手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

伝える力

 昨日(30日)は、早朝にブログを走り書きをして、急ぎ踊りの稽古に行ったため、誤字が出たり、大事なことが半分も伝わらなかったのではないかと思い、再度、詳しくお話しします。

 今回のコロナウイルスの騒ぎのように、人を集めてはいけないとか、公演するにしても人数を制限しなければいけない。となると、事実上、ショウを演じることはほとんど不可能になります。当然多くの芸能人は仕事に詰まって、どうしていいかわからなくなってしまいます。悲観してばかりいてもどうにもなりません。有り余った時間はチャンスです。有効に活用しなければいけません。

 今まで忙しくてできなかったこと。やりたいと思っていても考える時間がなかったことなど、とにかく自分の活動を前進させるために、いろいろ動いてみることは大切です。ただ悩んでいても問題は解決しません。然し、自分一人がやみくもに行動しても、出来ることはわずかです。もう少し大きな成果を手に入れたいと望むなら、今、自分が何をしようとしているのか、今している行為がうまく行ったらこの先にどうなるのか、折々に触れて、自分の行動を周囲に知らせておくことが大切です。

 先ず行動する前に、周囲の人に、自分の意思を伝える。これはとても大切なことです。私は常に、誰かれ関係なく、今していること、この先やろうとすることを話をします。すると、思いがけない人から、「あぁ、それを作ってくれる人を知っているよ」。等と、情報がもらえる場合があります。ここが人生の面白い所です。

 

 水芸のからくりを作るときなどは、世の中に水芸の装置の製作者などと言う人はいません。まったく当てのない中で人を探さなければならなかったのです。

 刀の刃の中心から水が噴き出す仕掛けなどは、既製品などありません。刀から製作しなければいけません。薄く細く長い刀の軸の中心から穴を抜いて行き、それを刀の中心から90度向きを変えて、細い刃の峰から水を吹き出させるのは至難の業です。しかし世の中にはそれができる人がいたのです。指輪の製作をしている人に長く細い穴をあけてもらい作りました。30年以上経た今でもその刀は現役で活躍しています。

 また、水芸の心臓部分、ピストンを操作する基盤は、日本で噴水の製作者の第一人者に作ってもらいました。それまで自分で作った装置で演じていましたが、故障が多く、失敗も多かったのです。経費は相当にかかりましたが、日本の歴史の中で一番いい水芸の装置が出来たと自負しています。

 お椀と玉のお椀を捜し歩いたときも苦労しました。植瓜術の大きな笊に和紙を張って漆を塗る作業も、全く手掛かりがありませんでした。瓜のサンプル作りも人を探すところから始まったのです。

 木工職人も、桐箱職人も、金銀細工師も、指物師も、漆塗りの職人も、金蒔絵の職人も、悩んでいると、ひょっこり思わぬ人の情報で知り合うことが出来ました。

 全く偶然で、人と人がつながって行きます。お陰で、どれほど新しい活動が開けて行ったか分かりません。一人で悩んでいては何も前に進まないのです。いい仕事をしたいと思ったら、プロを知らなければいけません。そして、知り合ったプロを仲間にしなければいけません。仲間の層が厚くなって、初めていい仕事ができるのです。

 問題解決のために情報発信をする。それがブログであったり、書籍や、youtubeであってもかまいません。どんな方法でも、まず、自分のやりたいことを先に示して、その道のエキスパートを探すことです。人前で見せるなら思いっきりいい道具で、夢のある舞台をしたいものです。常にアンテナを張っていい仲間を集めることです。

 目的を持って、情報発信をする。この繰り返しができる人は自然に仲間ができて、問題の解決を早めます。そして豊かな人間関係を作って行けます。マジックの悩みをマジックショップのケースの中をのぞき込んで、マジックの小道具だけで解決しようと思わないことです。そこから生まれるものは亜流のマジックにしかなりません。

 

 話は飛躍しますが、マハトマガンジー(1869~1948)と言う人は、政治家、哲学者として一流な人ですが、それ以上に、情報操作の天才でした。インド建国の父と呼ばれて今も尊敬を集めているガンジーは、残された写真から見ると、粗末なサリーを着て、素足で、糸を紡いでいたりして、貧しい階層の人のように見えますが、どうしてどうして、実は貴族の出で、彼は若いころにイギリスに留学して、弁護士の資格を取っています。しかしイギリスでひどい差別に合い、知識を持っていようと、所得が高かろうとも、インド人であると言うだけで差別の対象になってしまうことに憤りを覚えます。彼は、イギリス領の南アフリカに行き、差別を受けている人のために弁護士活動をします。それがやがて大きな抵抗活動に変わって行きます。

 学生時代、彼はインド哲学を学びます。それを生かして南アフリカで、人と争うのではなく、非暴力、非協力の活動を始めます。差別をする人の仕事に協力をしない。差別をする企業の品物を買わない。そうした活動を展開して、度々投獄されます。

 然し、彼の優れた点は、自分が何をしているか、どうしたいのかを、イギリス本土に手紙で送り、それを新聞記事で展開して見せたことです。如何に英国人が、植民地で非道な行為をしているか、いかに多くの人が差別のよって虐げられているか、役人の不正や、軍人の無謀な行為で現地人が亡くなっているか、度々新聞で攻撃したのです。

 すると、英国人の中の開明的な人が共鳴して、現地で如何に英国人が悪逆非道を繰り返しているかを知り、英国本土で大きな運動に変わります。ガンジーは世論を味方につけたのです。

 その後インドに戻って、インドの独立運動を始めます。彼のやり方は徹底していて、軍隊の圧力に対しては、徹底して比抵抗を貫きます。抵抗しないことをいいことに、インド人を殺戮したり、怪我を負わせたりすると、すぐに被害状況をイギリスに送ります。すると英国人の良識派がその非道を攻め立てます。

 そうなると、総督府も軍隊もガンジーに手が出せなくなります。総督府が、塩を専売制にして、暴利をむさぼると、ガンジーは、「みんなで塩を作ろう」。と呼びかけます。何をしたかと言えば、みんなで海岸まで歩いて行って塩水を汲んできたのです。ただそれだけの行為が、何十万と言う人を集めたのです。800キロに及ぶ後進になって世界中の話題となったのです。

 インドでは綿花を作りながらもインド人が低い賃金で苦しんでいます。方や、英国がシャツや下着を作って稼いでいると、ガンジーは、「昔のように、綿を紡いで衣服を作ろう」。と呼びかけます。そこで自らが粗末ななりをして、糸を紡いでいる写真を英国に送ります。その写真は話題になり、直ちにTIMEの表紙を飾ります。

 そして、インド人は英国製の衣服の不買運動を起こします。こうして、行動を逐一世界中の人に伝えながら、比抵抗、不買運動をつづけたのです。

 比抵抗、不買運動ガンジー一人でしたならたちまちつぶされてしまいます。世界中の人を見方にして、支持者を集めたからこそ、戦わずしてインド独立が出来たのです。一見粗末ななりをして糸を紡いでいるガンジーが、実は裏で頭脳を使って、知識人を集め、マスコミを動かしていたのです。

 私は、今、多くの芸能人が出演の場もなく苦しんでいることを、こ先も度々ブログで訴えようと思います。

続く