釣り、金輪の曲、12本リング(西洋奇術の扱いになっています)、一里取り寄せの術、など、20種余り、その他単発の種仕掛けが数十種類、

 西洋奇術の豊富さから比べたなら、余りの寂しさでした。そうした中で、手妻を演じている人を見ると、多くは型や口伝を無視して、種仕掛けの不思議さ、珍奇さだけで見せている人が殆どで、手妻の本来の面白さと言うものを語って見せられる手妻師がほとんどいませんでした。と言うよりも、その演者は手妻師ではなく、マジシャンの片手間として、和、洋の意識なく演じている人が殆どだったのです。

 私は心の中で、「これは手妻ではない」。と言い続けました。然し、同時に、島田晴夫師の演じていた傘出しを真似て、傘出しを演じる人がたくさんいたのです。島田師は自身の演技を手妻とは言いませんでした。師は、ジャパニーズスタイルマジックと称していたのです。

 西洋のマジシャンが良くやるような、着物を着て、何となく日本風のマジックを演じるスタイル。それがジャパニーズスタイルマジックです。実際師の演じる手順に手妻は一作もありません。

 無論、師はそれを承知しています。しかし日本に戻って来て、傘出しを演じて、それを真似る人たちによって、師のマジックを「和妻」と呼ぶ人が増えて行きます。

 それはとんでもないことで、師のオリジナルはオリジナルとして評価すべきことですが、師の演じるアクトは手妻ではないのです。いつの間にか手妻はまったく別の芸を手妻と呼ぶようになってしまったのです。私はそれを横目で見ていて、「これは手妻ではない」。と思い続けました。

 右を見れば、型も芸の継承もない手妻を演じる人が数多くいて、左を見れば、島田師の傘出しを丸ごとパクって、それを和妻、手妻と称する人がこれまた大勢いたのです。

 そんな中で20代の私は随分悩みました。こと手妻に関する限り、誰を見ても手妻になっていないものが幅を利かせていたのです。それを一つ一つ否定することは出来ません。否定すればすべての人を否定することになり、当時の私にはまだそれだけの発言力も、実力もなかったのです。

 手妻をどう残すか、どう生かすか、と考えている者にとって、とても苦しい時代でした。いや、このことは昭和40年代末から、今日に至るまで、ずっと続いているのです。

続く