手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 11

 月が改まって8月になろうと言うのに、少しも暑くなりません。生活するには過ごしやすくて有り難いのですが、私の家の近所ではセミも鳴かず、蚊も出ません。ビールもアイスクリームも需要の伸びないまま、海にも行けず、温泉地にも行けず、殆どの人が、ただじっと家にいます。こんなことで日本は大丈夫か。と心配になります。

 感染者数が日本全体で1000人を超えたと言って騒いでいますが、感染者の数ではなくて、重症な感染者の数は大きく減っています。そうなら、収束の方向に進んでいると考えたらよいものを、またぞろ東京都は緊急事態を持ち出して、飲食店を締め上げようとしています。

 肝心なことは、重症感染者の減少をどう見ているのか、です。どなたかテレビで解説してくれませんか。その説明もないまま、なぜ自粛要請を求めるのですか。このままでは、いよいよ飲食店は倒産です。100%の赤字保証がない限り、自粛要請には応じられない。とはっきり反対表明する飲食店組合などが出てもよさそうなものですが、こうしたときに日本人は波風を立てようとはしません。

 然し、それもあと数か月でしょう。この先はいよいよ店の存続にかかわってくるようになるでしょう。多くの経営者は店を維持できなくなってきています。もう単純な自粛要請はできませんし、それではコロナは解決しないのです。

 

一蝶斎の風景 11

 還暦を祝っての襲名興行が済んでも、一蝶斎は、舞台に立ち、関東近県の旅興行くらいは頻繁にしていたようです。当時は、どこに行くのも歩いていたわけですから、相当に頑健な人だったのでしょう。

 一蝶斎自身は順風な人生を送っていても、日本の情勢は誠に不安定でした。嘉永6(1853)年には黒船が来航し、開国を迫られます。日本は一気に情勢が不安定になります。安政2(1855)年には江戸に大地震が来て、ますます国内は不穏になります。そんな折に、コレラが蔓延し、百万都市の江戸が、たちまち10万人の死者を出す騒ぎになります。なんとなく今の日本に似ていますが、この時代のコレラは今日のコロナウイルスの比ではありません。

 当時江戸では、コレラをコロリと呼びました。これにかかると数日のうちにコロリと死んでしまうためコロリです。当時の日本の侍は、コロリを、頻繁にやってくるようになった異国船によってもたらされた伝染病であると見て、異人を見つけては殺害するようになります。結果としてコロリが攘夷運動に発展し、つまるところ倒幕に至ります。

 そうした中で一蝶斎は、幕府からの信頼も厚く、安政5(1858)年、8月25日に、イギリスの使節団に手妻を見せることになります。場所は、使節団の宿泊している、芝の西応寺です。この時の一蝶斎の手妻を、使節団のジェラード・オズボーン海軍少将が日記に詳細に記録をしています。そこを抜き出して見てみましょう。

 

 その手品師は紳士然とした立派な人物で、ゆったりとした絹の礼服に身を包んでいた。彼には絶え間なく小太鼓を叩く軽薄そうな助手がいた。それは、我々の背後にいる日本の役人を十分に楽しませていた。この老手品師は、以前我々が見たことのあるような手品をいくつか演じた後、蝶の手品を演じた。蝶が始まると、我々全員が驚きの表情を浮かべた。

(略) 離れに拵えた二重舞台の上に手品師は正座した。背後には金屏風があり、そこには青と白の絵の具で富士の頂が描かれていた。(略)手品師は薄紙の小片で蝶をこしらえた。(略)蝶は、徐々に、扇の風から生命を与えられたかのようにふるまい始めた。蝶は向きを変え、扇に向かって下降し、その縁に沿って動いたかと思うと、次には舞い上がって空中にたたずみ、まるで晴れた夏の日に、花の上を遊ぶ蝶を見ているがごとくであった。

 そうかと思うと、気まぐれに向きを変えて舞い降り、落ち着きなく羽を震わせる。まさに生きた蝶をそこに見るのである。(略)

 手品師は思い出したかのようにもう一羽蝶を作って、仲間に加え、二羽は一緒に扇の周りで遊び、互いの注意を引きあうように様々な動きをし、更に扇の縁に沿って小刻みに動く。左手の扇を垂直に立てて、二羽の蝶が交互にそこによじ登り、右手の扇が大きく扇ぐと、右にいた蝶が反対側にに移り、また元の位置に戻ってくる。

 牡丹の咲いた鉢が手品師のそばに置かれていたが、蝶がそこに飛び移って、楽しそうに蜜を吸い、互いが口を寄せ合って喜びを表す。やがて、風に乗って優雅に飛び立ってゆく。(略)ひとしきり演技を終えた後も、老手品師は我々のところまで来て、屋根もない所で蝶を飛ばして見せ、手品師の周りや、扇の周りを飛ばせて見せた。(略)今まで見聞きしてきたものの中では群を抜いて素晴らしいものだった。

 

 と絶賛しています。一蝶斎の脇で軽薄に太鼓を打っていたのは、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う芸名の才蔵で、長く一蝶斎の才蔵役を務めていました。当時の手妻師は、太夫と才蔵の二人がコンビで演技をしています。太夫がまじめに演技をしている脇で才蔵は、冗談を言って観客を笑わせます。さすがに蝶の段では冗談は挟まなかったと思いますが、一つ一つの型を口上で説明しつつ進行を助けていたのです。

 この日、同席していたイギリスの、ローレンス・オリファントも、記録に書き残しています。同じ演技のはずですが、少し見方が違っていて、興味があります。

 

 品のいい老人で、目が鋭く、立派な聡明な顔立ちをしていて、白い顎髭(あごひげ)を生やしていた。これまでこの国でこれほど優れた容貌を見たことがなかった。

その服装はエジプトの手品史が来ていた服装によく似ていた。その同窓とした風采を増すのにふさわしいものだった。

 

 ここでも一蝶斎の顔立ちの良さを褒めています。顎髭を生やしていたと言うのは、新発見です。晩年に生やし始めたのでしょう。エジプトの手品師の着ている服に似ている。と言うのは、夏の、絽や紗で出きた薄い絹の服のことか、芭蕉布のような南方系の着物の生地を指してそう言ったのか、いずれもそうした衣装で手品を演じていたことは興味深いものです。

 オリファンとはまた、一蝶斎の前半の手妻の関しても細かく記述をしています。蒸籠、紙卵、紙片から傘出しに至る一連の芸は、天保13年に、子供だった信夫恕軒が見た一蝶斎の演技の流れとほぼ同じです。

 この、オズボーンとオリファントの日記が、その後、ヨーロッパに伝わり、一蝶斎の芸が広く知られるに至ります。無論、文章だけでは演技の内容は詳しくはわからないわけですが、それから約10年して、パリの万国博覧会に、一蝶斎の弟子の浅吉が出て、蝶を演じ大当たりをします。

 一蝶斎の人生を見てみると、彼が当時の芸人の中では桁違いの人であったことがわかります。背が高く、体格がよく、顔だちが誰よりも優れていて、頭がよく、手妻に関しても、かなり細かく色々な作品をアレンジしています。人として手妻師として申し分がなく、やる興行はどれも大当たりで、晩年まで恵まれた仕事をし、数十人の弟子を育て。82歳の寿命を全うして亡くなっています。若くして売れても、晩年不幸な人が多い芸能の世界の中で、稀なほど恵まれた人生を送っています。

あぁ、願わくば私もそういう手妻師になりたい。

続く