手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

下津井港(しもついみなと)

 明日はヤングマジシャンズセッションです。昨日稽古をしました。稽古は毎回発見があります。自分自身が日頃、流れで演じていたことが、もう少し気持ちを入れなければいけない箇所が見つかったりします。そんなところが見つかると妙にうれしく感じます。その後、ホルダーのほつれなどを弟子と一緒に修繕直しました。

 と、こう書くとのどかな秋の一日に思えますが、実は、来年1月のショウの企画が舞い込んできたために、急ぎ企画書を出さねばならず、会場を押さえ、あちこちのマジシャンに電話をして出演の意向を聞き、予算を計算して、それを前田がパソコンで企画書にして作成しなければなりません。稽古の途中も電話がかかってきて、なかなかじっくり稽古のできる状態ではありませんでした。久々忙しい一日でした。うまくこの話がまとまるといいと思います。

 

 今日はテレビ局のプロデューサーが訪ねて来ます。二本の番組の打ち合わせを同時にします。それが済んでから、中目黒の床屋さんに行ってきます。私の髪の毛は40年来、緒方さんに刈ってもらっています。尾形さんは初めは六本木でヘアサロンをしていて、そこには当時の映画スターや、歌手がたくさん来ていたのです。今でも美川憲一さんのお宅まで行って、整髪しているようです。

 中目黒でマーシャル緒方と言う店を経営していたのですが、子育ても終わり、年齢もあってか、店を閉め、近くのマンションを借りて、看板も出さずに、今までのお付き合いのある人だけ整髪するようになりました。

 私もその一人です。床屋さんはあまたありますが、やはり長くやってくれていた人でなければとても髪の毛は任せられません。毎月一度、それほど多くない髪の毛を刈ってもらいに中目黒に行っています。

 マーシャルを終えてすぐに事務所に戻り、今日中に企画書を完成させて、提出します。うまく行くと、来年正月早々、大きな仕事ができます。有難いと思います。

 

下津井港

 手妻の研究家で山本慶一先生(故人)が、長らく下津井と言う町に住んでいらして、20代だった私は、ずいぶん何度も山本先生のお宅に伺い、泊めて頂いて、古い資料を見せていただきました。当時手妻の研究家はごくわずかで、東京では平岩白風先生。関西では藪晴夫先生。そして岡山の山本慶一先生。他にも小倉の中野金一先生など、数えるほどで、私はつてを頼って片端から訪ねて行き、昔の資料を見せていただきました。

 その中でも資料の数の多さと言い、研究の量と言い、断然抜きんでていたのが山本先生でした。山本先生は、下津井小学校の校長先生をしておられて、その後定年退職されて倉敷市の図書館の館長をされていました。晩年は、下津井の町の、昔の回船問屋を改装して博物館を作り、そこの館長を務める予定だったようですが、私の知るところでは、博物館の完成を待たずに途中で亡くなられました。

 生涯教育者として働き、マジックは全くの趣味でしたが、ボランティア活動などもされていたようです。小学校の教え子の中でマジックの好きな少年(末原さん)がいて、その子を三代目帰天斎正一に紹介し、弟子にしてもらいました。後の六代目帰天斎正一です。研究の多くは、古書集めと、小道具集めでした。写し絵(幻灯機)の種板や、機械などを所有していました。

 私が初めにご縁を持ったのは、私が初めて芸術祭に参加して、100年前のマジックショウと言うタイトルで、古い手妻を再演した時でした。その時私は27歳、今から39年前のことです。「一里四方取り寄せの術」と言うものを復活させたくて、実物を山本先生が所有していると聞いて、その前年に下津井を尋ねました。道具は帰天斎の物でした。立派な木製の箱で、中が銅張の流しになっていて。お客様の注文で、例えば隅田川の水、バケツに30杯などと言う無理な注文も、瞬時に水を出して見せたのです。そのための銅張でしたが、見事な細工でした。これを基に製作させていただき、芸術祭参加公演で演じてに大いに話題を集めました。

 

 下津井は、町ごとそっくり歴史のかなたに置き去りにされたような街で、岡山県の南端、瀬戸内海に面して、小さな入り江があって、その周りに迷路のような細い道が出来ていて、そこに木造の家がひしめくように並んでいました。どこもかしこも古く、その昔は賑わっていたのかもしれませんが、今では日中でもひっそりと静まり返っていて、よく言えば静かですが、何ともさびれています。江戸時代は風待ち、台風除けの避難をする港で、入り江に回船問屋が立ち並び、裕福な町だったようです。

 この時期私は、九州、中国、四国のマジッククラブを指導して廻っていて、広島、岡山と車で指導をして回り、その晩に下津井まで行って山本先生宅に泊まり、手妻の話をするコースが出来上がっていました。

 先生はいつでも私が来ることを心待ちにしていて、酒と、肴を用意してくれていて、夜遅くまで話をしました。朝には下津井の港から四国の多度津の港までカーフェリーが出ていましたので、フェリーに車を載せて四国に渡りました。

「もうじきなぁ、ここから橋が出来て、四国までつながるんじゃぁ。うちのすぐそばに今、橋げたが出来ている。そうなれば、四国と岡山がつながって便利になるが、下津井の町はますます忘れられて行くじゃろう」。と寂しげに言っていました。

 私が船に乗っても去らずに、下津井の港で防波堤に立って、私の乘っているフェリーに向かっていつまでも手を振って見送ってくれました。

 山本先生は、私のショウを東京まで見に来てくれまして、私の演じるものはどれもとても喜んで見て下さり、「あぁ、実際資料で見るのと、演技を見るのはこうも違うんじゃなぁ」と感心しておられました。毎年行き来は盛んにいたしました。私が下津井に伺うのも、もう何十回にもなりました。

 体を悪くされてから、私に「必要な資料なら何でも上げるから持って行きなさい」。と言ってくれましたが、当時、私はマンション住まいでしたので、荷物を増やすことが出来ません。一里取り寄せの箱や、写し絵のからくりなどは欲しかったのですが、やむを得ずお断りしました。

 その後山本先生は国立劇場の資料館に道具と書籍を寄贈しました。今思えば何が何でも貰っておくべきでした。それでもいくつかの物は頂きました。天勝の資料、帰天斎の資料など、どれも二つとないものばかりです。今も宝物として大事にしまってあります。私が今日あるのも山本先生のお陰なのです。

続く