手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

何もすることがない時

 そろそろ一蝶斎もまとめなければいけません。一蝶斎の元原稿は、「手妻のはなし」(新潮社刊)を書くために15年前に集めた資料から書いています。「よく藤山さんは、毎日2000字以上もの原稿が書けますね」。と尋ねられますが、種を明かせば元となる原稿から、かなりの部分を抜き出しているのです。その他、思いつくまま、随筆なども書いていましたから、そこから抜き出して、毎日公開したわけです。

 元の原稿には、新潮社の都合で、割愛した部分も書かれています。大体私の話は長いものですから、本を出そうとすると、依頼された倍くらいの原稿を書きます。そのこぼれた部分が勿体ないために。こうして再利用しているわけです。

 でも、50歳で本を書こうと思い立ったのはいい事でした。今では膨大な手妻の資料を一から調べて本にする気力がありません。やはり50代の時の行動力はすごいと、人ごとのように思います。

 

 何もすることがない時

 本来なら、一蝶斎を書かなければならないのですが、私の苦しかったころの話をします。私が33歳(昭和63年)の時に、天皇陛下が倒れられて、夏から舞台の依頼がばったりストップしました。時はバブルの最盛期で、私はアシスタントや、裏方まで、数人の人を雇っていました。それがぱったり仕事が止まって、頭を抱えてしまいました。こんな日がいつまで続くかわかりません。でも、人を雇っている手前、弱気は見せられません。負のスパイラルから気分を転換して立ち直って見せなければいけません。

 そこで、「稽古をしよう」。と思い立ち、リハーサル室を何日も借り、基本の稽古、手順の稽古をしました。これが自分の本当の力を見つけることに役立ちました。これまでの自分の演技がいかに雑だったか、いかに突っ込みが弱かったかがわかりました。稽古で気づいたことはメモを取り、翌日はそこを重点的に稽古をしました。

 その年の秋に芸術祭に参加して、公演を打ちました。収入のない中で、リサイタル公演は本当に大変でした、金は随分かかりましたが、マンションを担保に500万円を銀行から借りました。これで怖いものなしです。これが文化庁の芸術祭賞の受賞につながりました。33歳でした。大衆芸能部門では最年少でした。これがその先どれだけ多くの仕事につながったか知れません。仕事がない、金がないといって泣いていたら何も手に入らなかったのです。

 

 その後、30代でバブルがはじけて(平成5年)、いきなり収入が3分の一に減った時、まさかこんな時代が来るとは予想もしていなかったので、たちまち生活に窮しました。芸術祭賞受賞の後(平成元年)チームを株式会社にして、家と事務所を一緒にして、高円寺にビルを建てました。子供も生まれました。まさに順風満帆の人生でした。それが数年で根底から崩れました。

 何しろ都市銀行が倒産する。山一證券が倒産する。絶対安泰と思われていた銀行や会社が軒並み倒産したのですから、東京イリュージョンなどは、はたから見たなら、かんな屑のようなものです。いつ無くなっても誰もなんとも思われない状況です。

 毎日仕事がありません。そこで、余った時間で自分の演技を見つめ、ひたすら稽古をしました。その時、ただ物が出る、消えると言うマジックに満足できなくなり、そこから本気で手妻の研究をすることになりました。それが結果として、今日の数多くの手妻の作品をまとめ上げることにつながりました。二度目の芸術祭(平成6年)受賞以降は私の手妻の評価が上がって、手妻で仕事を維持してゆけるようになりました。バブルが弾けて収入が減少したことは、不幸ではありましたが、結果として、新たな財産を天が与えてくれたのです。

 43歳で、父親(南けんじ)が亡くなりました。大腸がんから、肺がんになって亡くなりました。それは前々から承知していたことでしたので、大きなショックはありませんでした。然し、私は、ここらで自分のしていることを本当の本物にしたいと考えるようになりました。

 中途半端なことはやめて、何から何まで本物なりたいと思ったのです。平成9年の12月に親父が亡くなり、あくる1月に、さて、本物になるためにどういう行動をしたらよいかといろいろプランを書いて、考えていました。

 すると、クロネコヤマトの元社長さんの都築幹彦さんが訪ねて来てくれました。本格的に手妻を習いたいから、月に2回稽古をつけて欲しい。と言うのです。無論了解しました。するとすぐに、千葉大学の名誉教授の多胡輝(頭の体操でおなじみの)先生が同じように入門してきました。このお二人が、熱心に習われて、しかも、長年私が、本当の指物師や、漆塗りの職人、蒔絵師に作らせた道具を作りたいと思っていたところ私が、作るものはすべて買ってくれました。

 これで一気に本物志向に弾みが付きました。道具も衣装も最高のものを揃えて舞台を再構築しようと考えました。これが(平成10年)の芸術祭大賞受賞につながりました。私の人生は、窮しているときに必ず誰か救いの手が現れます。それは有り難いことだといつも感謝しています。何にしても、体に空きが出た時は、何か行動をして、考えたことは必ず形を作り上げるようにしてきました。それが多くの成功につながりました。

 50歳になって、糖尿病が悪化して、それからアルコールをやめました。すると、夜になるとすることがありません。そこで本を書くことにしました、それが今に続く著作の仕事に結びつきました。アルコールをやめることは悲しことですが、結果として、健康と、文化的な活動を手に入れました。これがその後に人生に大きく役に立ちましたから、糖尿病になったことは私にとっては幸いです。

 さて、この度コロナウイルスで芸能人は、多くの舞台を失いました。そこで私は、ブログを書いています。更に新しい手妻(と言ってもアレンジですが)、を工夫しています。この活動が将来の役に立って、先々の人生を楽しくしてくれるなら、コロナウイルスも決して悪くはなかったと思えるでしょう。

 人は思いようです。晴れも曇りも、下界で生きているものの杞憂に過ぎません。3000m上空は一年中晴れているのです。全てはそんなものかと思って、達観して生きていれば、いつでもチャンスは手に入ります。悲しいも苦しいも一時のことです。過ぎてしまえばどれも楽しい思い出です。泣かずに挫(くじ)けずに生きることです。前向きに生きている者を天は見放しません。

 

 但し、悩みも、苦しみも、解決方法も、自分がどうしたいのかも、常に外に向かって発信することです。外に語らなければ、何も伝わらないのです。天は前向きに生きている人を見放さないとは言いましたが、あなたが前向きに生きているかどうかを天は知らないのです。仏教の教えで、「縁なき衆生(しゅじょう)は度し難し(どしがたし)」と言う言葉があります。縁なき衆生とは、縁のない人々です。度し難しとはどうしてあげようもないと言うことです。如何にお釈迦様でも、縁のない人は助けようがないと言うことです。

 たまには寺に来て手を合わせて拝みなさい、念仏や題目の一つも唱えなさい。そうでなければどうしてお釈迦様があなたを助けてくれますか。と言う話です。このことを少し現代風に考えて、自分が何をしたいかは常に周囲の人に伝えておくことです。こうしたい、ああしたい、誰か協力者はいないか。それを言葉でも文章でもネットでも、舞台の上からも伝えることです。伝えなければあなたのしたいことはなにもわからないのです。書くことも、表現することも芸術家の仕事です。そこを疎かにしないことです。

続く