手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れをつかむ 7

流れをつかむ 7

 

 こうして毎日私はアトリエに籠って、古い手順にアレンジを加えて行きました。私の活動を、「手妻を破壊している」。と言う人もありました。それに関しては一切反論しませんでした。私が破壊しているのか、復活させようとしているのかは、近い将来世間の評価が決定するだろうと考えていたからです。

「古いものは一切形を変えず残すべきだ」。という人は、現実にそうすることで、手妻が仕事として成り立っているのかどうかを自分に問うてみればよいのです。手妻師が実際に手妻をするのは年に二、三回、などと言う状況で、生活していけるものかどうか、そんな状況で若いものがそれを継ぎたいと思うかどうか、この先30年、50年と手妻が残るどうか、考えてみたらよいのです。

 残らないと判断したら、今、何とかしなければ手妻は消えてしまうのです。

私のアレンジは、お椀と玉も、卵の袋も、紙卵も、真田紐も、紐抜けも、30年経った今も健在に継承されています。むしろ昔の型を演じる人がいなくなってしまいました。結局、古いものを古いまま演じていても残らないのです。

 と言って闇雲に新しく変えてはいけません。安易なアレンジは手妻そのものをつまらなくしてしまいます。アレンジするも残すも、演者のセンスが求められるのです。古典の作品のすばらしさを熟知した上で、よい部分は残して、今では通用しない部分をアレンジするのです。そして、演技が完成したときに、全体から見て、アレンジしたことがまったくわからないように、自分の成果を主張せず、アレンジが目立たないように、わざと初めから古めかしく作り上げるのです。

 私のしていることは、例えて言うなら障壁画の修復のようなものです。修復がどれほど高度なテクニックを必要とするものであっても、修復した箇所が目立ってはいけないのです。あたかも千年も前からそうなっていたかのようにさりげなく直すのです。

 これは極めて地味な作業です。うまくできたからと言って誰もほめてはくれません。私の演技を見たお客様も、習いに来る生徒さんも、それこそ数百年前からそうなっている手妻かと思っているのです。それでいいのです。そこで手妻のすばらしさを感じてくれたなら私の目的は達成されたことになります。

 

 さてこうして、手妻の作品を一つ一つ読み込んでアレンジを加えて行く作業をしていました。そうした活動と同時に私は、自身の演技として「蝶」のアレンジを工夫していました。蝶は20歳の時に高木重朗先生から資料をいただき、飛ばし方のコツなどを習いました。その後、師匠である松旭斎清子からもアドバイスを受けました。また手妻の研究家の山本慶一先生から、詳細な帰天斎の手順や口伝を習うことができました。

 こうした資料や口伝をまとめ上げて、昔のやり方ならなんとかできるようにはなりました。然し、古いやり方では間(あいだ)間に口上が入り、演技は10分以上になります。花道を一回り伝って舞台に戻るなどと言う演出を加えると、優に20分近く演じることになります。

 内容があっての20分なら結構ですが、ただ時間を延ばすための20分では現代のお客様は納得しません。ここは時間をなるべく詰めて、中身の濃い演技を作り直さなければいけません。然し言うは易く行うは難しで、遅々として答えが見出せません。平成6年の二度目の芸術祭賞受賞の時にも蝶を出しましたが、いい出来とは言えませんでした。

 その後アメリカのマジックキャッスルに出演したりして、蝶を演じましたが、まだまだ納得がゆきません。平成7年になって、なぜ自分が蝶の手順に納得がゆかないのか、もう一度根本から解体して考え直してみました。

 

 蝶がほかの手妻と根本が違う点は、蝶には無常観と言うテーマがあることです。蝶の種仕掛けをどうするか、と言う話ももちろん大切ですが、それよりも何よりも、無常観をどのように語って見せるか、と言う命題を抱えていたのです。

 蝶は、400年も前からある手妻ですが、はじめは紙で作った蝶を扇を使って10秒か20秒飛ばせばそれでおしまいと言う芸だったのです。その後、飛ぶ蝶に様々な情景をつけて、語って見せる芸に発展します。「三井寺の晩鐘を聞きつつ家路を急ぐ蝶」、とか、「琵琶湖に浮かぶ帆船の帆車に止まり羽番(はがい)を休める蝶」、などと情景を語って見せたのです。

 然し、文化の時代(1800年代初頭)に柳川一蝶斎と言う天才手妻師が現れ、一気に蝶は芸術に昇華します。それまで一羽の蝶を飛ばすことで景色を語っていた芸が、途中から二羽の蝶が飛ぶようになります。この二羽の蝶の発明がそれまでの単なる情景描写の芸から、蝶の生命を語る芸に発展します。

 蝶がなぜあちこち飛び回っていたのか、と言う答えが二羽の蝶なわけです。つまり蝶は限られた短い生命の中で必死に伴侶を探していたのです。伴侶を見つけた蝶は、幸せの絶頂を迎えます。「夫婦の蝶は仲睦まじく舞い戯れる」わけです。

 一蝶斎は、しばらくは二羽の蝶を飛ばすことで、この芸を終わらせていたようです。それが数年後、話はさらに発展します。二羽の蝶がさんざん逢瀬を楽しんだ後に、やおら二羽の蝶をつまみ上げ、「男蝶、女蝶を小手に揉み込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わります」。と言って、紙吹雪を宙に舞わせ、千羽の蝶を飛ばして終わります。

 これで蝶の芸は初めて完結しました。子供の蝶の飛び立つ姿は、初めの蝶の旅立ちに戻るわけです。生き物が生まれては死んで行くのを繰り返す中で、物は消え去るのではなく形を変えて生きてゆく。すなわち無常観を語って見せるわけです。

 一蝶斎はただ扇で飛ばしていた紙の蝶を、人生を語り、無常を語って見せたのです。面白い芸です。然し、これを現代によみがえらせるのは至難です。私はまず口上を取り去りたいと考えました。手順を10分以内にまとめるには、どうしても口上があると冗長になります。

 ところが口上を取り去ると、お終いの二羽の蝶を手に揉み込んで吹雪にするときに、吹雪が子供の蝶であることがお客様に理解しずらいのです。紙吹雪が次の世代の蝶であるということをどう伝えたらいいのか。そこで随分悩むことになりました。

続く 明日はブログはお休みです