手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の東京 3

昭和の東京 3

 

 私が子供の頃に住んでいた町は東京大田区の池上でした。銀座や新宿のような繁華な町ではありません。静かな住宅街でした。池上もはずれの一ノ蔵と言う地域の、大きな家の一角に家を借りて暮らしていました。

 ガスは通っていましたが、水は井戸でした。さすがに釣瓶で汲み上げるような仕組みではなく、手動式のポンプで汲み上げていましたが、それでも朝に一日に必要な水を汲み上げて、甕に水を貯めていました、毎朝の仕事でしたが、これは主婦にとってかなりの重労働です。

 私の祖母の家は池上の中心に住んでいましたが、そこも共同の井戸でした、周囲7,8件の家が共同で、一つの井戸を使っていました。井戸の周りで近所の主婦が盥を持って集まって、よく洗濯をしていました。井戸端会議と言う言葉がありますが、幼かった私には言葉の意味は説明されなくてもすぐわかりました。毎日祖母が近所の主婦と和気あいあいと洗濯をしながら世間話をしていたのです。

 水を汲むと言う何でもない作業が、私の子供のころまでは大変な作業でした。風呂は近所の銭湯に出かけていましたが、田舎では直風呂を使います、風呂のある家は贅沢かと言えば、決して贅沢ではなく、自宅の風呂桶に水を張る仕事がとんでもなく重労働です。

 風呂に入ると言うのは、大仕事で、毎日は無理でした。事前に薪を割っておかなければなりませんし、水汲みが半端な量ではありません。せいぜい3日、4日に一遍、時に一週間に一遍が精一杯だったのです。

 井戸水は冷たいため、汲んだ水をすぐに風呂桶に入れると温まるまで時間がかかりますから、日中は、庭にたくさん桶や盥を並べ、そこに水を張って、天日で水を温めておきます。それを夕方風呂桶に移して、薪で風呂を焚きます。蒔割りから水汲みから、家族総出で仕事をして、ようやく風呂に入れたのです。

 そうした人たちが、年に一度、熱海や、湯河原の温泉に行って、ご馳走を食べて、風呂に入ると言うことが、どれほど有り難い体験だったかは言うまでもありません。現代の我々が、温泉に行って遊ぶことと、昭和30年代までの日本人が温泉に行くこととは全く別物の感動だったのです。

 

 と、私の話は長くなりましたが、水芸の水が吹き上がるのを見たときの、現代のお客様の感動と、江戸時代のお客様の感度は全く別物だったはずです。今のお客様なら、奇麗だ、不思議だと言って、見た様を感じるでしょうが。

  江戸時代、いや、つい60年前までは、水は汲んで来るもの、汲んだ水は担いで運んで来るものだったわけで、手妻師のほんのわずかな手先の呪(まじな)いで、水がシューっと吹き上がる手妻は、種仕掛けを問う以前に、理屈を飛び越えて、人々の憧れだったのです。

 「あんな風に、呪い一つでいとも簡単に水を出せたら、毎日の仕事がどれほど楽だろう」。と、水芸を見て多くの人は思ったことでしょう。つまり当時の手妻は、多くの人が「こうあってほしい」。と言う夢や憧れを実現して見せていたのです。しかもその憧れが生活に密着した労働からの解放だったわけですから、舞台に対する思いは、今では考えられないほどの大きな感動につながったのだと思います。

 江戸の柳川一蝶斎の水芸は、大きな桶に水を張り、明かりの付いた吊り灯篭を舞台の天井に吊るしてあり、紐を緩めて、桶の中に灯篭を沈め、しばらくして灯篭を上げてみると蝋燭が灯ったままと言う手妻(吊り灯籠)を演じ、そのあとで、桶の水に半紙を浸すとそこから炎が上がる(水中発火)。を演じました。

 そのあとで、桶の水を扇子で仰いでいると徐々に水の真ん中から水が吹き上がってきます。水は上がったり、下がったり、止まったりしますが、水芸はこれでお終いです。一筋の水が吹き上がると言うだけのもので、江戸時代の水芸は実に地味なものでした。

 

 現代の水芸の要となる演技は、一番初めに瓢箪から湯飲みに水を移し、湯呑を扇で煽いで一筋水を立ち昇らせるところです。これは一蝶斎以来の伝統的な水芸です。その後たくさんの場所から水が出ますが、先ず初めの一本が奇麗に吹き上がることが水芸の価値を決定します。

 次に重要なのが、途中の綾取りの段で、湯呑から吹き上がる水を、扇子で掬い取る段です。水を掬い取ると言う動作は、実際には不可能で、吹き上がる水に扇子をかざせば、扇子から上の水は消えてしまうはずです。それが扇子を突き抜けて吹き上がり、しかもそれを掬い取っても水が扇子の先から吹き上がったままと言うのは矛盾した演技です。

 然し、実際見ると矛盾でも何でもなく、実に美しいハンドリングです。この水の掬い取りは、明治初年の中村一登久(いっとく)が考え出した方法です。実はこの方法が生まれたために、水芸はこの後、100年生き延びることが出来たのです。

 一登久は湯呑から掬い取った水を、刀の中心に移しました。すると水は刀のの中心から吹き上がります。刀の中心から水が出ると言う装置は、一登久以前からあったのです。然し、湯呑の水と刀の水は何の関連性もなかったのです。

 水は、湯呑と刀の他にも、花瓶や、煙草盆に置いた煙管(きせる)の雁首(がんくび)から水が上がったりしました。然し、いくら水の出る箇所を増やしても、それらの水は何ら関連性がなかったのです。一登久以前の水芸は、あちこちから一通り水を出してしまうと他にすることがなく、そこでお終いになったのです。

 ところが、一登久は、扇子で水を掬う動作を考え、掬った水を他に移す動作を加えました。こうしたことであちこちから出る水が太夫の意思で有機的につながりました。そして水芸に手順が生まれました。更に一登久は、これを囃子に乗せて、振りを考えました。こうして水が出たり消えたり移ったりを囃子に乗せて、まるで舞踊を見るような演技を作り上げたのです。

 これが完成したのが明治13年ごろ。ここから水芸は飛躍的に発展し、派手で豪華な演技になって行ったのです。折から日本中に大きな劇場が出来て行き、手妻も劇場進出して行きます。芸能がより大きく派手な演出を求められるようになり、その流れに乗った一登久は大成功をします。

続く