手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時流を読む 6

時流を読む 6

 

 30代の私は、スペースイリュージョン、和風イリュージョン、水芸の3つのスタイルのイリュージョンショウを持って活動していました。どれも40分の構成です。その中で今も演じているのは、断片的な和風イリュージョンと、水芸です。

 20代にひたすらイリュージョンを考え続けて、これらの作品を作りました。どれもバブルの時期は大きな収入を上げました。然し、前にお話しした通り、30代半ばにスペースイリュージョンも、和風イリュージョンも、どちらも興味を感じなくなってしまいました。なぜ興味がわかなくなったのかと言うなら、「内容がない」からです。

 内容がないと言っても、例えばスペースイリュージョンは、モノトーンで道具が統一されていますし、近未来をテーマにしてロボットが出て来たり、イルミネーションを使って幻想的なショウ構成がされています。しかし全体を見終わって何をお客様に伝えたいか、と言うと、そこにあるのはイメージであって、大きな意味はないのです。

 和風イリュージョンも同様で、何もないところから大きな帆掛け船が出てきて、そこから女性が何人も現れて踊りを踊ってオープニングを飾ります、次の景では大きな行灯(あんどん)が出てきてそこに人影が写り、人影の首が伸びて、行燈の上から顔を出します。ろくろっ首です。浮揚などあっておしまいは、悪漢と正義に見方が太刀回りをした挙句、女性を助けてめでたしめでたしで終わります。

 スペースも和風も小さな景ごとにストーリーがついていて芝居にはなっていますが、そのストーリーがお客様が感動する内容かと言うなら、それはマジックを進行させるためのストーリーに過ぎないものでした。

 確かに、ストーリーがある分、なぜ剣を刺すのかという理由付けができていて因果関係は伝わります。昔ながらのマジシャンが演じているような、まったくストーリーも何もなく、箱を出してきて、そこにアシスタントの女性が笑いながら入って行き、それをマジシャンが箱の外から剣を刺す。という、即物的な演技と比べたなら多少の進歩はしています。でもそれ以上のものにはなり得ていなかったのです。

 

 一方、水芸には全体の構成ができていますし、古典としての型も残っています。特に、手先に持った扇の先から水を噴き上げ、左手に持つ羽子板にその水を移す「綾取り」の段などは個性的で、よく考えられています。

 水芸は、前半と後半では演者の人格が変わります。前半は狂言の大名と太郎冠者のような関係で始まります。水を出す術を演じるのですが、時に水が出なかったり、間違って別のところから出てしまったり、とても人間的にコミカルに演じます。

 後半、椅子に座ってからは、全知全能の神のごとく、自在に水を操ります。前述の綾取りもここで致します。お終いは一斉にあちこちから水を噴き上げて、華麗な姿を見せます。後半全体は、天上で神様が無心に戯れているかのような、この世の世界でないような景色を作り上げるのが趣向です。

 全体を見たときに、お客様がどんどん高みに上がって天上の世界に引きずり込まれて行くような錯覚を持ったなら、水芸の世界は完成したことになります。そしてまた一瞬で水が消え、元の状態に戻るところは、天上の世界から急転直下で現実の世界に軟着陸するような、まるで浦島太郎が玉手箱を覗いた後のような寂寥感を残りつつ終わるのです。実に味わいがある終り方です。

 結局私は水芸を持っていたから、通常のイリュージョンに満足できなかったのです。水芸は、手妻(マジック)である以前に、多分に演劇や舞踊の要素が濃いものです。演者が芝居を理解してきっちり演じ切れていないと、独自の世界が作り出せないのです。

 私がブログでも度々申し上げているように、マジシャンはマジックを演じる以前に芸能がわからなければいけない。とか、演劇要素や、踊りの要素をもっと理解しマジックを演じなければ芸能たり得ない。と言う意味はここにあります。

 

 但し、水芸のことをいくら書いても、誰も水芸を演じる人などいないでしょうから、殆どの方は、まったく他人事のようにこのブログをお読みになっていると思います。

 「藤山さんはよく、ただ着物を着て傘を出せば手妻になるというものじゃないと言いますよね。それじゃぁ何をどうしたら手妻になるんですか。マジックと手妻は何が違うんですか」。と尋ねて来る人があります。そんなときに水芸や蝶を例に出して話をしています。

 「もしあなたが、演出家に、『水芸の欄干の後ろに座って、神様が無心に戯れているように水を出して御覧なさい』と言われたら、あなたはどんな顔をして、水を出しますか。また、『全知全能の神のごとくに自在に水を噴き上げなさい』。と言われて、全知全能の神とはどんな表情をして水を出しますか、水を出すことは仕掛けを知れば出せるでしょう。全知全能の神の表情と言うのはどこにも解説されていません。それをどうやって見つけだして演じますか。

 或いは、『すべての水を出し終わって、寂寥感を残しつつ終わる』というのは、どんな表情で終わることですか。そんなことをマジックをする上で考えたことがありますか。お客様は水がたくさん出たから感動するのではありません。天上の景色の中で水を出し、寂寥感を込めて水を止めて見せるから生涯忘れられない印象を与えるのです。

 それを一つ一つ考えて、丁寧に表情付けするのが手妻です。お客様にありもしない世界を隅々まで詳細に語って見せること、それが手妻なのです」。と答えています。

 多くのマジシャンはそれを聞いて、ただ目をぱちくりするばかりです。マジックを演じる上でそこまで演技や表情付けなど考えたこともないから見当がつかないのでしょう。それは自身のマジックからそこまで内容を求められていないからなのです。

 手妻は演技になぜ、どういう理由でを求められます。弟子が稽古をする際でも、私は、「もっと品格をもって扇を構えなさい。顔は憂いを湛(たた)えつつ空(くう)を眺めなさい」。と注文します。そう言われたら、どんな形で構えをしますか。どんな表情をしますか。それができなければ手妻にはならないのです。そこを一つ一つ探って行き、自分なりに答えを出してゆくという活動こそが手妻なのです。それは、苦しく孤独な活動なのです。

続く