手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

手妻の語る世界 3

 さて、明日大腸検査のためのカメラを入れます。そのために、体内を空っぽにしなければなりません。今日から三食は専門の食事をします。朝は鳥雑炊だそうです。レトルトの袋一つです。他のものは食べてはいけません。朝はまぁ、いいとして、こんなもので三食我慢ができるものかどうか。そして夕食後に2リットルの水を混ぜた白い粉を呑みます。きっと飲みにくいと思います。然し、仕方ありません。

 空腹と白い粉を呑んで、不快感のまま、明日2時に健康センターに行きます。どんなことになるのか楽しみです。カメラを引き出した後に、わたしがそっと肛門にサムチップを仕込み、中にミニ万国旗を入れておいて、「先生、まだ体の中に何か入っていますよ」。と言って、肛門からはみ出ているひもを先生に引っ張らせて、次々万国旗が出てきたら面白いと思います。看護婦一同拍手喝さいしてくれるでしょうか。

 いや、なかなか医者は、「うーん、これはショウアップしている」。とは言わないでしょう。「そういう下らないことはよしなさい」。とかなんとか冷たくあしらわれて終わる可能性もあります。そうなった時に、肛門を出しながら、ちまちまと国旗を片付ける我が身は惨めです。やめたほうがいいかもしれません。やはり65を過ぎたら、下らないことは慎んだほうがいいのかもしれません。

 今日は午後から指導が二人あります。食事の都合もありますから、一日外出することはないでしょう。

 

手妻の語る世界 3

 これまで長々と、手妻にはストーリーがあるという話をしました。江戸時代には単独に手妻だけで興行をする手妻師が多くいて、一公演2時間も3時間もかけて演じていたのです。そうなると、一瞬芸ばかり並べていたのでは間が持ちません。どこかでみっちり実のある演技をしなければなりません。手妻にストーリーを取り入れることは必然だったわけです。

 しかしそうなると、手妻一座の大夫は、手妻の技以外にも、芝居の素養や、踊りの素養を求められ、芸能を総合的に理解していないと勤まらなくなります。そうなると、一層有能な人材が求められるようになります。

 一蝶斎と言う人を見てみると、顔だちがよく、背が高く、頭がよく、手妻がうまく、と、人として抜きんでた人だったようです。晩年の一蝶斎を見たイギリスの役人が、「インドから東で見たアジア人の中で一番いい顔をしている」。と褒めたほどのいい男だったのです。然し、その時点で一蝶斎は70を過ぎていたのです。若い頃ならとんでもなくいい男だったと想像できます。

 その一蝶斎は、明治2年に亡くなります。83歳とも84歳ともいわれています。多くの日本人が50で亡くなって行く中では異例の長寿です。そして、あたかも一蝶斎の死に呼応するがごとく手妻の衰退がはじまります。日本に西洋奇術が入って来るのです。

 多くの手妻師は、いち早く、西洋風の衣装を買い求めて、自身の演じていた有り合わせの手妻を「西洋奇術」と詐称して、早々に西洋奇術師に鞍替えします。名前も、これまでの何々斎をやめて、万国斎ヘイドンだの、英情カーン、だのと得体の知れない名前を付けて活動をします。これにより、手妻の形は崩れ、せっかく芸術に昇華しかけた手妻はまたもこけおどしの世界に落ちて行きます。

 天保時代に当時子供だった信夫恕軒と言う文筆家(新聞記者をしたり、漢文の教師をしたり)、はその時見た一蝶斎が忘れられず、その後も度々一蝶斎の舞台を見て、一蝶斎の芸に心酔し、明治20年代になっても一蝶斎を褒めてやまなかった人です。氏の一蝶斎の賛じた漢詩に、「昨今の西洋の仕掛け物の種を仕入れて、それをただ真似て演じるだけの奇術をする西洋奇術師に比べて。一蝶斎の技は正に芸であり、それは天下の奇技であった」。と大賛辞を述べています。

 然し、信夫恕軒の賛辞も空しく、手妻は衰退し続けます。手妻の良さを理解しない人が手妻を演じていては衰退は必然なのです。

 

 私は、若いころから手妻を覚え、その面白さに興味を持ち、何とか手妻を復活させたいと考えていました。そして、なぜ手妻が衰退したのか、と考えて行くうちに、明治15年に突き当たったのです。明治15年には、もう一蝶斎の威光は薄れ、弟子は散り散りになり、巷(ちまた)では西洋奇術師があふれ、手妻師は芸能の隅に追いやられて行きます。然し、そうした中でもまだ、後の三代目一蝶斎となる蝶之助のような手妻師がいて、手妻を残そうと奮闘していたのです。然し、多勢に無勢で大きな力とはならなかったのです。

 私は、明治15年の手妻師が、手妻を改革するとしたら、いったいどういう改革がしたかったのか。それを自分なりに考えました。27歳、昭和58年に、文化庁の芸術祭に参加し、板橋文化会館の小ホールで、「文明開化新旧手妻眺(ぶんめいかいか しんきゅうてづまのながめ)」と題して、古い手妻を復活させたり、改良したりして、なるべく明治15年に実際行われていたように、囃子方や、口上言いを用意して、昔仕立ての手妻を公演しました。

 この時、なるべく古いやり方を残しつつ、手妻がなぜ消えて行ったのか、何がいけなかったのかを考えて、ただ古いままを演じるのではなく、種仕掛けを改良したり、演出をスピードアップさせたり、随分変えてみました。実はこの考え方が、今の私の活動につながっています。

 つまり、私の手妻の外見はあたかも百年も二百年も前の型をそのまま継承しているように見せて作ってはありますが、その実、随分改良を加えています。その改良も、「もし明治15年の手妻師が今にいたとしたなら、彼らは一体手妻をどう改良したかったのか」。と言う考えを原点にして改良を加えています。

 つまり、現代の、マジシャンの発想で手妻を見るのではなく、明治15年のマジシャンがどうしたかったのかと言う視点で手妻の改良を加えることを考えたのです。当時の手妻師は、仕事もなく、収入にも恵まれず、世の中の大きな流れからも外れて、惨めな生活をしていたと思います。そんな人たちが、もし、収入があって、仕事にも恵まれていたとしたなら、彼らは、江戸の手妻からどんな夢を発展させて、手妻を大きく作り替えていったのか。そこの意思を受け継いで、再度考え直してみたいと思ったのです。

 旨く改良がなされたとしても、私が改良したということがわからないようにして、全く古風な作品が、あたかも遥か昔からあったかのように、舞台の芸として収まっている世界を作ったら面白いだろうと考えたのです。今も私は密かに目立たない改良を続けています。私のオリジナリティだとか、アレンジの才能などと言うものは消し去ってもいいのです。そんな些末な考えにこだわらず、先人の遺志を継いで、更に発展させてゆくための活動をして行こうと考えました。私はこうした生き方を見つけだしたことに密かな誇りを持って活動を続けているのです。

手妻の世界を語る 終わり