手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

才蔵(さいぞう)1

才蔵(さいぞう)1

 手妻には才蔵と称する相方が出て来ます。手妻を演じる人は大夫と言います。大夫の対語が才蔵になります。大夫と才蔵は力関係では本来互角です。互いに力量がなければどちらの役も務まりません。

 才蔵を今日のアシスタントと考えるのは間違いです。単に道具を出す、ひっこめる、などの仕事以上のことをしなければならないからです。

 才蔵を後見(こうけん)と言い換えることも間違いです。後見と言うのは、歌舞伎や、日本舞踊で、踊り手の後ろに下がって座っていて、必要な時に小道具をさりげなく踊り手に渡す役の人です。文字の通り、目立たぬように後ろに控えていて、舞台の上にいながら、お客様に存在を感じさせないように、後ろを向いたままてじっと座って決して目立った動きをしないのが後見です。

 アシスタント、助手と言う立場の人も似たり寄ったりで、彼らは目立たぬように出て来て、道具を片付けたり、新しい道具を持ってきたりしますが、自身の存在の印象を残さないように余計な動きはしません。

 

 こうした人と、才蔵とは全く立場が違います。才蔵の仕事は多岐にわたります。口上を述べたり、横で大夫の手妻をからかったり(漫才のボケと突っ込みと同じ会話をします)。道具を片付けたり、太鼓を打って御簾内(みすうち=舞台の上手、または下手にある囃子方スペース)にいる三味線、囃子方に演奏のきっかけを伝えたり、時として何かの都合で大夫の出が遅れた時には、踊りを踊ったり、歌を歌ったり、声色(こわいろ=声帯模写)をしたり、と、あらゆる芸を見せてつながなければなりません。

 これは昨日今日入った弟子や助手でできる仕事ではなく、あれこれ芸をかじった人(元噺家、元役者、元漫才)が流れ流れて手妻の才蔵になることが多かったようです。中には、手妻の大夫をしていた人が年を取って、技量が落ちたり、顔がふけて人気がなくなると、才蔵に回って、三枚目を演じる人もあったと聞いています。

 

 実際、私が知る限りでも、昔奇術師だった人が、娘を大夫に仕立てて、自身が脇に回って三枚を演じていた人を何人も見ました。そうした場合は、舞台では大夫の方が立場が上ですが、楽屋では、大夫が才蔵の衣装を畳んだり、身の回り全てをやっていました。ギャラも、才蔵のほうが7・3の割で高額だったりします。才蔵の権限は大きく、才蔵は単純なアシスタントではないのです。

 この形式は日本の古典芸能全般に言えることで、大夫、才蔵の呼び名は、今では曲芸の世界にしか残っていませんが、かつては手妻の世界では普通に大夫、才蔵の関係は存在していました。

 江戸時代の蝶の名人柳川一蝶斎の才蔵役は、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う人が長く務めていました。三代目帰天斎正一の才蔵は息子さんの正楽が務めていました。

 正楽は元噺家で、喋りが達者でしたから、正一との掛け合いは見事でした。然し、太鼓は打たなかったようです。その掛け合いは、曲芸の大夫才蔵の語りそのもので、最も古い語りを残した太夫と才蔵でした。

 一徳斎美蝶の才蔵役は、弟さんの蝶二が務めていました。一徳斎美蝶は東京で見る最も古い形の手妻師でした(昭和40年代初頭に亡くなっています)。最後まで座布団に座って、座り芸に徹しました。もっとも、これが結果として、立って演じるパーティー会場には向かず、仕事の数を減らしていました。

 中央に台箱と言う、手妻独特のみかん箱ほどの箱状の机を置き、机の上には、手元灯り、(てもとあかり=手元がよく見えるように小さなろうそくに火をともしたもの。舞台が電気で明るく照らされていても、美蝶は生涯手元灯りをつけていました)。

 その後ろに座って、手妻をします。演技は、手妻半分、曲芸半分で、皿回しや、箱積みなどの曲芸を演じた後、延べの繰り出しをして、延べの先に火を付けます。この時手元灯りが役に立ちます。火をつけると、小さな花火が吹き上がり、観客が拍手をした途端、延べの中から大きな番傘が出て、立膝で見得を切って演技を終えます。

 この間、上手にいる奥さんが三味線を弾き、下手には蝶二さんがイボ太鼓を打って、演技のメリハリを付けます。一徳斎美蝶は私の知る限り最も古い形の手妻師でした。

 

 いま、和妻、手妻を見直して、和服を着てマジックを演じる人はたくさん出て来ました。それそのものはいいことです。然し、多くは傘出しマジックで、それは島田晴夫師のオリジナルマジックで和妻ではありません。一徳斎美蝶や、帰天斎正一の内容とはあまりに違います。

 私が苦心しているところは、手妻本来のものをどう残すかです。ここを真剣に考えなければ、この先、手妻は形骸化し、何が手妻なのかもわからなくなってしまいます。

 話を戻して、才蔵を後見と考えることがまず間違いです。古くは散楽から、放下に至る過程で、手妻は、曲芸と同じ活動をしていました。曲芸の中では、曲芸は、一つの修行に過ぎず、他に7つくらいの芸の修行が必要でした。今、太神楽曲芸協会に所属している人たちは、学ぶべき8つの芸能を子供のころから受け継いでいて、そのどれもが演じられるようになっています。

 8つの芸能とは、曲芸、軽口(漫才、漫談の類)、舞踊、神楽舞、獅子舞、笛、太鼓、三味線、他にも、手妻、軽業なども昔の修行にはあったようです。それら全てをこなした上で、曲芸をしていたわけです。古くの手妻の一座も同じでした。表から裏まですべての用事をこなせて一人前だったわけです。それは、能も、落語も同じです。

 落語のような、一人芸でも、楽屋では師匠連に衣装を畳み、出囃子で太鼓を打たり、笛を吹いたり、いろいろしなければいけません。裏方一通りを覚えて、ようやく落語を語らせてもらえるわけです。

 曲芸や手妻はそうした修行の中から、太夫、才蔵の役割を作って行ったのです。ここまで話せばお分かりと思いますが、漫才も、こうした修行の中から生まれ、分派して行った芸能なのです。

 

 手妻がマジックだけできれば手妻師と言えるわけではありません。私の所では、太鼓、鼓、日本舞踊は必修で稽古をします。それから才蔵役の口上、掛け合いの喋りを覚えます。特に今、掛け合いをする手妻師がいなくなりましたので、そこを残さなければならないと考え、演目に掛け合いを必ず入れています。

 と言っても、あまり喋りの部分が長くなると冗長になりますので、スピードアップをして、無駄を省いて進行していますが、掛け合いを喜ぶお客様が多いため、ついつい話は脱線します。それはそれでありかな、と思っています。

 弟子も、掛け合いを覚えることで、笑いのツボがわかってきて、司会等をする際に自然にギャグを入れる感覚を覚えて、役に立っているようです。

 マジシャンの中には、「マジックさえ出来ればマジシャン」。と思い込んでいる人があります。然し、そんな人がテレビでインタビューを受けると、急にしどろもどろになって、ギャグを滑ったり、余計なことを言ってせっかくの自分の価値を下げてしまったりします。つまり、喋りを安易に考えているのです。こんなところに修行の薄さが見えてしまいます。昔の芸能の修行は今もその価値は十分にあるのです。明日はその修行の仕方をお話ししましょう。

続く