手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れをつかむ 8

流れをつかむ 8

 

 バブルがはじけた平成5年から、平成8年くらいまで、私は蝶を改案するために悪戦苦闘していました。言葉で語らずに蝶の一生を語るにはどうしたらいいのか、アトリエに籠ってずっと工夫し続けていたのです。

 その答えは、いかに蝶を飛ばすかではありませんでした。話は逆で、動かぬ蝶を考えたのです。つまり蝶の死です。夫婦(めおと)の蝶が仲睦まじく飛んでいる時に、突然一羽がはらりと床に落ちて動かなくなります。動かなくなった蝶をもう一羽が心配して、何度も近くに寄り添い、「一緒に飛ぼうよ」、と誘いますが、落ちた蝶は動きません。やがて、飛んでいた蝶も床に落ち二羽は動かなくなります。そして静寂。ここから話は後半に進みます。

 蝶の死は話の終わりではなく、千羽蝶が飛んで行くことで話は戻ります。蝶は消えて無くなるのではなく形を変えて生き続けるのです。

 蝶に関しては私のブログでも何度か工夫や、成り立ちを語っていますので、詳細はそちらをご覧ください。

 

 なんにしても、私なりの改良を加えて、平成9年ころに蝶は仕上がりました。テレビなどでも蝶の演技を求められるようになり、随分と演じました。演芸番組ではなく、教育番組や、芸術鑑賞の番組などで取り上げられるようになりました。それはとても有り難いことでした。

 江戸時代に一蝶斎が蝶で一世を風靡したのは、一蝶斎が、紙で蝶を作って飛ばす、と言うただそれだけの芸に無常観を見出したことで多くの観客の琴線に触れたのです。然し、その後、明治に至って手妻が人々の支持を失い、人気が下降してゆきます。

 それがなぜかと考えると、手妻が形骸化して行き、形の美しさや、現象の不思議さを見せるだけの芸になったからでしょう。私が子供のころに見た、蝶の芸も、思い返してみると、生きることの苦悩も、無常感も、何も語っていなかったと思います。

 それは伝言ゲームのようなもので、表に見える奇抜な部分だけが継承されて、一蝶斎が何を語ろうとしたのか、一蝶斎の苦悩が後世の手妻師に伝わっていなかったのだと思います。

 

 蝶の手順を作り上げてから、私の周囲は俄(にわ)かに変化してきました。明らかに客層が変わってきたのです。求められる仕事の内容も、40分の蝶を含めた手妻の公演と、江戸文化の講演、などと言う、二本立ての依頼が来るようになりました。手妻を一つの文化と捉えてくれるお客様が増えたのです。

 バブルがはじけた後、一体どうやって生きて行ったらいいものか、何をしたらいいのか、ずっと模索を続けていましたが、ようやく生きる道がつかめるようになりました。

 平成9年の暮れに親父が亡くなりました。芸能の道に導いてくれた有り難い人でした。寂しくはありましたが、もう不安はありませんでした。自身のなすべき道が見つかったからです。

 親父が亡くなると、不思議なことに次々と支持者が現れました。千葉大学教授の多湖輝先生や、クロネコヤマトの元社長さんの都築幹彦さんなど何人もの支援者が現れ、仕事をくださったり、次々に生徒となってマジックを習いに来ました。

 初めに私には何か、大きな流れがあって、自然に人が持ち上げ運んでくれる時がある。と書きましたが、これまで何度かあった波の一つがこの時です。この流れを生かさない手はありません。

 久々公演もしてみようと思いました。平成6年以来5年間もリサイタル公演を休んでいました。最大の理由はバブルがはじけた後の資金不足でしたが、それだけではなくて、自身の芸の考えがまとまらなかったからです。

 然し、ようやく悩みが晴れて、翌年平成10年に26回目の公演をしました。そこで芸術祭大賞を受賞しました。この時、ようやく私の生きる道は確立したと実感しました。

 平成は、古典回帰の時代だったと言いました。そして、芸能人が文化を語る時代になったのです。多くの芸能人が、自分の立場をしっかりと文化の中で位置づけて語れる人が出てくる時代になったのです。

 

 この一連の話を書き始めたときに、「藤山さんは昔宇宙服を着て鳩を出していたのに、今はなんで着物を着て和妻を演じているんですか」。と尋ねられた話をしました。

 私としては当然の帰結だったのですが、はたから見たならとんでもない変化をしていると思ったのでしょう。その理由は二週間にわたって書いてきたことが答えです。昭和の時代は派手なもの、変わったものが受ける時代だったのです。然し、平成になると、人は内省的になり、心の内側を見つめるようになったのです。そして多くの人がどうやって生きて行ったらいいかを過去の歴史から考えるようになって行ったのです。これが大きな流れです。

 その時、マジシャンに、過去を語れる蓄積があるかどうか。文化を語れるだけの知識があるのかどうかが問われるようになったのです。そのことを理解して舞台活動をすれば、大きな波に乗るのですです。

 

 気の置けない仲間とマジックのイフェクトの不思議を追い求めているのは楽しいことです。でもプロであるならそればかり繰り返していては、周囲の芸能から取り残されて行きます。

 冷静に自身の周囲にいたマジック愛好家を眺めてみたらわかります。30年前から比べると、アマチュアの人口は十分の一に減少しています。明らかにマジック愛好家は減っているのです。それがなぜ減ってしまったかを考えてみることです。

 一言でいうなら、マジックを種仕掛けだけで語ることに限界が来ているのです。種仕掛けはもうステータスではなくなっているのです。それは決してマジックがステータスでなくなったと言うのではありません。

 実際、種仕掛けはどんどんネットで公表されています。種明かしはいけないことですが、ネットの連中はそんなことは聞こうともしません。彼らから見たなら、種明かしは遊びであり小銭稼ぎなのです。その連中と同列に存在していては将来はないのです。

 ある意味その世界は行き止まりです。そこからステータスは生まれないのです。今やマジックの種は100円ショップで吊るしで売っています。100円ショップで売っているものにアッパークラスの生活している人が寄っては行きません。そこに行って道具を買うこと自体底辺に染まっているのです。

 マジックの種を買うことも、習うことも素晴らしいことです。是非なさるべきです。然し、誰から、何を習うか、何を買うのか。少なくともステータスを感じさせる人と付き合い、種仕掛け以上の知識を得るための仲間を得ようとしない限り、ご自身も、マジック界のレベルも上がらないのです。

 時代はとっくに別の方向に進んでいるのに、いつまでたっても昭和を引きずっていてはマジックの世界に人が寄り付かず、社会から取り残されています。プロで生きるなら汚れや垢がつかないように生きなくてはいけません。

 仲間とコアな話をするのは結構ですが、その結果、そこから一般のお客様に支持されるようなマジックの演じ方や、イフェクトが生まれてくるようでない限り、マジックの支持者は増えないのです。

続く