手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本奇術 西洋奇術 8

日本奇術 西洋奇術 8

 

 ここまで書いて、私が手妻に接してから55年間、一体何をしてきたのかをまとめてお話ししましょう。

 昭和40年代は、手妻を手妻として演じる人がどんどんいなくなり、種仕掛けのみが残されて行きました。手妻の作品はマジック(西洋奇術)の演者の中の一演目としてかろうじて残って行ったのです。

 それは種を残すと言う点では有効だったでしょう。然し、手妻がどういう理由で作られたのか。手妻の構造、手妻の本質は顧みられないまま、種仕掛けのみが残り、手妻の最も良き部分が継承されずに消えようとしていたのです。

 手妻の面白さに気付きだした私は、何とかしてその面白さを伝えようと、アレンジを加えたり、創作活動をしましたが、如何せん知識も技量も未熟で、なかなか上手く伝えることが出来ませんでした。

 28歳の時に、一度古典に戻って、古い形で手妻を再現してみようと考えて公演しました。これは好評で、その後私を支持して下さる先生方が出来ました。この公演が今日私が演じる手妻公演の原型となっています。

 そのうち、水芸の改良を手掛けるようになり、25分かかって演じていたかつての水芸を10分に縮め、作曲を依頼し、ようやく納得の行く作品が出来ました。それを昭和63年に芸術祭参加公演で発表をしました。これが芸術祭の初受賞につながり、受賞を機に仕事の内容も、仕事量も大きく飛躍して行きました。

 参加公演は昭和63年の10月でしたが、授賞式はあくる年、平成元年の1月でした。昭和から平成に変わったと言うことと手妻の発展とは本来何のつながりもありません。然し、結果としてこの時が大きな転換期でした。平成を境に日本人の考え方が大きく変わって行ったのです。

 それまで急成長で伸びてきた日本の経済に陰りが出てきたのです。この先何を目標に生きて行ったらよいのか、日本人は悩みだしました。やがてバブル景気は終わり、大不況がやって来ます。平成5年のことです。

 不況は長く経済の低迷をもたらし、それは今に至るまで続いています。日本人は問題にぶつかると、過去の歴史から答えを見出そうとします。そこで急激に日本の歴史を見直す流れが生まれます。それに乗じて、歌舞伎、能、狂言、邦楽、雅楽、落語と、あらゆる古典芸能に観客が押し掛けるようになります。

それまで歌舞伎にしろ、能にしろ、落語にしろ、もう将来がないのではないかと危ぶまれていた時に、急に世間から評価されてブームの様に人気が出てきたのです。

 手妻も例外ではありませんでした。地方のイベントや、市民会館などから出演依頼が来るようになり、仕事量が増えて行きました。但し、これはとても危険なことでした。本来手妻は流行とは無縁の芸能なのです。うっかりブームに乗っかったなら、その後、ブームが去った後、また元の冴えない時代に戻ってしまいます。流行など考えずに着実に活動して行かなければならないのです。

 

 ところで、私は、バブルの時代があったことは良いことだったと思います。そしてバブルが弾けたこともよいことだったと思います。

 バブルの時代は日本を豊かにしました。本四架橋を3本も作ったり、青函トンネルを作ったりと、本来なら100年待っても出来なかった事業がバブルのお陰で達成できたのです。今日の都市の景観はみなバブルのお陰で奇麗になったのです。

 初めて日本人が財布の中身を心配しないで生きて行けるようになった時代です。そうした時代をたとえ10年でも体験できたことは日本人にとっても日本にとってもよかったと思います。

 と同時に、バブルが弾けたことも結果としてよかったと思います。バブルの時代は、みんなが儲かった金で株や、不動産投資をしていました。ごく普通の会社でさえ、株や、使いもしない土地を買い漁ったのです。結果、たちまち日本の土地は2倍に跳ね上がりました。そんな土地に銀行はほとんど無審査の状態で金を貸しました。誰でも土地持ち、家持になれたのです。

 但し、バブルが弾けることを誰も予想していませんでした。一旦バブルが弾けると一気に物の価格が下がり、物が売れなくなりました。たくさんの企業が倒産しました。この時日本人は真剣に自分を見つめ直すようになったのです。

 この時何をすべきかを考えて答えを出した人たちは次の時代に生き残ることが出来ました。こうした世の中の流れから、急に手妻が見直されるようになりました。明らかに世の中の評価が変わって行った時でした。

 

 平成6年に再度芸術祭の受賞があり、仕事の上では何とか安定した状態を維持しました。然し、このころから新たな悩みが始まりました。

 それは、旧来の手妻をスピードアップして、見やすい楽しい手妻にすることが手妻を残す道だと考えていたものを、手妻の内容をより深く、コクのあるものにしなければならない、と考えるようになったのです。つまり、世間の求める古典芸能と言うものは、もっと芸能の深層を求めているのだと言うことに気付きだしました。

 それから一作一作を見直し、演技を組みなおしました。道具も、漆の職人に頼み、金蒔絵を施した古風な道具に切り替えて行きました。それらはとても費用のかかることで、仕事が少なくなっていたその時期にはとても資金繰りが大変な時期でした。

 いくら稼いでも、稼いだ金はたった一作の漆塗りの小道具に消えてしまうわけですから、女房にはずいぶん苦労を掛けました。然し、そこに賭けた時間は無駄ではありませんでした。道具やテーブルや、衣装が良くなることで、アッパークラスの新たなお客様が集まるようになりました。お客様は手妻を高級品と見てくれるようになったのです。

 そうした活動の中から、平成10年に芸術祭大賞の受賞がありました。この受賞によって手妻の評価が大きく上がったと思います。それ以後は弟子も押しかけて来るようになり、私以上に活躍する弟子も出て来ました。いい流れです。

 ここから先は、私の敷いたレールから次の時代に引き継がれなければなりません。私の考えだけでなく、それぞれの手妻があっていいのです。

 但し、模倣でなく、流行に追われることなく、手妻を本気で愛する人が手妻に携わって行ってほしいと思います。本来手妻は地味な世界ですから、それを根底に据えて、わかって演じてくれたならこの先も安泰です。

 日本奇術 西洋奇術 終わり