手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

手妻の語る世界 2

 すみません、ブログを一日休んでしまいました。昨日は、学生さんが7人習いに来ました。皆さん熱心です。ようやく習うことの大切さ気にが付いたようです。習うということは、マジックそのものの知識を得ることのほかに、その周辺のカルチュア―を学ぶことになります。これが案外、この先マジックをして行くうえで大切なことなのです。

 私は、その間の時間を縫って、ブログを書いてはいたのですが、とにかく忙しくて、発信するには至りませんでした。ようやく今、お出しします。

 一昨日は玉ひでで公演しました。いつもの通り、前田、日向さん、ザッキーさん、早稲田さん、の4人の演技と私の演技です。私の方はNHKさんの撮りがあり、NHKさんの注文で、長めに6つの作品を演じました。1時間の内容を隅々まで把握して、一気に演じるというのはかなりハードな舞台です。それでも以前なら問題なく出来たのですが、最近は長い舞台は少し疲れます。でも、気持ちを集中して演じました。

 出来の方はどうだったのでしょうか、明日またNHKさんがアトリエに来ますので、そこでお話を伺うことにします。今回放送していただけるのは、クールジャパンと言うタイトルの番組で、これまでも、日本文化を真正面から捉えて、伝統芸能や、伝統産業、職人芸、などの優れた知恵や、技を見つめて、世間に伝えています。

 実は私はこの番組に是非出演したかったのです。手妻の何がいいのかを伝えるにはこの番組はまさにうってつけです。手妻は千年以上続く芸能ですが、その内容は、今日見てもかなり不思議なものが多いのです。しかも、単に不思議なだけではなく、不思議を覆い隠して、マイルドな表現にするために、ストーリーや、見立てが入ります。こうしたものを語ることで、芸能としての奥行きが生まれて行きます。面白い芸能です。

 ここを是非番組で取り上げてもらいたいと思います。

 

手妻の語る世界 2

 前回は、江戸の初期の縄抜け名人の話をしましたが、それまで異なる作品を順に演じるだけで手妻の興行がなされてきましたが、江戸期に至って、小屋掛けが常設、半常設の形で定着するようになると、それまで一回こっきりのお客様との接触が、度々同じお客様が見に来るようになり、お客様の芸能の理解が深まって行き、その中で見巧者(みごうしゃ、芸能を見識を持ってみるお客様)が育ってゆきます。

 この見巧者と言う存在が、江戸の芸能、芸術を大きく引き上げます。ちなみに見巧者と発音するときの、「ご」は鼻音で、鼻に抜けるように発音します。これは江戸の発音で、江戸の言葉は、濁音は、第一音ははっきり発音しますが、単語の途中に出て来る濁音は鼻音で柔らかく発音します。例えば、学校と言う時の「が」は、はっきり発音しますが、小学校の「が」は鼻音で発音します。一見どうでもいいことですが、見巧者と言う柔らかい発音の中から、江戸の審美眼が育てられ、芸能が形成されてゆくわけです。

 江戸時代に、周囲から見巧者と言われた人は、大変な尊敬を集めます。今日の芸能評論家と呼ばれる以上の敬意で見られます。(芸能評論家は自称ですが、見巧者は他薦ですから)。こうした人たちが、芝居や人形芝居、手妻や軽業、講釈、浄瑠璃、落語などの小屋に頻繁に顔出しをして、観客として諸芸を育てて行きます。

 西洋の芸能芸術の理解者が、王侯貴族であるのに対し、日本の芸能の支援者は、庶民が殆どで、家業を隠居した老人であったり、無役の武士であったり、江戸の留守居役などで、接待することが仕事の武士であったり、富裕な商家の女房であったり、娘であったり、そんな人たちが芸能を支えていたのです。

 彼ら彼女らには、「こういう芸能が見たい」。「こんな風であってほしい」と言う夢があります。それを贔屓の芸人に託すのです。芸能は、芸人と贔屓との共同作業で作り上げられてゆきます。

 

 小屋掛けが方々にできると、例えば歌舞伎は、それまで歌舞伎踊りを見せていたものが、踊りだけで長時間人を楽しませることが難しくなります。そこに何らかのストーリーが求められるようになります。踊りから、演劇に移行してゆくわけです。

 歌舞伎も初期は、二枚目の色男が色町に出かけて、女郎に持てたの持てないの、などと言う単純な話から、徐々に男女の複雑な話や、英雄豪傑の話などいろいろなジャンルが生まれ、その都度世間の話題を集めるようになります。

 それは落語も同様で、それまで簡単な小話の羅列だったものが、小話をいくつかつなげて大きな話に作り直されてゆきます。小話だけなら、ばかばかしさや、おかしさだけで完結してしまうものが、演劇の要素が加わると、人情の機微が加味されて喜怒哀楽が表現され、世界が大きく広がって行きます。それまで座敷に呼ばれて、余興のように見せていた落語も、専門の寄席ができるようになり、それにつれてお客様が付いて来て、次第次第に一つの話が30分から1時間に及び、更には10日間の続き物になって行ったりします。

 こうした大きな流れが手妻にも影響されて、手妻も自然に演劇が取り入れられるようになります。つづらに中から幽霊が現れて、空中浮揚して、殺した相手に復讐をするなどと言う筋が考えられたり、(怪談手品)。大盗人になった手妻師が、取り手から逃れて水に入って消えたのち、裃姿になって迫上がって出てきて、なおかつ宙乗り(空中を紐で釣って、空中遊泳をする)となって引っ込んで行く、と言うスペクタクルを演じたり、(吉田菊五郎の水芸)。

 そうした中で、柳川一蝶斎の蝶の曲が生まれます。紙の蝶を飛ばす芸は、江戸の初期に生まれました。初めは何秒間飛んでいるか、と言う瞬間芸のようなものだったと思いますが、幕末期の柳川一蝶斎によって、蝶の一生を語るストーリーが生まれます。

 蝶の誕生、出会い、結ばれ、別れ、亡くなって行く。そして、月日が経って、その子孫はまた千羽蝶となって羽ばたいて飛んでゆきます。その様は人の輪廻を語り、無常を語ります。紙で作った蝶をとばすことが、無常観を語るというところがものすごい発想です。蝶の飛ぶさまを見ているうちの、独特の世界に引き込まれ、いつしか人の一生を感じさせます。こうしたマジックは海外にはなく、手妻独自の世界と言えます。

 

 私が蝶の稽古をしているときに、師匠の清子が、昔の人の工夫を話てくれました。「蝶は、地味な芸だから、お終いに千羽蝶を撒くとき、唯一派手になるため、にこにこして千羽蝶を飛ばす人がいるけど、そこは笑ってはいけない。蝶と言うのは親の死があって、子供が生まれるんだからね、蝶の親子は一緒に散歩をするなんてできないんだよ。去年飛んでいた蝶は蝶の親、今年飛ぶ蝶は蝶の子供だからね。

 だからね、『男蝶雌蝶を小手に揉みこみますれば』と言って、深呼吸をする」。「なんで深呼吸をするんですか」。「それで一年経ったという約束。物の成り代わり立ち代わりは常の事だから、普通の顔をして飛ばすんだよ」。と教わりました。

 この師匠の話はどうも口伝だったと思います。口伝なら人に話してはいけないことですが、私は手妻の本質を語る言葉として、よく舞台で話しています。紙の蝶にそこまで心を込める手妻の世界が素晴らしいと思い、今日まで続けています。

続く